第一話 三.ジャズ楽器店での憂鬱
少しばかり時は遡り、麗那がファッション雑誌向けの写真撮影に精を出している頃。
ここは、アパートの住人たちにとってお馴染みの商店街、そこに店舗を構える、高価な管楽器を華やかにディスプレイした「パンジー楽器店」。
この楽器店は、音響設備が整ったライブスタジオを店舗奥に併設しており、楽器店の店主である谷栄輔がリーダーを務めるジャズバンド、「ローリングサンダー」の活動拠点でもあった。
時刻は夕方4時を過ぎた辺り。まさに今、ローリングサンダーのメンバーたちの、貫禄ある熱のこもった生演奏が行われている最中だった。
躍動感溢れるジャズライブを、パイプ椅子で作った観客席で鑑賞するアパートの住人が二人。
「・・・どう?由依さん。なかなか迫力ある演奏でしょ?」
「管理人さん。演奏中はお静かに。」
人差し指をピンク色の唇に宛てて、隣の席にる真人を注意する高校生の由依。ごめんなさいと小声でつぶやく彼は、肩をすぼめてライブ演奏へと向き直っていた。
真人はこの日、受験勉強漬けの由依に息抜きでもしてもらおうと、もともと関心のあったジャズライブに連れ出していた。それが功を奏したのか、受験勉強だけではなく、誘ってくれた管理人のことも忘れて、彼女はジャズの生演奏にすっかり聴き入っていた。
「由依さん、嬉しそうだな。やっぱり誘ってよかった。」
ゆとりという三文字を表情に見せる由依を横目に、真人はホッと安堵する気持ちを覗かせるのだった。
時間にして20分ほどで、ローリングサンダーのリハーサルは滞りなく終了した。メンバーたちはみんな、大きく息を吐きながら楽器を持つ手を休めている。
その中の一人であるボーカリストが、観客席に座る二人のもとへと歩み寄ってくる。そのボーカリストこそ、衆人環視の前で怯まず歌える精神を取り戻した、この二人と同じ住人のジュリーであった。
「由依、どうだっタ?わたしの歌声、なかなかさまになっていたでしょウ?」
袖をまくり上げた紺色のトレーナーに、七分丈のレギンスパンツという格好で、ジュリーはいかにも、ご近所からやってきましたという感じの服装だ。実際のところ、リハーサルのたびに、煌びやかなドレスを着ていたらさぞ煩わしいだろう。
学生服を着たままの由依は、その女性シンガーのことを崇めるような目で見つめて、割れんばかりの拍手と大きな声援を送っていた。
「ジュリーさん、とても素敵な歌声でした。正直に思いましたが、これはもうプロ顔負けですね。」
見たままの感動をそのままに伝える由依。あまりの褒めっぷりに、ジュリーは謙遜しながら照れくさそうな顔をしていた。
ジュリーの生声を久しぶりに聴いた真人も、由依と同じぐらい感激していたようだ。これこそ、ライブの場数を踏んだ賜物なのだろうと、彼は心の中でそう実感せずにはいられなかった。
和やかな雰囲気の中で会話する三人のところに、ダンガリーシャツとジーンズを着こなした、白髪交じりの初老の男性がやってきた。バンドではドラムを担当するローリングサンダーのリーダーである。
「やぁ、管理人さん。今日はよく来てくれたね。しかも、高校生の彼女を連れてくるとはびっくりだよ。」
「リーダー、違いますよ。彼女はジュリーさんと同じで、アパートの住人なんです。」
真人に紹介を促されると、由依は起立してから姿勢正しくお辞儀する。学生服をピシッと着用する彼女を見て、リーダーの栄輔も負けじと、襟を正して姿勢よく自己紹介していた。
少女の割に実直な性格の由依は、リーダーのみならず、休憩している他のメンバーにまで、労いの声を掛けつつ自己紹介していた。それを眺めていた栄輔は、大和撫子な女の子だねーと、唸り声を上げて感心するのだった。
「そういえば、リーダー。ジュリーさんから聞いてますよ。あちこちから、ライブの依頼で引っ張りだこらしいですね。」
真人が言う通り、ローリングサンダーのここ最近の飛躍は目まぐるしいものがあった。
東京都内や近県だけではなく、遠方からオファーが届くこともあり、アマチュアバンドの中では群を抜いた人気ぶりを誇っていた。これも一重に、ジュリーというプロ顔負けのボーカリストが参加していた証しであろう。
有名になることは喜ばしい限りだが、ジュリーを除くメンバーたちは皆、それなりな年配者でもあり、遠方への移動にはかなり四苦八苦しているという。
「何、言ってるノ。リーダー、まだまだ若いじゃない。あのドラム捌き、全然衰えていないわヨ。」
「いやいや、もう限界に近いさ。毎度毎度、老体にムチ打って踏ん張ってるだけだよ。」
リーダーのことを励まし、支えるように、彼の両肩を揉み解しているジュリー。微笑ましい二人のやり取りを傍目で見たら、実の親子のように見えなくもなかった。
就職浪人で彷徨っていた時に、ステージに立つチャンスを与えてくれた恩もある。ジュリーの心の中には、その恩人である栄輔への忠誠心が、今でも根強く残っているのだろう。
真人が暖かい視線を送る中も、ジュリーと栄輔の親子のような触れ合いは続いていた。
ジュリーの肘が栄輔の肩のツボに当たる。彼はそのたびに恍惚とし、痛いような嬉しいような悲鳴を上げていた。しかしその表情は、とてもご機嫌で幸福感に満たされていたようだ。
「わたしがプロの道に進むまで、リーダーには現役でがんばってもらわないとネ。」
「・・・プロの道か。」
その時、リーダーの表情が少しだけ曇った。目を閉じて、考え込むような顔をしたものの、彼は誰にも気付かれぬままに、気持ちよさそうな顔つきへと戻っていった。
そのすぐ直後のことだった。店舗へとつながるドアが開け放たれて、店員の男性がひょっこりと顔を覗かせた。彼は店主であるリーダーに向かって、アポイントメントなしの来客の訪問を告げる。
「ん?こんな夕方にかい。誰が来たのかね?」
腕時計をチェックしながら栄輔が問いかけると、その店員は困惑の表情を浮かべて返答する。
「それが・・・。昔からの知り合いだと言えばわかると。それだけを申されてました。」
栄輔の表情がまた曇った。しかも、先ほどよりも薄暗く、どこか訝しんでいるような顔つきだ。彼の険しい表情から、来訪者の正体は判別できており、さらに、招かざる来客であることも判断できた。
「・・・わかった。すぐに行くと伝えてくれ。」
密閉されたスタジオ内に、どこからともなく不穏な空気が立ち込めてくる。
リーダーの様子を窺いながら、バンドメンバーたちや、真人に由依さえも、彼の意味深な受け答えに戸惑いを隠し切れなかった。
不安の色を浮かべるみんなの方に顔を向ける栄輔。その時の彼の表情は、とてもにこやかで、落ち着き払ったいつもの彼らしい温厚な表情だった。
「申し訳ないが、来客の応対をしてくるよ。今日のリハはこのぐらいにしておこう。みんな、適当に引き上げてくれて構わないよ。」
ここにいるみんなを心配させまいとしたのか、栄輔は取り繕うように明るく振る舞う。それこそが、リーダーと慕われる彼の、誰もが認める人望と風格というものなのだろうか。
栄輔はまたおいでと、ライブ鑑賞のお客だった真人と由依に別れを告げると、のそのそとスタジオを後にする。どこか異変を感じさせる彼の背中を、真人と由依の二人は静かに見つめていた。
「う~ん、本日の業務はこれでおしまいネ。」
ジュリーは大きく伸びをしつつ、その表情はすっかりリラックスモードである。そんなマイペースな彼女に触発されて、真人たち二人も、張り詰めていた緊張の糸が緩んでいったようだ。
そろそろ帰宅しようと支度を始める真人と由依。そんな二人を呼びかけたジュリーは、お腹の辺りをさするようなポーズをしている。
「わたし、お腹がハングリーなんだけど、もしよかったら、夕ごはんでも食べていかなイ?」
時刻は夕方5時少し前。夕食には少々早い時間帯ではあるが、真人はせっかくだからと、ジュリーの誘いに乗ることにした。
もう一方の由依も素直にうなづきかけたものの、次の瞬間、ガクッと肩を落として黒髪の頭を垂らしてしまった。
「あの、申し訳ありません・・・。わたくし、手持ちのお小遣いがないので、ご一緒できそうにありません。」
由依はご近所への訪問だったこともあり、小さな小銭入れしか持参していなかったらしい。現役の学生でもある彼女にしてみれば、お付き合いのような外食に費やすお小遣いなど、持っていない方が当たり前のはずだ。
塞ぎ込んでいる由依の両腕をそっと掴んだジュリー。青い瞳でウインクした彼女は、お金のことはいいからいらっしゃいと、現役高校生にお姉さんらしい心配りを見せた。
遠慮する仕草を見せる由依を無理やり引き連れて、ジュリーはずかずかとスタジオから離れていく。一人置いてかれまいと、真人も慌てて、彼女たちのことを追いかけていく。
「あの、ジュリーさん。オレのことは、ごちそうしてくれたりするんでしょうか・・・?」
念のために尋ねてみた真人は、振り向きざまのジュリーに、目を細めながら軽く失笑されてしまう。
「マサ、あなたはもう大人でしょう?常識と非常識を考えてから物言いなさいよネ。」
まるで真人などお構いなしに、由依を連れて颯爽と楽器店を出ていこうとするジュリー。一緒に連れていってくださいと哀願する真人は、小走りしながら、背中を並べる彼女たちに喰らいついていくのだった。
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アパートまでの帰り道。夕暮れかかった小道を並んで歩く真人と由依の二人。
さっきまで一緒に食事をしていたジュリーはというと、アルバイト先の先輩から勧誘の呼び出しを受けて、致し方なく、そちらへ付き合う羽目となってしまった。
時刻は夕方6時になろうかとしている。秋風が肌を掠めるように吹き荒び、歩く人々の足を否が応でも逸らせてしまう。そんな薄寒さの中、二人は暖を求めようと帰宅を急いでいた。
「由依さん。帰ったら、また受験勉強するの?」
「そうですね。ライブ鑑賞というストレス発散もできましたし。今夜はもうひと踏ん張りですね。」
由依は嫌な顔一つせず、ただ前向きな姿勢で勉学に励んでいる。
将来、演劇作家の道へ進む目標を掲げている由依。彼女は大学に入学して、文学のさらなるスキルアップを目指しているのだ。
真人も大学合格という、由依と同じ目標を掲げる一人だ。彼は時々、リビングルームのテーブルで、彼女と一緒に勉強することもある。そのたびに、浪人生の彼は、現役高校生の彼女の読解力に驚愕させられていた。
「勉強もいいけど、あまり根詰めると体調崩しちゃうから、無理はしないようにね。」
「承知してます。お気遣い、ありがとうございます。管理人さん。」
真人の先輩らしい気配りに、由依はチャーミングな笑顔をもって答えた。
これは真人の知る限りの話だが、由依は一に勉強、二に勉強の私生活を送っており、学校の友達との交流をこれまで見たことがなかった。
住人たちが集まっている席では、学校の友達に関する話題を話したりはするが、その話題について、由依は大笑いしたり、声を弾ませることなどなかったのである。
そんなアパートの住人のことを、真人はどことなく気に掛けていたようだ。管理人らしい彼の、いつものお節介な性格が出てしまったのかも知れない。
「あら?」
由依のびっくりした声で、考え事をしていた真人がハッと我に返る。
「どうかしたの、由依さん?」
「アパートの方角から、こちらに走ってくる方。・・・潤さんですよね?」
由依の指差す先には、確かに彼女の言う通り、髪の毛を振り乱して駆けてくる女性の姿が映った。
夕闇に紛れていたものの、パンプスを地面に叩きつけて、両手をグルグルとばたつかせながら、ブランド製のバッグを握り締めた女性に、真人は明らかに見覚えがあった。
「間違いない、あれは潤だよ。でもおかしいな。出勤の時刻は当に過ぎてるのに。」
本来この時間、潤は夜のお仕事のために、都内のキャバクラに出勤しているはずだ。もしかすると、これは非常事態なのではないか?と、真人は怪訝そうな顔つきで、彼女がやってくるのを待ち構える。
お互いの声が届くぐらいの距離まで接近すると、大慌ての潤も、立ち尽くす真人たちも、それぞれの存在を目ではっきりと捉えていたようだ。
「あっ!マ、マサとゆいゆいじゃん!」
息を切らせながら、潤は二人の名前を叫んだ。ちなみに、彼女は由依のことを”ゆいゆい”と呼んでいる。
「潤、こんな時間にどうしたんだ?何かトラブルでもあったのか?」
心配そうな顔をしている真人と由依に、潤は腕をブンブン振り回しながら狼狽の表情をぶつけていた。
「どーしたも、こーしたもないぃ!あたしさ、さっきまで学校で居残りさせられちゃってぇ。このままじゃ大遅刻しちゃうんだよぉ!」
潤の言う学校とは、彼女が先月から通い始めた美容学校のこと。どうやら彼女は、課題の提出を怠ってしまったらしく、その罰して、夕方まで居残り学習を強いられていたようだ。
携帯電話で時刻をチェックするや否や、潤は悲鳴のような喚声を上げる。めちゃくちゃ怒られるとわめきながら、彼女は猛ダッシュで真人たちの横をすり抜けていった。
すっかり静けさを取り戻したアパートまでの道。そこに居残り続ける二人。走り去っていった潤に手を振ることもままならず、二人は暗がりの中で呆然と立ち尽くすのであった。