第八話 四.後悔のない未来の選択
翌日となり、吹き抜ける夜風が身を削るようなそんな肌寒い夜のこと。
最寄駅西口の繁華街を一人歩き、馴染みの「串焼き浜木綿」の店舗前に到着した女性。トレンチコートで寒さを凌ぎ、艶やかな長い髪の毛を夜風に晒しているその女性こそ、仕事を終えて帰宅途中にここへ立ち寄った麗那であった。
麗那は今日になっても、海外デビューの話題を誰にも告白してはいなかった。受け入れるとも、受け入れないとも答えないままに、ファッション雑誌ヴァルゴとの契約が進行していく中、彼女はまず、無二の親友である紗依子に相談しようと考えていた。
ゆらゆら風で揺れる暖簾を潜り、暖かい店内へ足を踏み入れる麗那。すると、マスターの幸市の威勢のいい挨拶が店内に鳴り響いた。
「おや、麗那ちゃんか。一人で来るなんて珍しいね。」
マスターのさわやかな笑顔に、こんばんはと控え目な挨拶を返した麗那は、落ち着きなく店内をキョロキョロと見渡し始める。
店内は相変わらず静かなもので、お客らしい人物が一人だけカウンター席に座っているだけ。しかも、お目当てだった紗依子の姿も声も、この寂しい店内から確認することができない。
「もしかして、サエちゃんを捜してるのかい?」
「・・・あ、はい。今夜、お店に来てますか?」
麗那に問い返されるなり、残念そうな表情で眉をしかめる幸市。その表情が、紗依子が出勤していないことをあからさまに物語っていた。
「今夜はお休みなんだよ。ほら、サエちゃんも今では家庭のある身だからさ。適度に休みを取ってもらってるんだ。」
結婚してもなお、このお店でアルバイトをしている紗依子だが、さすがに毎晩の出勤となると家事全般がおろそかになってしまうため、この数日前から、週に三回ほどのシフト勤務にしてもらったという。今夜はたまたま、その休日に重なってしまったというわけだ。
「・・・そっか。それは残念。」
紗依子に会うことが叶わず、落胆の色を隠せなかった麗那。とはいえ、このままおいとまするわけにもいかない彼女は、生ビール一杯だけごちそうになろうと、お楽しみの晩酌をここで済ませることにした。
空いている座席へ向かう途中、麗那にいきなり声を掛けてくるカウンター席の客。その人物とは、猫背のように背中を丸めている、頭髪を失ってしまったつるつる頭の老人であった。
その呼び声に聞き覚えのあった麗那は、驚きの表情を老人の方へ振り向かせる。彼女の知り得るお年寄りなど、この近所ではあの人しかいないだろう。
「麗那ちゃん。どうじゃ、今夜はわしと付き合わんかね?」
「おじいさん・・・!いらしてたんですか?」
麗那の驚愕の眼差しの先には、真人の祖父である居太郎がお猪口を持って、カウンター席でひっそりと佇んでいた。予想もしなかったこの偶然に、彼女はしばらく開いた口が塞がらなかった。
居太郎からのお誘いならばと、麗那は恐縮しながらうなづくと、マスターに生ビールを注文しつつ、カウンターの椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「おじいさん、よくお店に来られるんですか?」
「いやなに、今夜はマスター一人だと聞いてな。寂しいだろうから来てあげたんじゃよ。」
居太郎が意味ありげににやけると、それに黙っていられなかったのか、幸市がすぐさま口を尖らせて反論してくる。
「おいおい、じいさん。嘘つくんじゃないよ。誰も寂しがってなんていないだろう?」
寂しがっているのはむしろそっちだろうと、幸市は眉をしかめながら居太郎にそう捲し立てた。居太郎は居太郎で、すっとぼけたような顔をして、耳が遠くなってしまったとぼやきつつ、その反論をあっさりと受け流していた。
日頃から真人が世話になっているここ浜木綿に、退院してからというもの、居太郎は謝礼を兼ねて時折顔を見せていた。今夜もからかい半分でたまたま来訪したというのが、事の真相だったのである。
「おい、マスター。わしは大切なお客さんじゃろ?そういう邪険な接し方はいかんのう。」
「よく言うよ。お銚子一本で粘っちゃってさ。おまけに、愚痴ばかりでうるさいのなんのって。」
嫌味や皮肉の応酬を繰り広げる幸市と居太郎の二人。それでも、そこには不快や嫌悪といった感情はなく、そのやり取りを見ていた麗那は、和気あいあいとした雰囲気に思わず微笑するのだった。
注文した生ビールジョッキも出来上がり、麗那と居太郎という異色のコンビは、それぞれのお酒を持ち上げ慎ましく乾杯する。陶器とガラスの重なる音が、ほんわかとした店内に小さくこだました。
「麗那ちゃんだったら、サエちゃんのシフト勤務のこと知ってると思ってたけどね。最近、彼女に会ってないのかい?」
不思議そうに首を捻っている幸市からの問いに、会ってないというよりは会いにくいと、麗那は気まずそうに苦笑してそう返答した。
紗依子が結婚してからは、どうにも以前のように気軽に電話したり、住まいを訪ねたりしにくくなってしまったという麗那。もちろんそれは、旦那である祐次に気を遣っている面もあるが、それよりも、少しばかり遠い存在になってしまったと感じる部分も少なからずあった。
それは、女の幸せを掴んだ者に対する劣等感なのだろうか。麗那の冴えない表情に、いつまでも尾を引くようなやるせなさがにじんでいた。
「だけど、麗那ちゃんとサエちゃんの仲だろう?そんなに気兼ねなんてする必要ないと思うよ。」
幸市は安直な感覚で麗那のことを慰めていたが、カウンターで向かい合う居太郎じいさんは、少しばかり憤慨しながらふんぞり返っていた。
「これマスター。またそうやって、自分の物差しで物事を言っておるな?麗那ちゃんにも深い事情ってものがあるんじゃよ。まったく、女心がわからんようじゃのう。夫婦円満が聞いて呆れるわい。」
「夫婦円満で悪かったな!本当に減らず口ばかりで口やかましいジジイだね、あんたは。マサくんのじいちゃんじゃなかったら、とっくにここから叩き出してたよ。」
辛口のお酒の影響だろうか、口振りが少々辛辣だった居太郎に、さすがに温厚なマスターでも、沸々と苛立ちの表情が見え隠れしていた。
自分のことで喧嘩されてはたまらないとばかりに、麗那は慌てて険悪な二人の間に割って入る。彼女より長く生きているであろう熟年者二人、ここはすぐに彼女に一言詫びを入れて、大人らしい対応をしてみせた。
「何があろうとも、紗依子が親友なのは変わりませんからね。だから今夜は、彼女にちょっと相談したいことがあって来てみたんです。」
その相談事が宙に浮いてしまい、無念のままに生ビールをあおる麗那。悲観した様子はないものの、彼女の顔色はどこか物悲しい色に染まりつつあった。
店内の暖かさのせいか、麗那はトレンチコートをひらりと脱いだ。すると、ピンク色のブラウスから香水の香りが溢れてきて、串焼き屋のこじんまりとした雰囲気をおしゃれに変えてしまう。
アンニュイな横顔のモデルを傍で見て、オヤジとジジイの二人は目のやり場を失って、困惑めいた顔を突き合わせる。その時の二人の表情は、やましい思いとかではなく、人生相談ぐらいならできるだろうと言いたげな顔つきであった。
「なぁ、麗那ちゃん。」
居太郎がおもむろに声を掛けると、麗那は返事一つしてから、おもむろに彼の方に顔を向ける。
「いらんお世話かも知れんが、わしらでよかったら相談してみんかね?もちろん、女性特有の悩みでなければじゃが。」
恵比寿様のような優しい笑顔を見せる居太郎。そして、彼と一緒に麗那のことを案じている幸市も、遠慮なく話してみたらと愛想のいい笑顔でそう促していた。
最初こそ戸惑っていた麗那だったが、この暖かい店内と雰囲気、何よりも温かい心を持つ二人に包まれたおかげで、彼女の気持ちも温まるように緩んでいた。
話だけでもしてみようかな・・・?真実を伏せつつ、ニュアンスをずらして相談してみるのもありかも知れない。麗那は心の中でそんな結論に辿り着くのだった。
「・・・それじゃあ、お言葉に甘えて、ちょっぴり相談させてください。」
海外の有名雑誌ヴァルゴとの専属契約を、今以上に大きく飛躍できるモデル活動に置き換えてみた麗那。女性としての幸せをかなぐり捨てて、モデルの道をさらにまい進することが、本人にとって本当に正解なのだろうかと、彼女は悩める思いを赤裸々に語っていった。
ファッションモデルの第一線で活躍する麗那らしい悩みに、居太郎と幸市は納得しながら耳を傾けていた。それと同時に、女性にしか感じ得ない苦悩を前にして、二人とも心なしか渋めな表情を浮かべてしまう。
相談に乗ると言った手前、何もコメントしないわけにいかない男性たち。彼らは助言できる糸口を手繰り寄せようと、思い悩める麗那にそれとなく質問してみる。
「麗那ちゃんはさ。その仕事を選んだら、本当に幸せを掴むことができないと思ってるの?」
「・・・そう決めつけることはできないけど。ただ、年齢を重ねればそれだけ、女性としての適齢期を逃していってしまうから。」
幸市からの問いかけに、麗那は思いつめたような表情で今の心境を口にした。そこへ続けて質問をぶつけるのは、隣の席で彼女を心配そうに見つめる居太郎だ。
「それじゃあ麗那ちゃんは、幸せを思うあまり、そのお仕事を諦めてしまって後悔はないのかね?モデルとして飛躍することは、尊敬していた先輩に誓った目標ではなかったかな?」
居太郎からグサリと指摘されてしまい、麗那は落胆するようにうつむいてしまった。
夜空に輝く星となってしまった先輩の分も、麗那はさらなる飛躍を誓って、輝ける華々しい一流のモデルになることを目指した。それを後押ししてくれた事務所の関係者、そしてマネージャーの景衣子も、躍進していく彼女の姿を誰よりも喜んでくれた。
だからこそ、応援してくれて、協力してくれた人たちのことを裏切れない。しかし、限りなく続くモデルの頂上を目指すことにも戸惑いを隠せない。麗那の心は、葛藤の渦に巻き込まれて激しく揺れ動く。
「先輩へ誓った思いも大切だし、わたし自身の気持ちも大切にしたい・・・。今までは、黙って仕事に務めてきたけど、今回ばかりは、本当のわたし自身の意思で、進むべき道を選びたいんです。」
どんな人間でも、生きていれば必ず訪れるであろう進路の分岐点。豊富な人生経験を持つ男性二人は、これまでの生き様を思い出しながら励ましの言葉を紐解いていく。
「いやぁ。実はオレさ、こんなしがない串焼き屋やってるけど、昔は、高級ホテルのコック長になりたかったんだよね。」
遠い目をして天井を見上げながら、思い描いていた夢を語り始める幸市。
調理師免許を引っ提げて、いざ高級ホテルの厨房で修行を始めた幸市は、雑用と安月給という憂い目に晒されながらも、一人前のコックを目指して日々精進したという。
幸市は当時交際していた女性、現在の奥さんであるが、彼女との温かい家庭とコック長になる尊い夢の二択に悩んだ挙句、結婚を機に、ここ「串焼き浜木綿」という、ありふれた居酒屋の店長を選択したのだった。
「・・・正直言うとさ、オレ今でも、夢を捨てちまったこと後悔してるんだ。もちろん、この店が嫌とかじゃなくて、ただ、目の前の現実に逃げちゃった感じがして、悔しさが残ってるんだよね。」
若かりし頃を熱く語る幸市に、麗那は真剣な眼差しを送っていた。そんな彼女の横で、居太郎も何十年前になるのか定かではないが、若かった時代の嘆かわしさを感慨深げに紡いでいった。
「わしも戦後復興の中、学生の頃はいっぱい希望を持ったもんじゃ。しかし、どの希望に向かおうにも、わしはその時もう歳を取り過ぎていてのう。日本の将来のために、嫁さんをもらって子孫を増やすことが、その当時の風潮だったんじゃよ。」
希望を持ったり、夢を追いかけても、最後までそこに辿り着くことが叶わなかった二人。年齢を重ねて、若者と呼ばれる年代でなくなった今でも、彼らは幸福とも言えるその人生に満足などしてはいなかった。
そんな二人だからこそ、今を生きる若者には夢を抱き、夢に向かって走り続けてほしい。それが、うら若き乙女である麗那に捧げる、彼らなりの心からの応援メッセージなのであった。
「どっちが正しいとか間違いとか、そういうことよりもさ、どっちが麗那ちゃんにとって希望なのか考えたらどう?いっぱい悩むのも若いうちだし、後から後悔しない選択をしてほしいな。」
「そうじゃのう。麗那ちゃんはまだまだ若い。これからいくらでも夢を追いかけられるし、きっと幸せも掴めるじゃろう。今しかできないことを見つけて、それを選んでみたらどうかね?」
人生の先輩たちからの励ましの言葉は、迷いに迷い、暗闇を彷徨っていた麗那の心に一寸の希望の光を射した。
どちらが正解とか不正解とか考えず、二ヶ咲麗那というモデルが今しかできないことを選んでみよう。彼女は悩みを打ち明けたこともあるだろうが、少なくとも、来店前よりは気持ちがスッキリと晴れやかだった。
何か吹っ切れたかのように、ようやく表情を緩ませる麗那。礼儀正しく起立した彼女は、居太郎と幸市に対して行儀よくお辞儀をした。
「お二人とも、的確なご指示どうもありがとうございます!おかげで、気持ちがスーッと楽になりました。まだ、どちらを望むのかわからないけど、紗依子にも話してみて、悔いの残らない選択をしてみます。」
麗那の冴えなかった顔色に、愛らしい明るい色が戻ってきた。これから重大局面を迎えるに当たり、迷いやためらいなどただ邪魔になるだけ。悲壮ながらも潔い決意が彼女のその表情から見て取れた。
アドバイスが少しでも役立ったと、ホッと胸を撫で下ろす居太郎と幸市の二人。さっきまでいがみ合ったりしていた二人だが、今ではお互いににやけ顔を向け合い、感得したようにうなづいていた。
「よし。今夜は珍しいパートナーが一緒ですから。わたし、もう一杯いただきますね。」
麗那はニッコリと微笑んで、空になってしまったジョッキを持ち上げる。マスターはそれを見るなり、しばしお待ちをと意気揚々に叫んで、生ビールの追加オーダーを承った。
目尻にしわを寄せて笑う居太郎も、麗那からパートナーに指名されたことに歓喜し、もう一本つけるかなと、飲み切ったお銚子を摘んでゆらゆらと揺らしていた。
「どうじゃ、マスターも一緒に一杯やらんかね?どうせ、今夜はもうお客さん来ないじゃろう?」
「言ってくれるなー、おい。女の子がそばにいるとすぐこれだ。まったく、調子のいいじいさんだよ。」
文句をたらたら並べる幸市であったが、麗那からも誘惑されてしまっては、彼も苦笑いで諦めるしかなく、カウンター越しにお猪口を差し出してしまうのであった。
それから1時間ほど、ここにいる三人だけのささやかな飲み会が開催された。三人はお酒の勢いのままに、それぞれの夢や希望といった熱き思いに大輪の花を咲かせるのだった。




