第七話 二.親子の絆、そして師弟の絆
少しばかり時が経過し、所変わって、ここはアパートの最寄駅の近くにある商店街。夕方4時を回り、店先を歩く人の姿もわずかながらに賑わいを見せ始めていた。
学校帰りのさまざまな年齢の学生たちが、それぞれの趣向のもとに、それぞれのお店へと群がっている中、商店街をブラブラと歩く住人が一人、学生たちと同じく美容学校帰りの潤である。
「お店、遅番だから、どこか寄り道していこうかなぁ。」
夜のお勤めにはまだ時間のあった潤は、お気に入りの雑貨店やドラッグストアの店頭を物色していた。お小遣いにそれほど余裕のない彼女の、もっぱらのお楽しみはウインドウショッピングなのであった。
買い物をするわけでもなく、ただ物欲しそうな目で商品を眺めている潤。中腰でウインドショッピングを満喫している彼女に、慎ましく声を掛けてくる少女がいた。
「潤さん、こんばんは。」
潤は声のした方角にくるりと顔を振り向かせる。するとそこには、彼女と一つ屋根の下で暮らす、凛とした学生服を着こなした住人が立っていた。
「あ、ゆいゆいかぁ。誰かと思っちゃった。」
ゆいゆいと呼ばれるこの少女は、アパートの最年少の住人である由依であった。
こんなところで何しているの?と尋ねる潤に、由依は筆記用具の入った買い物袋を持ち上げて、文房具店に立ち寄ってきたことを打ち明けた。
「潤さんもお買い物ですか?」
「ん~、単なる暇つぶしかなぁ。」
商店街ぐらいのお店では、今時のセンスに似合うものも少なく、それほど暇つぶしができなかったという潤。一通り見て回って丁度飽き飽きしていた頃だと、彼女はつまらなそうな顔で苦笑していた。
思いがけないところで出会ったこの二人。せっかくなので、雑談でもしながら一緒にアパートへ帰ることになった。人通りの多くなった路地を、二人はアパートに向かってゆっくり歩き出す。
演劇を学ぶために日夜勉強に勤しむ由依。方や、美しさを追求するために勉学に励む潤。共通の話題の少ない彼女たちの会話は、無意識のうちに学校に関する話題となってしまう。
「美容のお勉強の方は順調ですか?」
「ちょっと前よりはねー。でもさぁ、今日は大恥かいちゃったんだよねぇ。」
潤は本日学校であった騒動のことを、由依に包み隠さずあっけらかんと告白していた。
実習の授業中、しかも生徒たちの見ている前で、学生制作へのイタズラをバラされたことに愚痴をこぼす潤だったが、年下の由依に同情されつつも、やはり悪ふざけの代償では?と、結果的にお説教されてしまうのだった。
しょんぼりしている潤は、成績優秀でお利口の由依に、焼きもちのような羨望の眼差しを向ける。
「ゆいゆいはいいよねー、頭いいからさぁ。学校で先生に怒られたことないでしょ?」
由依はすぐさま、そんなことはないときっぱり否定する。時々ボーっとしたり、声を掛けられても反応できずに叱られることもあると、普段の彼女から想像もできない事実がここに明かされた。
「へー、そうなんだぁ。ゆいゆいは何でも完璧にこなしていると思ってた。」
「わたくしはロボットじゃありませんから。どんなことでも完璧というわけにはいきませんね。」
クスクスと笑い合いながら、商店街から一歩出た交差点までやってきた二人。自動車が走ってくるかどうか左右確認して、いざ横断歩道を渡ろうとした瞬間だった。
「・・・あ。」
由依はいきなり絶句して、横断歩道を渡らずに立ち止まってしまう。足を一歩先へ進めた潤はそれに気付くなり、びっくりして後ろ向きのまま一歩下がった。
「どうかしたのぉ、ゆいゆい?」
「・・・いえ。」
潤が慌ててどうしたのか尋ねると、由依は消え入りそうな声をもらし顔をうつむかせてしまった。
その時、沈んでいる由依と頭を傾げる潤のもとに、仲良く腕を組んで歩いてくる二人の人物がいた。一人は40歳代ぐらいの端正な顔立ちのスマートな男性で、もう一人は、20歳代ぐらいの痩身の女性で、隣にいる男性と付き合うには違和感を覚えるぐらい派手な様相だった。
その男性は近づきながら、うつむいている由依の顔を覗き込むような素振りを見せる。探られまいとしているのか、彼女の方はじっとしたまま顔を上げようとはしない。
いかにも怪しい行動を取るその男性のことを、訝る目線で睨みつけた潤は、人目もはばからず尖り声を張り上げる。
「ちょっとあんた、何よぉ!人のことじろじろ見ちゃってさー。」
潤の文句など知らんぷりして、由依に向かって底が抜けたような声を掛けてきたその男性。
「おお、やっぱり由依だったか。ずいぶん久しぶりだな、元気か?」
無視されたことに腹を立てた潤だったが、男性が由依の名前を知っていたことに、スーッと怒りが引いて拍子抜けしてしまう。
名前を呼ばれた由依の方はというと、その男性のことを直視するわけでもなく、返事すらしようとはしない。しかも、寂しげな表情を横に背けてしまい、彼のことを避けているように見えなくもなかった。
「何だ何だ、久しぶりなのにその態度かよ。まったく、相変わらずの人見知りだなぁ。」
失笑しているその男性は、由依のことを詳しく知っているかのような口振りだ。それよりも、腕にしがみつく若い女性を抱き寄せたりして、人と接する態度そのものは何とも失礼極まりない。
そのぶしつけな振る舞いに苛立ったように、由依は苦渋の表情を示しながら、潤の腕を掴んでいきなり歩き出してしまった。
「ちょ、ちょっとゆいゆいぃ!ど、どうしたのよぉ!?」
男性の制止する怒鳴り声も、潤の慌てふためく叫び声すらも無視して、由依は一心不乱のまま横断歩道を渡り切り、あの二人組が視界に入らない距離までひたすら足を速めた。
何が何だかさっぱりわからない潤がいったん止まるよう叫ぶと、由依は掴んだ腕を解放してようやく逃げ足を緩ませる。急いできたばかりに肩で息をして、由依は苦渋の表情を足元に向けたままだ。
「ねー、ゆいゆい、どうしちゃったのよっ!?あの人たち、知り合いなんでしょ?」
こちらも息を切らせて、交差点で出会った二人組のことを問い詰める潤。しかし、沈み込んでいる由依の口から出てきた答えは、ごめんさないのたった一言だけであった。
いったん落ち着くために、一息つこうとする潤と由依の二人。アパートから少し離れた路地の壁沿いで、彼女たちは呼吸を整えるように大きく深呼吸をした。
「本当にごめんなさい。・・・ただ無我夢中で、あの場から逃げ出したかったんです。」
「あたしもさぁ。あの男のこと、何だか態度がでかくて嫌な感じがしたんだ。ゆいゆいの名前知ってるってことは、赤の他人というわけじゃないよねぇ?」
潤の問いかけに、由依は無言のままで力なくうなづいた。それでも、由依にとって都合の悪い人物なのか、正体まで明かそうとはしなかった。
口をつぐんでいるということは、メンタル面を刺激するような、それなりの苦しい事情があるのかも知れない。潤はそう感じてはいたものの、好奇心旺盛のせいか、どうにもあの男性の正体が気になって仕方がなかった。
「ねー、ゆいゆい。あの男のことだけど、ちょっとでいいから教えてくれない?」
くっつけた両手をすりすり擦って切願している潤。クイズ形式でもいいからヒントを頂戴と、寂しそうな顔の由依にがむしゃらに頼み込んでいた。
由依は内心穏やかではなかっただろうが、先輩住人のあまりのしつこさについに屈服し、呆れ果てたような面持ちで受け入れる姿勢だけは示した。
「・・・身内の人ですよ。」
由依はポツリとヒントをつぶやいた。それを聞くなり、久しぶりの再会を果たした身内ということは、おじさんでしょう?と、潤は思いつくままにそう解答するのだった。
正解とも不正解とも答え合わせせず、しばらくの間、思い悩むように押し黙ってしまう由依。その数秒後、またしても彼女は寂しそうな表情で、不正解だったことを告げると同時に、あの男性の素性を打ち明ける。
「残念でした。わたくしのお父さんです。」
「なーんだぁ、お父さんだったのかー・・・って、ちょ、ちょっと待ってよぉ!」
びっくり仰天で潤がパッチリな目をさらに見開いた時には、すでに由依はアパートに向かって歩き始めていた。
どうして久しぶりなの?一緒にいたあの若い女性は誰なの?なぜ父親から逃げ出したの?あらゆる疑問で頭の中が混乱している潤は、家路を急ぐ由依の小さい背中を追いかけることしかできなかった。
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その日の夜、丁度夕食時を終えた頃の午後7時過ぎ。
肌寒い夜風が人ごみを消し去ったかのごとく、静寂な侘しさに包まれた駅西口の繁華街。それでも、赤提灯と暖簾を夜風で揺らしながら、「串焼き浜木綿」は今夜もひっそりと営業していた。
平日の夜のせいか店内は閑散としており、お客らしいお客の姿はまったくない。強いて言えば、お客なのか関係者なのかよくわからない存在の、アパートの管理人の真人がカウンターに一人いるだけであった。
その真人であるが、カウンターにどっかり腰を据えて、おいしい料理やお酒を楽しんでいるかと思いきや、なぜか身を乗り出して、マスターが立つ調理場を食い入るように覗き込んでいた。
「・・・とまぁ、こんな感じにやるわけだよ。」
「へー、さすがはマスター。やっぱりプロの手さばきはお見事ですね。」
マスターである幸市の包丁さばきを見終えて、真人はうなづきながら感嘆の声を上げていた。
調理場のまな板の上には、見事なまでに三枚に卸されたお魚がいる。これをさばいた幸市は、お役御免の出刃包丁を手に取り、白いふきんで汚れを丁寧に拭き取っていた。
ここでいったい何が行われていたのかというと、早い話、包丁さばきの特訓中の真人のために、マスターが自慢の腕を実演していたというわけだ。しかも、手順を一つ一つ解説しての、さも料理教室のように。
「腕も重要だけど、何よりも大切なのは包丁の切れ味だよ。魚を上手にさばこうと思うなら、包丁の管理もしっかりやらないとね。」
切れ味を落とさないよう、包丁研ぎを欠かさないこと、そして、出刃包丁のような鉄製はサビに弱いので、水分をしっかり拭いて片付けることなど、幸市は料理人らしい貫禄のある教示を語っていた。
料理人の熱血指導を熱心に聞き入っている真人。その時の彼の表情といったら、大学受験勉強の時とは比べものにならないぐらいの真面目ぶりであった。
「フフフ、それにしても、すごい熱の入れようね。まさか弟子入り志願してくるとは思わなかったわよ。」
ひたむきな真人に微笑みを投げかけたのは、このお店の看板娘・・・ではなく看板主婦の紗依子だ。来客が彼一人しかいない店内で、彼女はお客の気分でカウンター席に座って休憩していた。
「あ、いや。さすがに弟子入り志願まではしてませんよ。マスターにこれ以上、迷惑を掛けられないですし。」
「あらあらあら、そんなことないわ。マスターだって、お弟子さんができると張り切っちゃうわよ、ねぇ?」
にやける紗依子に目配せされて、幸市は年甲斐もなく照れ笑いを浮かべる。どうやら彼女の言う通り、勉強熱心な弟子入りの入門にまんざらでもない様子だった。というよりは、忙しい時間帯などに厨房補助ができる人材を求めていたのが、店長兼料理人の本音だったのかも知れない。
「弟子入りうんぬんはさておき、マサくんは、どうしていきなり魚の卸し方を勉強してるんだい?」
真人がこれまで、独学やテキスト本、それとアパートで自炊しながら、料理や食生活について勉強していることを知っていたであろう幸市。いきなりここに来て、魚の調理の手ほどきを受けるほど熱心になる真人に、彼はちょっとした疑問を抱いていた。
マスターと紗依子の二人に詮索された真人は、カウンター席にちょこんと腰を下ろしてからその真意を打ち明ける。
「もうすぐ11月のお楽しみ会を計画しているんですけど、それを、みんなで料理を食べて楽しむ、ごちそう会にしようと考えてるんです。」
住人一人一人が自慢したい料理、お奨めしたい食材を持ち寄って、それをみんなに味わってもらうそんな賑やかなごちそう会にしたい、それが真人が考えているお楽しみ会の概要であった。
いつも加工品と既製品の料理や、外食ばかりのお楽しみ会ではワンパターンだし、食事を楽しむという観点にそぐわないだろうと、食品衛生アドバイザーを目指す真人らしい立案と言えなくもなかった。
「でもでも、マサくんはいいけど、住人たちってみんな料理下手でしょう?みんなで自慢料理を振る舞うなんて無理なんじゃないかしら?」
紗依子が指摘する通り、アパートの住人たちは誰一人として手料理など作れるはずもなく、小手先が器用で家庭的な淑女など皆無であった。
管理人である真人は重々それを承知しているはず。しかし、彼はそれには及ばないとばかりに、ごちそう会が企画倒れにならないよう打開策を明かしてくれた。
「手作りじゃなくてもいいんです。要は、住人のみなさんが、他のみなさんにごちそうしたいものを厳選するということなんです。」
住人たちの常連店の自慢の料理、よく立ち寄るおいしい食材など、お惣菜やデザートなどジャンルは問わず、みんなにごちそうして、評価したりして盛り上がることがこの企画の主旨というわけだ。
もう一つのおもしろい趣向として、持ち寄った食事をよりおいしくする食べ方を紹介して、世にある料理や食材の魅力を引き出す狙いも考えているのだという。
「ふ~ん、なるほどね。それならただ食べるだけじゃなく、ドキドキワクワクしながら食事が楽しめるものね。なかなかおもしろいアイデアだわ。」
興味津々で、うんうん頭をうなづかせている紗依子を尻目に、調理場に一人立つ幸市はちょっぴり寂しげな表情をしていた。
「う~ん、次のお楽しみ会、ウチに顔を出してくれず、さらにウチのオードブルも注文なし、というわけかぁ。こりゃ今月の売上に響いちゃうな~。」
少々あてつけるような言い回しに、真人はついついごめんなさいと声を漏らした。幸市はすぐさま、冗談冗談と笑ってみせたものの、常連客からの収入減少に、内心穏やかなでいられなかったのは間違いないだろう。
次々回のお楽しみ会はお願いしますからと、綻びを広げないようしっかり取り繕うとする真人だったが、苦笑している紗依子から、そんなに真に受けなくていいと、反対に気遣われてしまうのだった。
「それじゃあマサくんは、そのごちそう会に、卸した魚をみんなに振る舞おうというわけね?」
「はい。まだまだ初心者だし、大きな包丁もないので、まずはアジで挑戦してみようと思ってます。」
青身魚のアジであれば、コスト的にも技術的にも易しい魚であり、もし失敗しても、身を細かくしてタタキにできるので、初心者の真人にとってはおあつらえ向きの食材と言えよう。
真人のプランを耳にした幸市は、まるで師匠になったつもりで、アジの目利きや特性について指南し始める。すると真人も弟子になった気分で、目を輝かせながら、師匠の事細かい解説を真剣に聞き入っていた。
そんな一生懸命な二人を眺めながら、ほんのり口元を緩めていた紗依子。会話に花を咲かせている二人に、彼女は恐縮しつつも横槍を入れてくる。
「ねー、お二人さん。もういっそのこと、本当の師弟関係を築いたらどうです?」
ピタッと会話を止めてしまった真人と幸市の二人。その直後、お互いに顔を見合わせて、照れくさそうに苦笑いするしかなかった。
それからしばらくの間、プロの料理人の幸市、料理勉強中の真人、そして、料理の腕を磨いている主婦の紗依子の三人は、専門的にもマニアックな手料理談義で盛り上がった。
料理という共通の話題は異様なほど熱が入ってしまい、その熱気のせいだろうか、ちょっぴり寂しかった店内が、暖房要らずの居心地のいい暖かさに包まれていくのだった。




