第七話 一.目の前に姿を現す脅威
翌日の午後、ここは潤が通っている「マーガレット美容師養成学校」。
二階建ての校舎の一角にある美容実習室では、美容師関係の職業を目指す学生たちが、胸像のようなマネキンを使って、ヘアメイクやフェイスメイクの授業に励んでいた。
講義の授業ではパッとしない潤であったが、ひとたび実習となると、能ある鷹は爪を隠していたかのように精彩を放っていた。生まれ持っての指先の器用さと、個性的で独特なセンスが功を奏し、彼女は一部の教員にも一目置かれる存在であった。
実習の授業で目立つ潤は、一部の女子学生たちから疎まれる存在ではあったが、持ち前の明るさと人懐っこさのおかげか、別の女子学生から羨ましがられ、カリスマ的人物のように親しまれていた。
本日の実習でも、マネキン相手に独自の感性でメイク練習をこなす潤。そんな彼女のことを、実習室内ではなく、廊下の窓越しから眺めている、丸いレンズのメガネを掛けた女性の姿があった。
「・・・あの子、ここの生徒だったのね。ふ~ん。」
ポツリと独り言をつぶやき、そのメガネの女性はうなづきながら一人納得していた。
実習室の窓を覗き込むメガネ淑女のもとに、成績表を腕に挟んでいる女性が近づいてくる。この実習の担当講師であったその女性は、実習風景を食い入るように凝視するメガネの女性に声を掛ける。
「高泉さん。こんなところでどうかされたんですか?」
「ああ、先生。生徒たちの熱心な実習を見学させてもらってますわ。」
のんびり実習見学をするメガネ淑女、名前を高泉マドカという。年齢こそ二十台後半といった明らかに生徒とは思えない彼女、果たしていったい何者なのであろうか?
実習担当講師の登場にこれ幸いとばかりに、高泉は実習室の窓に指を押し当てて、注目している一人の女子生徒のことを尋ねていた。
「ああ、あの見た目が派手な子ですね。あの子は四永潤という生徒です。」
実習こそ成績優秀、しかし講義ばかりはマイナス点。授業中に居眠りしたりして困っていると、女性講師の嘆きの混じった解説を聞いて、高泉は興味をそそられたのかニヤッと笑みを浮かべる。
メガネのフレームをクイッと動かして、講師の頭痛のタネである潤に好奇の眼差しを送る高泉。その直後、彼女は二本の指で”ひとつまみ”を示して、隣に立つ女性講師に一つお願いごとを申し出る。
「先生、ほんのちょっとだけ、実習にお邪魔してもよろしいかしら?」
「え?・・・は、はい。ただいま自習時間中ですから。」
高泉は嬉しそうな顔のまま、生徒たちが真剣に取り組む実習室へと足を踏み入れる。もちろん、彼女が向かう先は、いろいろな意味で関心のある潤のところである。
潤はこの時、自然な印象を与えるナチュラルメイクをテーマに演習を行っていた。とはいうものの、彼女は無表情のマネキン相手に、赤毛のカツラを被せて、ピカピカに眩いパッチリメイクを施していた。
その明らかに課題のテーマを無視した振る舞いに、一部の生徒たちは冷ややかな視線をぶつけていたが、当の本人はどこ吹く風とばかりに、その表情は真剣そのものだった。
潤の背後に忍び寄ってきた高泉は、顎に親指を宛がって、ルール無用のど派手メイクをズバリと注意する。
「いくらなんでも、目元のラメは派手過ぎるんじゃないの?それではナチュラル感が損なわれてしまうわ。」
いきなりの指摘にまったく動じることのない潤。後ろに振り向くこともなく、彼女は手を休めないまま高泉の言い分に物言いをつける。
「これでいいのぉ。だってさ、このマネキン彫りが浅いから、目元のラインだけじゃパッとしないし。むしろこっちの方が今風で自然体だと思うよー?」
テーマに沿わず、モデルのマネキンに沿ったメイクをやってのけた潤に、高泉は少しばかり唖然としたが、潤の言うことも一理あると思い、彼女はそれ以上無理に追及しようとはしなかった。
ここ最近の風潮なんかも取り入れて、それをナチュラル感と言い張るところなど、独自のユニークな感性を持つ潤に、高泉はますます興味が沸いてきたようだ。
「ふ~ん、なかなか生意気なこと言ってくれちゃって。駅の学生制作にイタズラしただけのことはあるわね。」
「駅の学生制作って・・・ふぇっ!?」
潤の素っ頓狂なびっくり声に、実習室内の生徒たちが一斉に注目する。
大慌てで後ろへ振り返った潤は、背後で仁王立ちしているメガネ淑女を目撃するなり、またしても驚嘆の声を上げた。
「あ、あんたは、駅の待合室で会った・・・!」
「どうやら憶えていてくれたようね。悪いことしたからには、それなりのお仕置きがいるわよね~?」
メガネのレンズを光らせて、ニタ~と不敵に笑う高泉。その不気味な微笑みに怯んだ潤は、口をガクガクと震わせて逃げるように後ずさりを始める。
ざわついている実習室の異変に気付いた女性講師が、注目の的になっている高泉と潤のもとへ慌てて駆け出していった。
高泉は懲罰の右手をふらりと挙げて、さあ観念しなさいと、潤のもとにじわりじわりと詰め寄っていく。
「ちょ、ちょっと待って!あ、あれはイタズラじゃなくてぇ、魔が差したっていうかぁ・・・っていうか、あんた誰なの!?」
生徒でも講師でもない人がなぜここにいるの?と、潤は文字通りに人差し指を突き出して、高泉に真っ向から食って掛かった。すると、高泉はどういうわけか、キョトンとした顔で呆気に取られてしまった。
そんな二人のやり取りを、他の生徒たち一同が固唾を飲んで見守る中、実習を担当する女性講師が困惑した顔で割って入ってきた。
「コラ、四永さん!何て失礼なことを言っているんですか!」
お仕置きから逃れようと反抗した潤だったが、結局、女性講師から叱責を受ける結果となってしまい、反省していいのかもわからず、右往左往しながらただ呆然とするだけだった。
苛立ち気味の女性講師は諭すような口調で、潤の前に立ちはだかる高泉のことを紹介し始める。
「この方は、特別講師で来ていただいた高泉マドカさん。つい先日、授業開始前に自己紹介してもらったばかりでしょう!?」
「特別講師・・・?自己紹介・・・?」
頭の中がちんぷんかんぷん状態の潤。女性講師の話している意味が理解できず、彼女はどんどん混迷の渦へと吸い込まれていく。
実習室が異様な雰囲気に包まれる中、突如、たった一人高笑いを始めてしまった高泉。いったい何事かと、潤も女性講師も、はたまた他の生徒たち全員も、彼女のいきなりの失笑に釘づけとなっていた。
「ははは、そうかー。わたしが自己紹介した日だもんね、あなたと駅で出会ったのって。学校に来てないんじゃ、わたしのこと知っているわけないよねぇ。」
高泉の高らかな笑い声が室内に反響し、それに誘われるように、他の生徒たちからも失笑の嵐が吹き荒れた。女性講師の呆れたような視線を浴びた潤は、割れた風船のようにすっかり萎んでしまい、床の上に崩れ落ちてしまうのだった。
「えーと、四永さんだったわね。改めまして、高泉マドカよ。今日のところは、実習をがんばったことに免じて、お仕置きは見逃してあげる。」
差し伸べられた高泉の手を握り返し、潤は気まずさを引きずりながら勢いよく立たせてもらった。
潤のお尻の汚れをパンパンと叩き落とした高泉は、去り際にポツリと一言、講義もしっかり受けないとダメよと、講師らしい忠告をこぼしてから去っていった。
ひょんなところで再会を果たした潤と高泉の二人。少なくともこの時の潤は、高泉マドカという講師との出会いが、自らの将来を決めるきっかけになることなど、当然知る由もなかった。
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その日のほぼ同時刻、物語の舞台は大阪府のとある田舎町へと移る。
垂れ込める暗雲が太陽も青空も包み隠してしまい、この平和でのどかな町の一角が、吹き抜ける強い風によりどんよりとした怪しい気配に覆われていく。
実家である五浦空手道場に帰省していたあかりは、この日、したためた書類を持参して、不穏な空気が漂う薄暗い場所まで足を運んでいた。
苔がこびりついたどす黒い石垣、それに囲まれた険しい石階段を一段一段上り、あかりはついに、来訪者を待ち構える大きな正門の前まで辿り着いた。
「失礼するが、先ほど連絡を入れていた、五浦道場の五浦あかりと申す。正門を通していただけるか?」
しばしの沈黙の後、カラクリ仕掛けの歯車が軋みながら動き出し、重々しい鉄製の扉が開け放たれた。
落ち着き払った面持ちで、物々しい正門を通り過ぎていくあかり。どこからともなく吹き荒ぶ風が、毅然とする彼女の行く手を阻んでくる。その風は異様なほどに冷たく、彼女のジャケットの下の肌をも凍りつかせてしまいそうだ。
暗がりの敷地内を歩くこと1分少々。廃れたような何本もの枯れ木に挟まれた、平屋造りの道場らしき建造物があかりの眼前に姿を現した。その道場には活気といったものはなく、邪気のような禍々しい雰囲気だけが漂っていた。
「・・・案ずるな、闘いに来たわけではない。」
誰もいないはずの道場の前で、あかりは独り言のように囁いた。すると、枯れ木や雑草の物陰から、この道場の門下生であろう輩がわらわらと姿を見せ始めた。
警戒するかのように、来訪者に凍てつくような視線を送っている門下生たち。その獣のような鋭い目つきにも、あかりは物怖じしたりせず、不気味に佇む道場をじっと見つめたままだった。
毛頭闘う気などないあかりを前にしても、門下生たちはやはり警戒心を解こうとはしない。そればかりか、一歩一歩間合いを詰めて、それこそ一触即発のせめぎ合いを続けていた。
「さすがは五浦の師範代、これぐらいの脅かしにはビクリともせんようやな。」
どこからともなく響いてきた野太い男の声。姿かたちは見えぬものの、そのふてぶてしい笑い声が、あかりの神経を苛立つほどに尖らせる。
あかりが鋭い目で周囲を警戒している中、彼女の間合いから離れた門下生たちは、一斉に表情を引き締めて、一列に並んできちっと姿勢を正した。それはすなわち、絶対的権力を誇示した道場主を迎える、彼らの絶対服従という礼儀作法なのであった。
道場の障子戸をこじ開けて、来訪者の前に現れた武闘着を着衣している男性。長髪をだらしなく伸ばし、無精ひげを指でいじっているその人物こそ、この道場の主である紅先剣三郎だった。
「お初にお目にかかる。わたしは五浦あかり。おっしゃる通り、五浦道場の師範代を任されている。」
顔色も姿勢も、そして態度すらも緩めることなく、あかりは冷徹なままに臨もうとする。一瞬でも気を緩めると、道場主から放たれる悪意に満ちた気配に、身も心も取り込まれてしまいそうだからだ。
「フッフッフ。弱腰の親父に成り代わって、姉妹の敵討ちにおいでなすったというわけか?」
「勘違いなさるな。わたしがここへ来た理由は、敵討ちでも仕返しでもない。平和的解決について意見交換に来ただけのこと。」
平和的解決?と首を捻った紅先は、顎に生える無精ひげを弄びながら冷笑する。好戦的な道場主の影響なのか、姿勢よく並んでいる門下生たちも、あかりの浅はかな考えに嘲笑するだけだった。
「この期に及んで話し合いで幕を引く気か?道場主のみならず、師範代までも軟弱者だったとはな。」
紅先の罵るような言い草に、さすがのあかりも眉をぴくりと動かす。しかし彼女は冷静さを貫き、苛立ちの衝動を無理やり抑え込もうとする。
「拳を交えることすべてが、強硬な者と言い張ることこそ、浅はかな考えではなかろうか?道場の主であれば、そのぐらいの識別がある有識者と思っていたが、いささか残念なことだ。」
あかりの吐き捨てるような嘆きの言葉に、紅先は表情をにわかに険しくした。力量で道場主に成り上がった彼にしたら、彼女の稚拙な考えなど当然受け入れ難いものであろう。
格闘家でありながら生温い考えのあかりに、紅先は表情こそ崩さないものの、怒りを覚えるほどの嫌悪感をあらわにする。彼の全身からおぞましい波動がほとばしり、彼女だけではなく、門下生たちまでも震え上がらせてしまった。
それでもあかりは怯もうとはせず、ここまで来た使命を果たすべく、ジャケットのポケットから一つの書類を抜き取った。
「これは話し合いによる休戦の誓約書。ぜひともお受け取りの上、ご署名を頂戴したい。」
あかりが紅先へ突き出した、この誓約書の概略は以下の通りだ。
五浦空手道場の師範代の一人、真倉夜未の掟破りの行為に対する五浦あかりからの陳謝、そして以後、掟に背くことなく一切身勝手な行為に及ばないこと。最後に、市井の人たちへ迷惑を掛けたことによる、紅先剣三郎の謝罪を要求するものであった。
これぐらいならば、人として心のある道場主であれば、いとも容易く署名できるものだろう。あかりは概要を示しながら、紅先に血を流さない和平交渉を迫るのだった。
「・・・滑稽やな。」
紅先はフンと鼻で笑った次の瞬間、疾風のごとく地面を蹴り出し、あかりの手にあった書類に隼のような手刀を振るった。
真っ二つに切り裂かれた誓約書は、あかりの手の中からこぼれて、儚い花びらのようにゆっくりと、静かに大地へと舞い落ちる。
かまいたちのような鋭利な刃に、一歩たりとも動けなかったあかり。彼女の頬を掠めた一筋の傷から、真っ赤な鮮血がにじんでいた。
「コケにされた上に、さらに謝れとは、この俺もずいぶんなめられたもんや。」
闘いこそがすべてと言わんばかりに、ニヤリと口角を吊り上げる屈強の道場主。話し合いなどない、平和的解決など存在しない。それが、邪心に満ちた悪魔のような男のただ一つの答えだった。
あかりは小刻みに震える手で、頬から滴る赤い鮮血にそっと触れる。己の血の冷たい感触が、彼女の胸に押し込まれていた何かを吹っ切らせてしまった。
「・・・誓約書だけじゃなく、心の迷いすら断ち切られてしまったようやな。」
意味深な台詞をつぶやいたあかりは、不敵な笑みを浮かべて、半分になった書類をジャケットに仕舞い込んだ。
「真剣勝負、や。」
「ん?」
あかりの一言がすべてを物語っていた。最後まで守り通してきた約束を破り、五浦空手道場の看板を守る一人の師範代として、闘いという血なまぐさい舞台に身を投じることを・・・。
「ここまで挑発されたら黙ってられへん。わたしにも、プライドも意地もあるさかい。真剣勝負による決着、それなら文句あらへんやろ?」
「ほう、ようやくその気になったようやな。その勝負、もちろん受けて立ってやろう。」
真剣勝負にて、己の技量を競い合うことを誓った紅先とあかりの二人。しかしそれは、道場の看板という威信をかけた、捨て身とも言えるお互いの死闘を告げるものであった。
真剣勝負の開催は3週間後の午後1時。開催場所はこの道場で、勝敗は一本勝負。あかりが勝利した場合は、両道場の休戦宣言ならびに紅先からの謝罪。一方紅先が勝利した場合は、五浦空手道場の看板預かりにつき道場閉鎖。二人はこの場で淡々と詳細を話し合った。
これでは、あかりの方が明らかに不利な条件で、しかも大きな重圧を背負うことになるが、それでも彼女は端然と構えて、果敢にもそのすべてを受け入れるのだった。
「それでは3週間後、この道場に再び参る。本日はお邪魔さていただき失礼した。」
あかりはきちっと姿勢を正して、この邪悪の巣窟を掌握する道場主、ならびに、悪の権化の小間使いと化した門下生たちに深々とお辞儀する。それは彼女にとって、正々堂々と拳を交える敵に対する、最低限の礼儀だったのかも知れない。
張り詰めた緊張感が漂う中、蔑んだような、哀れむような視線を浴びつつ、あかりはいっさい姿勢を崩さず、暗がりの道場から歩き去っていく。開け放たれた正門を抜けて、険しい石の階段を下りきった彼女。その直後、彼女はうつろな目線で上空を仰いだ。
「・・・父さん、母さん、夜未。みんな、ごめんな。わたしもやっぱり、掟破りの親不孝もんやわ。どうか堪忍して。」
鉛色の空を見上げるあかりの目から、一滴の涙がこぼれ落ちる。
ここまで踏ん張ってきた彼女も、いくら道場の師範代とはいえ、一人の女性であることに違いはない。罪悪感に苛まれた繊細な心の中で、彼女は堪え切れなくなった後悔の涙を流し続けていた。




