第五話 三.悲しみの雨はいつか上がる
アパートから逃避行した潤を捜索していた真人と奈都美。二人は差し当たり、明かりの消えない最寄駅方面へと足を向けることにした。
夜の帳が下りた街並みは思いのほか肌寒く、木枯らしのような夜風が散った枯葉を舞い上がらせる。寒さに身を切る二人は、キョロキョロを首を振りながら、木の葉がガサガサと騒ぐ路地を突き進んでいた。
無論、潤の足取りに当てなどなく、最寄駅方面に向かったという確たる根拠もない。それでも二人は、泣き虫のギャルが暗がりに逃げるわけはないだろうと、そんな安直な理由でそう判断していた。
「・・・と、考えてはみたけど、そう簡単に見つかるわけないだろうな。」
思わず不安げな独り言をつぶやき、困惑の表情を浮かべる真人。夜が更けていくたびに、彼の心中に渦巻く焦燥感はますます増大していく。
徒労は避けられないだろうと覚悟を決めた矢先、真人は奈都美から、呆気に取られるぐらいの予想外の言葉を聞かされることになる。
「マサ、あそこ見て。ほら、潤だよね、あの子。」
「え、もう見つかったのか?」
嬉しいはずの一言にも関わらず、真人は拍子抜けしたような上擦った声を上げた。
奈都美の人差し指が示したところには、なぜか左足を宙に浮かせて、おぼつかない歩き方をする女性の後ろ姿があった。ついさっきまで見ていた派手な衣装、そして見慣れた茶髪が、その女性が潤であることを明確に告げていた。
真人と奈都美はホッと胸を撫で下ろし、ヨタヨタと歩く潤のところまで駆けつける。近づいてみると、潤の手には、ヒールの部分が折れ曲がったブーツが握られていた。彼女の浮かした左足は、当然ながら素足である。
「そんな靴で逃げるから、そんな目に遭うんだぞ、潤。」
聞き覚えのある真人の声に、潤は泣き腫らした顔で振り返る。
左足にハンデを背負った潤には、追いかけてきた二人から逃走する力など残ってはいなかった。いやむしろ、誰かにすがりたかったかのように、彼女は奈都美の腕にしがみつき、曇り空を突き破るぐらいの大声で泣き出してしまった。
慟哭する潤の髪の毛を優しく撫でて、奈都美は穏やかな思いで彼女を慰める。真人もそこに寄り添い、彼女たちのことを思いやるように包み込んでいた。
潤の大粒の涙は雨乞いだったのか、真っ暗な夜空から冷たい雨が降り注いできた。それは小雨ながらも、傘を持たない三人のことをひたひたと濡らしていく。
「このままじゃ風邪引いちゃう。ひとまず、商店街で雨宿りしよう。」
真人と奈都美、そして二人に肩を借りた潤は、早足に屋根のある商店街の店舗前まで急いだ。
すでに閉店したお店のシャッターにもたれかかった三人は、ハンカチで濡れた髪を拭いた後、屋根を打ち付ける雨音をただ意味もなく聞いていた。
それからしばらく、自然が織り成す雑音しか聞こえない沈黙の時間が流れた。しかし、その目の見えない重圧に堪えられずに、潤はうつむきながら、真人と奈都美に後悔の念を口にするのだった。
「・・・子供扱いされた時、ついカチンと来ちゃって。あたしさぁ、もう頭の中が真っ白だったんだ。」
何をするにもうまくいかないことに嫌気が差し、私生活を投げやりに振る舞い自暴自棄に陥りかけていた潤。そんな心情を逆撫でするような麗那の忠告に、彼女は我も忘れて錯乱してしまったのだという。
キャバクラでは勤務怠慢、美容学校では授業欠席を繰り返し、目標を掲げれば掲げるほど、どんどんぬかるみにはまってしまった自らの愚かさを、潤は涙ながらに悲観するしかなかった。
「そうか、やっぱりあの時、雑貨店にいたのはサボリだったんだね。」
「・・・うん。嘘ついちゃってゴメンねぇ。あの時さ、あそこから逃げたい一心だったんだ。」
潤は詮索されることを恐れて、後ろめたさに真人のもとから走り去った。そんな彼女の思いは、それがたとえ同情心だったとしても、彼や他の住人たちに叱責されたくない、臆病な心の表れでもあった。
アパートを飛び出してから時間も経過し、ある程度の冷静さを取り戻した今、すっかり猛省している潤は、姉のような存在の麗那に謝罪したい気持ちを口にしていた。
「できることなら、すぐにでも謝れたらと思うけど。麗那さんも心の準備もあるだろうし、何よりこの雨ではなぁ・・・。」
真人はしとしと降る雨の粒を見て途方に暮れる。
夜半から降り出した秋雨はまだ続いていた。アスファルトもすっかりびしょ濡れで、いくつもの水たまりが街頭の明かりをキラキラと反射させている。
雨のせいで熱を奪われた冷たい空気が、雨宿りする三人の体温をどんどん奪っていく。着衣が湿っていることも、寒さに追い打ちをかける要因でもあった。
「このままここにいたら、本当に体調を崩し兼ねないよ。どこか暖かいところで休憩した方がいいかも。」
奈都美は寒そうに腕組みしながら、商店街の店舗を一つ一つ見渡している。それに続くように、真人も首を左右に振って、どこかにいい場所がないか捜索を始めた。
そんな二人のことを気に掛けていた潤が、うなだれたまま、ためらいがちにボソッとつぶやく。
「よかったらさー、あたしと、カラオケに付き合ってくれない?」
潤の思いがけないプランを耳にして、ポカンとした顔を見合わせる真人と奈都美。
とはいうものの、カラオケボックスであれば、寒さを凌げるし、湿った衣類も乾かせる。しかも、商店街から少し歩いた先の繁華街の一角に店舗があるため、それほど濡れずに移動もできそうだ。
雨宿りにしては少々大げさではあるが、好条件が揃っているという点では、頭ごなしに否定するプランではないと、真人も奈都美もそういう結論に行き着くのだった。
「・・・まぁ、潤が行きたいっていうなら、オレは別に構わないけど。」
「・・・うん。あたしも、付き合うぐらいだったら、全然いいけどさ。」
逡巡としながらも了承の意思を示す二人を見るなり、潤は目を腫らしながらも愛らしく口元を緩めた。
そうと決まればと急かす潤を宥めて、真人は携帯電話を握って、アパートで留守番している由依に電話を掛けた。潤を無事に保護(?)したこと、そして、雨宿りするため帰りが遅くなってしまうことを、彼は嘘偽りなく正確に伝える。
ただ一点、不謹慎と思ったのか、これからカラオケに行くことだけは伏せた真人。彼なりに、アパートで心配していた麗那たちのことを気遣ったのであろう。
「連絡も入れたし。それじゃあ、行くとするか。」
潤は再び、真人と奈都美の肩を借りる形で、雨に濡れた商店街を繁華街方面に向けて歩き出す。
鬱陶しい雨は続いていたが、真人と奈都美の気持ちはちょっぴり晴れやかだった。潤が自省してくれたこと、そして何よりも、彼女の表情が少しでも救われたことに、嬉しさを隠し切れない二人であった。
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ほぼ同年代の住人三人が己の歌唱力を競っている頃、時を同じくして、ここはアパートのリビングルーム。
「そう。ついさっき、そんなことがあったのネ。」
「思い返すたびに、大人げなかったと痛感するわ。もっと言葉を選ぶべきだったとね。」
テーブル席でまだ塞ぎ込んでいる麗那。そんな落ち込む彼女のことを慰めるのは、つい今しがた、プライベートの時間を過ごして帰ってきたばかりのジュリーだった。
ジュリーが帰ってくるまでの間、麗那の慰め役を務めてくれていた由依の姿は、もうすでにリビングルームにはなかった。夜も更けてきたこともあり、彼女はジュリーと交代する格好で、その役目を完遂して自室へと引き上げていたのだ。
気が滅入っている麗那の話し相手になろうと、ジュリーは帰宅してきたままの身なりで、彼女の向かい側の椅子に腰を下ろしていた。
「仕方がなかったと思うわヨ。潤の態度も悪かったわけだしネ。」
「でもね、年上として、もう少し感情を抑えなきゃいけなかったと感じるの。」
麗那は気持ちを切り替えることができず、潤に手を挙げてしまったことをしきりに悔いている。いくら突発的だったとはいえ、もっと慎重に行動すべきだったと、彼女は自己嫌悪に陥るばかりだった。
普段からポジティブ志向の麗那が、これほどまでに落胆していることに、正直動揺をごまかし切れなかったジュリー。その辺りを尋ねてみると、麗那の口から溜め息交じりの心情が漏れてきた。
「潤じゃないけど、わたしも最近、いろいろと悩み事があってね。お仕事も忙しかったし、ストレスもあってちょっぴりイライラが溜っていたのよ。」
他界してしまった敬う先輩の願い、それに応えるよう無我夢中に走ってきた麗那は、事務所にも、そしてマネージャーにも迷惑を掛けたくない信念から、しゃにむにモデル活動をこなしてきた。
親友の紗依子へのお祝いすら邪魔してくる仕事に不快感を持ち、ここ最近の不甲斐なさをライバルにも諭されてしまった麗那は、熱意といったものや進むべき道すらも失いかけていた。
アパートの住人たちの中で、まとめ役として一人気を張ってきた麗那。胸に支えていた塊を吐き出すかのように、彼女は誰にもぶつけようのない苦心を吐露するのだった。
「・・・なるほどネ。」
麗那の心情を察し、彼女の精神的苦痛を理解しようとするジュリー。がんばり過ぎる同居人、かつ晩酌仲間に、ジュリーはお説教にも似た励ましの気持ちを声に乗せる。
「麗那の憧れの先輩は、今のあなたのことをどう思ってるかしらネ。きっと、明るく振る舞う、素敵な笑顔を浮かべるあなたを応援したいと思ってるんじゃなイ?」
うつむかせていた顔をそっと上げて、麗那はジュリーの穏やかな笑顔を見つめる。
「素敵な笑顔が作れなくなるほど、這いつくばってまでがんばれって、天国にいる先輩は、あなたにそう無理強いするかしらネ。」
アマチュアが忠告するのは生意気と前置きしながらも、プロであっても休息や遊び心は大切だと説き、ジュリーは衆人環視の前に立つ者同士として、麗那に気を休めるようアドバイスを贈った。
プロフェッショナルだからといって、怠けてはいけないわけではない。ましてや、恋愛をしてもいけないわけでもない。ジュリーの飾らないその一言一言に、麗那は目からウロコが落ちるような気分だった。
「・・・ありがとう。ジュリーらしい助言だね。」
麗那はクスリと微笑した。豆電球ほどの小さい明るさながらも、彼女の萎えた心にほのかな光が射したようだ。
「どういたしまして。わたしたち、フレンドでしょウ?いやもう、ファミリーかナ?」
「ファミリーだと、わたしたち同い年だから、どっちがお姉ちゃんになるのかな?」
ジョークを交えながら、和やかに微笑みを向け合う二人。職種こそ違えど、舞台の上を活躍のフィールドにする者同士、友人の粋を越えた絆がそこにはあったのかも知れない。
「さてと。場が和んできたところで、そろそろ始めちゃおうかナ。」
ジュリーは思い立ったように席を立つと、ステップする感じで、台所のそばにある冷蔵庫のところまで歩いていく。
麗那が頭を傾げながら待っていると、ジュリーはまたまたステップ感覚でウキウキしながら戻ってきた。そして彼女は、手に持っていたアレをテーブルの上に置く。
「さぁ、麗那。お待ちかね、待望の晩酌の時間ヨ。」
目の前に置かれた缶ビールに、気持ちがほのかに高ぶり、ついつい口元を緩めてしまう麗那。こんなところにも、彼女とジュリーの他ならない意志の疎通が垣間見れる。
クスクスと笑って、気が利く飲み仲間のことを褒め称える麗那に、ジュリーは口角を上げて悪戯っぽい笑みを差し向ける。
「当然ヨ。のんべえには、のんべえの考えてることがちゃんとわかるのヨ。」
「もう、のんべえは止めてよー。わたしはそんなに酒豪じゃないんだからね。」
麗那とジュリーはプルトップの開いた缶をぶつけ合い、今日一日の終わりと、新しい明日を祝して乾杯する。それから2時間ほど、ささやかながらも賑やかな女子会が、この二人きりのリビングルームでまったりと繰り広げられるのだった。
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カラオケボックスで目一杯、のど自慢を楽しんだ同世代の三人。哀れにもお小遣い切れという事態により、名残惜しくも煌びやかなお店を後にする。
時刻は夜9時を過ぎて、日曜日の夜の繁華街は思いのほか閑散としていた。騒がしい若者たちも、酔っぱらったオヤジたちの姿もなく、さっきまで降っていた雨でできた水たまりだけが、そこに足跡を残していた。
雨の止んだ夜空を見上げて、ホッと安堵の息をこぼす真人と奈都美。金銭的に余裕のない彼らの帰宅の手段は、タクシーといった贅沢品ではなく、もちろん自らの両足、そう徒歩のみであった。
「雨、止んでくれてよかったね。」
「ああ。願ったり叶ったりだよ。カラオケでの雨宿りも無駄じゃなかったみたいだ。」
びしょ濡れの路面を避けつつ、ゆったりとした足取りで歩き出す真人と奈都美の二人。・・・なぜ二人なのかというと、もう一人の潤は、泣き疲れたのか歌い疲れたのかわからないが、彼の背中の上で、クークーと寝息を立てて眠っていたのだ。
「それにしても、潤、よく眠ってる。本物の猫みたいだね。」
心地よさそうに寝ている潤に、奈都美は優しい眼差しを向けている。背中に重みを感じる真人も、やれやれといった声でぼやきながらも、その表情はとても穏やかだった。
この真人と潤のツーショット、アパートの住人たちにはすっかりお馴染みの光景であった。酔い潰れた彼女の送迎役は、ただ一人の男性である彼の重要な責務というわけだ。
どういうわけか、真人におんぶされた潤は、あまりに居心地がいいのか、ほとんど目を覚ますことがない。眠り姫は今宵も、彼の背中の上でぐっすりと安眠しているのであった。
「潤も、これでもかってぐらい歌ってたもんな。最後の方なんて、喉がガラガラだったし。」
「だよねー。あたしたちなんて、歌うよりも、ほとんど聴き役みたいなものだったもん。」
カラオケボックスでは、大好きな女性ポップソングばかりを熱唱していた潤。時折、奈都美と一緒になって歌ったり、真人とデュエットしたりと、彼女はストレスもしがらみも何もかも発散させていた。
そんな潤の活力ある振る舞いは、いつも通りの彼女に戻ってくれたように見えた。しかし、元気過ぎてタガが外れてしまい、再びポカをやらなければいいなと願う、真人と奈都美の二人だった。
「ふぁあ。眠くなってきちゃった。明日の早朝トレーニングに影響しちゃいそうだ。」
今振り返ってみたら、真人と奈都美の二人にとって、今日一日は大変ご苦労な一日であった。それでも、終わりよければすべてよし。二人は心地よい疲労感にほっこりと苦笑いしていた。
「・・・う、ううん。むにゃ、むにゃ。」
路地を歩いている最中、真人の背中で眠りこける潤のかすかな寝言。苦しくなったかも知れないと、彼は一瞬だけ踏む足を止める。
どんな寝言なのだろうか?と、潤の寝顔にそっと耳を近づける奈都美。真人もじっとしたまま、潤の寝言に耳を澄ましていた。
「・・・マサぁ、奈都美ぃ、今日はありがとー。あたし、がんばるぅ・・・むにゃ、むにゃ。」
潤の途切れ途切れの寝言を耳にするなり、奈都美はニカッと歯を見せて笑い出した。
「やだ、この子!寝ながら、あたしたちにお礼を言ってる。ははは、かわいい。」
「もしかすると、オレたちと歩きながら帰ってる夢を見てるんじゃないかな。」
奈都美につられてしまい、真人も思わず嬉しくなって頬を緩めていた。彼はそっと静かに歩き出し、潤に対し返礼の言葉を投げかける。
「潤、気にすることないよ。オレも奈都美も、潤のかけがえのない親友だからさ。これからも、こうやって賑やかに仲良く遊ぼうな。」
真人に続けるように、奈都美もうんうんと相槌を打ち、これからもずっと友達だよと、励ましのメッセージを送った。
心温まる真人の言葉は、眠っている潤の耳には届かなかったかも知れない。それでも、密着している体を通して、温もりだけは彼女の心に伝わることを、彼は切に願うのだった。
「・・・ありがとね♪」
ふと舌足らずな愛らしい声が耳元に届いて、真人と奈都美はびっくりした顔でピタッと立ち止まってしまった。二人はほぼ同じタイミングで、眠っているはずの潤の様子を確かめた。
起きているのかと思いきや、潤はグーグーと、わざとらしいいびきを鳴らして目をつむっていた。これだけあからさまでは、タヌキ寝入りだとすぐにバレてしまうだろう。
「おい、潤、起きてるな。寝たふりしても無駄だぞ。」
潤をおんぶしたまま、ゆさゆさ上体を揺らしている真人。彼女はそれでも、意固地なまでに寝たふりを継続しようとしたが、だんだん気分が悪くなってきたらしく、瞳を閉じたままついうめき声を上げてしまう。
「う~、あたしはただいまおねんね中~、だから揺らすなぁ、むにゃ、むにゃ。」
「お、そうやって、まだごまかし続ける気だな?よーし、こうなったらもっと意地悪するぞ。」
真人はもっと気分を悪くしてやろうと、潤を背負ったまま、両足をじたばたさせたりダッシュしたりした。これにはさすがの潤も、猫のような鳴き声でわめいて、もうやめて~と許しを請うのだった。
そのやり取りを傍で眺めていた奈都美は、近所迷惑だから止めなさいと咎めつつも、迷惑も考えずに、お腹を抱えて大笑いしていた。
ほぼ同い年の三人は、宵闇に紛れながらいつまでも笑っていた。その友情を深め合う騒がしい笑い声は、アパートに辿り着くまでずっと続いていた。




