第五話 一.わがまま少年のお姉さん
薄っすらと曇り空の広がる日曜日の午後1時過ぎ。アパートの玄関前には、これから出掛ける管理人の真人と、住人の奈都美と由依の姿があった。
真人は財布の中に仕舞っておいたカギを持ち、慣れない手つきで玄関の施錠をしている。それはなぜか?留守番を買って出てくれていたあかりが、緊急の用事で帰ってこれなくなってしまったからだ。
「これで、よしっと。」
玄関のドアがちゃんと締まっていることを確かめた真人。彼と由依は今から、奈都美の定期検査と例の小学生のお見舞いのために、「胡蝶蘭総合病院」まで足を運ぶ予定なのだ。
「あかりさん、いきなりの電話だったけど、緊急の用事って何だろうね。」
「詳しくは話してなかったけど、出版社に立ち寄る用事ができたらしいよ。打ち合わせか何かじゃないかな?」
クエスチョンマークを頭に浮かべる奈都美に、真人は電話を直接受けた時のことをそのまま伝えていた。
留守番役が急遽不在となり、真人は代打として祖父である居太郎を訪ねてみたが、残念なことに、彼もどこかへ外出中で不在だったため、致し方なく、不慣れな玄関の施錠をする羽目となってしまった。
「でも、カギ締めちゃって大丈夫かな?みんな、カギ持たないで出掛けてるよね、たぶん。」
「いつも持って出掛けてるのは潤ぐらいだからなぁ。彼女のことだから、そんなに早く帰ってこないだろうね。」
もう繰り返し説明するまでもないが、このアパートでは留守番役がいるせいか、住人のほとんどが、部屋のカギは持っても玄関のカギを持たずに出掛けてしまう。
過去にも、こういう事態により玄関を施錠したところ、締め出された格好となってしまった住人がいたのもまた事実なのである。
真人と奈都美の悩ましいやり取りを、哀れむような目で見ていた由依。律儀な性格だけに居たたまれなくなったのか、彼女は控え目ながらも留守番を買って出ようとする。
「あの。わたくし、もしであればお留守番しましょうか?」
「いや、由依さんが気にすることじゃないよ。」
管理人並みの心配りを示す由依に、真人は住人に要らぬ心配をさせてしまったことに苦笑する。
もし誰かが締め出されたとしても、携帯電話に何かしら電波が届くだろうと、真人は楽観的な自論を展開し、由依をこれ以上心配させまいとした。
真人の説得を横で聞いていた奈都美も、カギを持たずに出掛ける方が悪いと、ごく当たり前のことを放言し、口元をわずかに緩めていた。
「それに、オレたちもそんなに遅くはならないだろうし。だから、一緒に行こうよ。」
「はい。お二人がそこまでおっしゃるなら、ご一緒します。」
由依はちょっぴり嬉しそうに、真人と奈都美の二人に愛らしい微笑を向ける。ピンク色のカーディガンにチェック柄のブリーツスカートでおめかしした彼女。その装いからして、お出掛けしたい気分なのは否めなかったようだ。
それでは気を取り直して出発!と言わんばかりに、三人はアパートの玄関に背中を向けた。すると、奈都美が何かを思い出したような声を上げて、真人と由依の二人を呼び止める。
「ねぇねぇ、ニャンダフルは大丈夫かな?」
奈都美からの問いかけに、その心配はないと真人が首を縦に振った。
「ああ、エサも水もまだ容器に残ってたし、リビングのドアもちゃんと開けておいたから大丈夫だよ。」
どうしてこんな話となったかというと、ニャンダフルがお散歩に出掛ける時は、この玄関からではなく、非常口に設けてある猫専用の通用口から出入りしている。
その通用口はいつでも開放されているため、帰ってくる際は何ら問題とならないものの、食事や休憩場所であるリビングルームだけは、ドアを開放しておかないと、ニャンダフルは当然入ることができないというわけだ。
「よし、今度こそ大丈夫だね。それじゃあ出発!」
これで気掛かりもなくなり、安堵の笑みを見せ合う三人はいざ仕切り直して、アパートにしばしの別れを告げてから歩き出していった。
・・・これから数時間後に、予期もしない大事件が勃発することなど、もちろんこの三人は知る由もなかった。
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時計の短針が午後2時を告げる頃、ここは「胡蝶蘭総合病院」の整形外科病棟だ。
閑散とする通路では、ここが整形外科病棟であることを物語るように、痛々しい顔で移動する車椅子の患者や、松葉杖をつく患者がまばらながらも見受けられた。
定期検査を予定通りに終えた奈都美、そして付き添いの真人と由依は、入院患者たちの通行に邪魔にならぬよう、通路の端っこを小さな足音を立てて歩いていた。
「検査の結果が良好でよかったね、奈都美。この様子だと、練習参加の日も近いんじゃないかな。」
「最終的な判断はもう少し先になるけど、実感みたいなものはあるね。うーん、待ち遠しいなー!」
担当外科医の言葉通りであれば、奈都美の本格復帰はそう遠い話ではないようだ。彼女は喜びのあまりつい声を弾ませてしまい、次の瞬間、周囲を気遣うように口に両手を宛がっていた。
静かな歩調で歩く三人の辿り着いた先は212号室。病室のドアのそばにあるプレートには、あの小学生の名前である片町拓也の名前が記されていた。
いくら小学生とはいえ、ほとんど面識がないといっていい真人は、年甲斐もなく少しばかり緊張気味だった。一方、まったく面識のない由依も、こういうことに慣れていないせいか、硬い表情のまま口を閉ざしていた。
そんな二人のことなど気にも留めず、奈都美はお友達に会う感覚で、病室のドアをノックして軽やかな足取りで病室内へと突き進んでいった。
「おーい、拓也くん。元気にしてたかな?」
「あ!お姉ちゃんだ。来てくれたんだね。」
白いベッドの上に腰を下ろしたパジャマ姿の少年。足に巻いた包帯が痛々しいが、その表情はとても明るくて晴れやかだった。
再会を喜ぶように、さわやかな微笑みを向け合う奈都美と拓也は、サッカープレイヤーらしく、ハイタッチで元気よく挨拶を交わした。
拓也に付き添っている母親は、訪問してくれたことに笑顔で応えた後、奈都美の後ろにいる見知らぬ二人にさりげなく会釈していた。
「今日はお見舞いに来たんです。この二人は、あたしが住んでるアパートの同居人の友達です。」
奈都美に促された真人と由依は、お辞儀をしながら控え目に名前を名乗った。
拓也も母親もその事情を知るや否や、わざわざ同行してくれた二人に気さくな笑顔を向けてくれた。親しみやすい親子を目の当りにして、真人と由依は幾分か緊張感が和らいだようだった。
もったいぶるような顔つきで、隠していたお見舞い品を拓也少年に差し出す奈都美。真人と由依からも協力してもらったその気持ちとは、スポーツ少年の復帰を応援するタオルの詰め合わせであった。
「リハビリする時、汗かいちゃうでしょ。だから、このタオル使って、これからもがんばってもらおうと思ってね。」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
プレゼントを受け取った拓也は、素直なままに喜びを表現していた。その少年っぽい純粋無垢な仕草に、奈都美だけではなく、真人と由依もほんのりと嬉しさが込み上げるのだった。
「奈都美さん、拓也のためにいつもごめんなさい。こんなものまでいただいて、何てお礼を申し上げたらよいか。」
「ははは、気にしないでください。サッカー選手同士の友情の証しみたいなものですから。」
母親のかしこまったお礼を前にして、奈都美は照れ笑いを浮かべて両手をばたつかせる。
サッカーという共通の交流のみならず、リハビリを一緒に励んでくれた拓也本人に、奈都美はお見舞いと贈り物いう形で感謝の意を示したかったのだ。
奈都美と母親の会話を耳にしていた拓也少年は、ハッと何かを思い出したような顔で、大きく見開いた目で奈都美のことを凝視していた。
「リハビリが終わっちゃったってことは、お姉ちゃんともう会えなくなるってこと!?」
嫌だ嫌だと声を上げて、拓也は小学生らしい駄々っ子ぶりを発揮する。それを宥める母親、そして、ベッドの上でじたばたと暴れ出す少年。まるで、おもちゃ屋さんの前で見かける親子のような構図だ。
ありふれた光景とはいえ、口の挟みようもない真人と由依は、お互いの顔を見合わせてオロオロすることしかできない。しかし、奈都美一人だけは、ニコニコと余裕の笑みを浮かべていた。
「こら、拓也くん。サッカー部のキャプテンが情けないぞ。」
奈都美の諌める言葉に、半泣きだった拓也の顔つきが変化した。母親の言うことすら聞かない彼が、彼女の叱咤激励には、スクッと姿勢を正しておとなしくなってしまった。
慎ましくしゅんとしている息子に、母親は思わずクスクスとほくそ笑んでいた。傍目で眺めていた真人と由依の二人も、彼女の微笑みにつられるように、失礼と思いながらも頬が緩んでしまっていた。
「拓也くん、安心して。あたしも、ヒマがある時にまたお見舞いに来るから。」
「お姉ちゃん、それ本当!?」
それが真実だと言わんばかりに、力強く頭をうなずかせる奈都美。サッカー選手は嘘つかないと、彼女は指切りげんまんの小指を差し出していた。
怪我が完治して退院したら、いつか一緒にサッカーをしようと誓いを立てる二人は、サッカーという球技を通じた歳の差のある友情を今、ここに穏やかな雰囲気の中で結ぶのだった。
「よかったわね、拓也。奈都美さんの言う通り、ちゃんとリハビリに励むのよ。」
「うん!わかってるよ。ボクだって早く退院して、ボールを思いきり蹴りたいもん。」
愛息に暖かい眼差しを送っている母親の姿は、とても微笑ましくて和ましい。しかし、彼女の表情はどこか寂しげで憂いすら感じさせる。お見舞いに来ていた三人は、その違和感に気付くことはなかった。
長居は体に障るので、奈都美たちはそれから数分ほど会話してから、寂しくも仲良し親子にお別れを告げる。拓也少年の名残惜しい声に後ろ髪を引かれるも、また近いうちに来るからと、住人三人は恐縮しながら病室を後にした。
「マサに由依ちゃん。今日は付き合ってくれてありがとう。」
奈都美は乳白色の廊下を歩きながら、同行してくれた二人に両手を合わせていた。それには及ばないと、真人と由依は微笑しながら首を軽く横に振っていた。
「こういうお見舞いも珍しいし、新鮮だったから、それとなくおもしろかったよ。」
「わたくしも楽しかったです。また機会があれば、お見舞いに同行させてください。」
真人と由依の心配りの声に、奈都美はホッと息を吐きニッコリと笑っていた。その明るい顔色には、チームの練習への復帰が近いことによる安堵感も見え隠れしていた。
留守番役のいないアパートへの帰路を目指す三人。病院という硬直的な施設に気持ちの上で萎縮しつつも、その歩調はどこか急ぎ足に見えなくもなかった。




