第四話 四.二つのアイスクリーム
日も暮れかけた、その日の夕方4時過ぎ。晴れ間が続いているせいか、見渡す景色はまだ明るかった。
ここは、アパートから徒歩10分ほどに位置する「山茶花中央公園」。その公園のベンチの上に腰を下ろし、大きなあくびをしている女性が一人。
眠たそうに腫れぼったい目を擦っては、ヒマさえあれば大あくびをするその女性。家に帰ることもせず、だからといって遊ぶところも浮かばない彼女は、ただただ公園のベンチで無駄な時間を費やすのだった。
「・・・う~、お腹空いてきちゃったなぁ。」
その女性は腹ペコを絵に描いたような顔で、長袖ワンピース越しのお腹を擦っている。財布が空っぽなわけでもないのに、彼女はその場に根を下ろしたように、ベンチから一歩たりとも離れようとはしなかった。
バッグからおもむろに携帯電話を取り出したその女性は、茶色い巻き髪を手でいじりながら、暇つぶしに着信メールをチェックしていた。
そんな寂しい女子が佇むベンチの前の園路を、夕涼みのお散歩を楽しむ一人の男性が通りかかる。
「おやおや?」
その男性は眉間に何本もしわを寄せて、ベンチに腰掛けている女子の顔を眺めてみる。すると、顔見知りだったらしく、彼は歩み寄りながら彼女の名前を呼んでみた。
「おーい、潤ちゃん。」
声を掛けられた女性は、携帯電話の画面から、呼びかけてきた男性の顔に視点を移動した。
「ありゃりゃ、ハッちゃんじゃない。どうしたのー?」
夕暮れ近い公園で偶然出会ったのは、アパートの元管理人である居太郎と、アパートの住人である潤の二人であった。
あまりの偶発さに驚きを隠せない二人。それもそのはずで、真人が管理人になってからというもの、この二人が顔を合わせるのは久方ぶりだったからだ。
「ハッちゃん、ここで何してたのぉ?」
「見てご覧の通り、年寄りの物好きなお散歩じゃよ。」
潤に了解をもらってから、居太郎はゆっくりと彼女の隣に腰掛ける。ベンチで隣り合うギャルと老人のツーショットは、傍目から見たらさぞ違和感があっただろう。
居太郎は背もたれに背中を預けつつ、携帯電話をいじっている潤のことをチラッと横目で見た。つまらなそうに黙々と指を動かす彼女から、彼はいつもと違う異様な雰囲気を感じ取っていた。
「潤ちゃん、いつもなら、この時間お店じゃなかったのかね?」
「んー、今日はお休みなんだぁ。最近、客足悪くてさぁ、平日はお休みになること多いんだよー。」
携帯電話から目を逸らさないまま、潤は嘆くような愚痴をこぼしていた。完全歩合制であるキャバクラ嬢にしてみたら、休暇の増加そのものが死活問題と言えなくもなかった。
居太郎は哀れむあまり、潤の懐具合だけでなく私生活すらも心配してしまう。それにはさすがの潤も、飢え死まではいかないと、携帯電話をバッグに仕舞いながら苦笑していた。
「もう、すっかり秋だね~。」
両肘を太ももに置いた潤は、頬づえをつくような格好をしながら、公園の園路に顔を出したススキの穂を眺めている。風で揺れるススキは背丈を伸ばし、この公園に秋という季節感を添えてくれた。
居太郎も小さくうなづいて、ススキの穂や花壇に咲き誇る草花を見つめて、秋の夕暮れに哀愁を感じていたようだ。
「そういえば、潤ちゃんは学校にも通ってるみたいじゃな。どうかね、勉強は捗っておるかい?」
居太郎から問いかけられて、顔色を夕闇のように暗くしてしまう潤。まーぼちぼちだよと、気乗りしない、気の抜けたような返事しか口に出すことができない彼女。
やるせなさがあるのだろうか、潤は視線を遠くに飛ばし口を真一文字にしたままだ。そんな彼女に異変を覚えつつも、居太郎は問い詰めたりせず、顔にしわを寄せて微笑するのだった。
会話が止まってしまった二人に、何とも気まずい空気が漂い始めてきた。その数秒後、重たい空気を払いのけたのは、意外にも、潤のお腹に隠れていた空腹という名の虫であった。
「おや。何じゃ、潤ちゃん。お腹が空いているのかね?」
「・・・う、うん。小腹が空いちゃったみたいで、さっきから鳴りっぱなしなのぉ。」
潤は恥らいながら、バツが悪そうにペロッと舌を出している。少なめの昼食のせいだろうと、彼女はお腹を撫でて騒がしい虫を静めようとしていた。
アパートの住人をこよなく愛する居太郎は、潤のことをまたまた哀れに思い、彼なりの心優しい情けを掛けてしまうのだった。
「潤ちゃん。よかったら、商店街のじぇらーと屋さんでも行かんかね?ごちそうしてあげるよ。」
「えっ、じぇらーと!?」
居太郎が誘ってきた”じぇらーと屋さん”とは、お馴染みの商店街にあるアイスクリーム屋さんのことだ。まさか70歳過ぎのお年寄りから、ジェラートという横文字が飛び出すとは思いも寄らず、潤はポカンと開いた口が塞がらなかった。
「ハッちゃん、あのジェラート屋さんのこと知ってるんだぁ!」
実際のところ、居太郎はお友達と自負する由依に教えてもらい、一度お散歩ついでに訪れたことがあるという。その時に食べたアイスの味が今でも忘れられないと、彼は顔をしわくちゃにしながら喜んでいた。
一方の潤も、そのお店のジェラートが大層お気に入りらしく、おごってもらえるなら大歓迎とばかりに、居太郎の手を引っ張って、早く行こうと急かす始末であった。
「ははは。よし、それじゃあ、じぇらーと屋さんでデートとしゃれ込むとするかのう。」
「デート、デート、ハッちゃんとデート~♪わーい、楽しみだなぁ~。」
潤と居太郎は仲睦まじく腕を組んだまま、夕日を背にしながら公園を後にする。その二人の後ろ姿は、誰が見ても祖父と孫娘にしか見えないが、40歳以上差のある異色なカップルであることに違いはなかった。
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「う~ん、どれにしよーかなー。」
「おいおい、潤ちゃん。もうかれこれ5分も迷っておるぞ。どれにするんじゃね?」
地味な印象があるお馴染みの商店街に、一際明るい色彩をあしらったジェラート屋。平日の夕方ともなると、学校帰りの女子学生たちで賑わう、この街でも五本の指に入るほどの人気スポットだ。
居太郎からごちそうに誘われた潤は、甘味好きの女子たちに混じって、選り取り見取りのアイスクリームにすっかり目を奪われていた。
「ねー、ハッちゃん、2つはダメ?」
ストロベリーと抹茶のアイスを交互に指差して、潤は悩ましそうに猫撫で声で甘えていた。さすがにごちそうは一つまでと居太郎に説得されてしまい、彼女は無念さにブーっと頬を膨らませるのだった。
「じゃあ、今日のところはストロベリーアイスでぇ!」
「ようやく決まったようじゃな。それじゃあ、わしはレモン味をいただこうかのう。」
愛らしい制服を着た女性店員から、ストロベリーとレモンのジェラートを受け取った居太郎。
店舗の脇に備えてあるベンチに腰掛けた二人は、それぞれのアイスクリームを鼻に近づけて、フルーツ特有の酸味ある芳しいフレーバーを楽しんだ。
潤はいただきますとはしゃぐ声を張り上げる。居太郎が優しい眼差しで見つめる中、彼女はストロベリーアイスをスプーンで一口すくい、すかさずパクッとお口の中へと吸い込んだ。
「う~ん、おいしい~!やっぱ、ストロベリーにしてよかったぁ!」
「おお、それはよかった。ごちそうした甲斐があったのう。」
お互いの選んだアイスを突き合ったりして、ほくほく顔の潤と居太郎の二人は、本当のデートのような気分を満喫していた。ジェラートの甘酸っぱいおいしさも合わさり、この二人の躍る気持ちをより一層弾ませてくれたようだ。
夕日もほとんど影に隠れてしまったそんな時刻。学校帰りの少年少女や、買い物目的の主婦たちの姿も消えつつあり、喧噪も薄らいで静けさに包まれていく商店街に、明るくて騒がしい潤の笑い声ばかりが響いていた。
「うんうん。ようやく、いつもの潤ちゃんらしくなったようじゃな。」
「え・・・?」
一人感得したように何回もうなづく居太郎のことを、潤は呆気に取られた顔で眺めている。彼の思わせぶりな一言を理解できていない様子だ。
明るさが取り柄で、いつも笑い声が絶えない可憐な乙女。居太郎から見る潤はそんなイメージだった。公園で感じたイメージ通りではない彼女の様相に、彼は元管理人という立場ではなく、一人の男性として気に掛けていたのだ。
「・・・ハッちゃん。」
アイスクリームを食べる手を止めて、笑いの失せた顔をうつむかせる潤。それは、焦燥感に囚われた心情を見透かされたことに、胸を締め付けられる彼女のやり切れない姿であった。
相談事があるなら話してみなさいと、居太郎は穏やかな表情で潤に優しく接する。彼女は感極まったように、涙をグッと堪えながら、ひた隠していた悩みを溢れ出すように打ち明ける。
「あたし、この先どうしたらいいのか、よくわからないんだぁ。お店で人気一番にもなれなくて、最近、学校の授業にもやる気が出なくてさ。」
何をやってもうまく立ち回れない苛立ちを、潤は吐き捨てるような勢いで訴え続けた。誰にも相談できなかったことによる反動が、溜りに溜って一気に噴き出してしまったかのようだ。
潤がどんなに声を荒げても、どんなに口が悪くなっても、居太郎は穏やかなままで聞き耳を立てていた。この包容力こそ、長らく生きてきた者の成せる業というヤツか。
短い時間の中で、言いたいことを一気に捲し立てた潤。まるで小走りしてきた後のように、彼女は息を切らせてほのかに顔色を紅潮させていた。
「なるほどな。そういう事情があったのかね。」
溶け始めてきたレモンのアイスクリームを、一口すくってペロリになめる居太郎。潤に注がれる彼の目線は、今までよりも鋭くて冷ややかさを感じさせた。
「お店で人気一番になること。美しくなって大人の女性になること。・・・潤ちゃんは、いったいどちらを優先したいんじゃ?」
「ええ!?ゆ、優先も何もないよぉ!」
どちらにもなりたいから、どちらも目標に掲げて必死にがんばっているのだと、潤が息せき切って力強く回答すると、居太郎はさらに目を細めて、欲張ってはいかんとお年寄りらしい諫言をこぼす。
「それはよくないな。どちらか一方を優先的に努力しなければ。二兎追う者は一兎も得ず。このままじゃあ、どちらの目標も達成できずに、時間ばかりが過ぎていってしまうよ。」
「でもでも~。あたしは早く大人の女性になって、早くお店でナンバーワンになりたいんだもん!」
相手が誰であろうと、自分の言い分を無理やり押し通そうとするわがままな潤。アイスクリームですらあれだけ悩んだのに、重大な目標に優先順位なんてつけられないと、彼女は困惑めいた顔をブンブンと横に振っていた。
潤のわがままぶりは知ってはいたが、ここまで駄々をこねられてしまうと、さすがの年配者も、困った困ったと苦悩の表情を浮かべるしかない。しかし彼は、駄々っ子のことをちゃんと理解し、しっかり助言ができる元管理人なのである。
「とはいっても、潤ちゃんはちゃんとアイスクリームを選んだんじゃよ。・・・潤ちゃんはさっき、こう言ったよ。今日のところはストロベリーで、とね。」
潤がどのアイスにするか悩み抜いて、最終的にストロベリーアイスを選択できたのは、もう一方の抹茶アイスを別の機会にするという優先順位をつけた証しだと、居太郎は彼女のたった一つの会話からそんな解釈をするのだった。
居太郎からの指摘に真っ向から否定できない潤ではあるが、それでも、アイスクリームも本当なら2つ欲しかったと、彼女は頑固なまでに我を通そうとしてしまう。
「それなら潤ちゃん。これを見てくれるかね?」
居太郎はおもむろに、溶けかかっているジェラートを指し示した。またしてもこの思わせぶりな彼の言動に、潤は乗る気でないのか白け気味の表情をしていた。
「1つならなんてこともないが、もしアイスを2つ買っていたら、どうじゃろう?食べ終わる前に、こんな風に溶けだしてしまうんじゃないかな。」
溶けてしまってもアイスであることに変わりはないが、見た目も味も食感すらも、すべて落ちてしまうのは誰が見ても明らかであろう。
アイスクリーム好きの潤も、居太郎が例える話にはどうも同感だったらしく、彼女は掻き込むように、溶けかかっているアイスを口の中に放り投げていた。
「このアイスを、潤ちゃんの目標と一緒と考えてみたらどうじゃろう?」
スプーンを持つ手をピタッと停止してしまった潤。
「欲張った挙句に、どちらの目標も達成できたとしても、それが本当に美しくて輝いているのか、保証されるものではないんじゃないかのう?」
目標の1つを、シャキシャキに凍った1つのアイスに見立てることで、あまりに欲心を抱いて、本当に大切なものを見失ってはいけないと、そんな戒めを説く居太郎じいさん。
とはいえ、年寄りくさい説教じみた例え話など、今風のギャルの耳にはただ痛いだけで、もううんざりといった顔で機嫌を損ねてしまったようだ。
「もー!ハッちゃんの例えは極端過ぎるのぉ!あたしのことは、あたしで決めるから、もうこのお話は終わりにしてよー!」
「おやおや、これはすまんかったね。わしもちょっと言葉が過ぎてしまったようじゃな。」
すっかりふくれっ面でベンチから腰を上げた潤に、頭を下げてひたすら詫びを入れる居太郎。
居太郎に背中を向けてしまった潤は、もう怒ってないから謝らないでとポツリとつぶやいた。そして、彼女は振り向かないまま感謝の気持ちで言葉をつなげる。
「ハッちゃん、アイスごちそうさま。おかげで、ちょっぴり元気出たよぉ。どうも、ありがとうねー。」
お別れの一言を残して、潤はジェラート屋さんから去っていこうとする。アパートまで送ってあげようと呼びかける居太郎の声を遮るように、彼女は薄暗くなりかけたアパートの反対方向へと消えていくのだった。




