第三話 四.受験勉強では学べないこと
肌寒い夜風が窓ガラスを叩く、まもなく11月になろうかというある日の夜のこと。
アパートの管理人室には、テーブルを前に腰を下ろしている真人の姿があった。彼は一冊のテキスト本を手にして、一心不乱に読書に集中していた。
テーブルの上に散らばる筆記用具、開きっ放しの参考書とノートを見る限り、彼は大学受験の勉学に励んでいる、と思いきや、どうやらそれは違っていたようだ。
管理人室のアンティーク調の時計が、もうすぐ夜10時を告げようとしていた時、管理人室のドアを優しくノックする住人がいた。
「あ、どうぞ。」
真人はドアの開放を了解しつつ、読んでいたテキスト本を、すぐ脇にある戸棚の上にそっと置いた。
「こんばんは~。少しだけお話、いいかな?」
ドアを開けるなり、チラッと顔を見せた住人とは、仕事から帰ってきたばかりの麗那だった。こんな遅い時刻まで活動していても、彼女の表情はいつものように疲れ知らずであった。
「おかえりなさい、麗那さん。お話ならリビングでしましょうか。」
リビングルームへ向かおうと、真人はゆっくりと腰を上げようとする。すると、麗那はそれを制止するように手を突き出して、ここでお話しましょうと申し出てきた。
真人は一瞬ドキッと胸を高鳴らせる。この狭い管理人室で、麗那と二人きりなど滅多にないことだ。彼は不謹慎にも、期待してはいけないことを期待してしまう。
「ごめんなさい、お勉強の最中なのに。ちょっぴりお邪魔してもいいかな?」
「あ、ああ、どうぞ!」
真人は慌ててテーブルに投げ出した勉強道具を片付けて、散らかった消しゴムのカスを丁寧に払いのけた。
これで準備万端と、整理整頓を済ませた真人に促される格好で、麗那は失礼しますと一礼してから、彼の部屋に一歩足を踏み入れる。
カーキ色のタートルネックセーターに、藍色のデニムパンツ姿の麗那。さすがはファッションモデルらしく、しなやかで美しく見栄えのいい着こなしだ。
麗那はクッションに正座するとすかさず、毎晩のお楽しみである缶ビールをさりげなくテーブルの上に置いた。
「はは、そこまで用意周到だったんですね。」
「もちろん。今夜はここで晩酌させてちょうだいね。」
真人と向き合い、缶ビールを傾けて乾杯の仕草をした麗那。グイッと一口ビールを喉に流し込み、彼女は仕事明けの緊張感を緩ませるのだった。
「実はね、これをお渡ししようと思って。」
ハンドバッグから何かを取り出した麗那の手には、はがきサイズの封書が握られていた。それを受け取り、差し込まれた厚紙をまじまじと見つめる真人。
「ああ、これ紗依子さんからの・・・。」
「そう。結婚披露宴の招待状よ。」
紗依子と婚約者である沢美弥祐次の結婚式は、来たる11月3日の文化の日。あと2週間あまりと迫っていた。
「ほら、披露宴に招待されているのって、わたしとマサくんだけでしょ?だから、リビングよりはここで渡した方がいいかなと思ったの。」
ここにいる二人以外の住人たちは、二次会パーティーには呼ばれているものの、結婚披露宴そのものには招待されていない。なぜこの二人だけなのかといえば、紗依子と祐次の両方と面識があるのは、このアパートではこの二人だけなのである。
もともと、紗依子たちは派手な結婚式を望んでおらず、披露宴の式場もそれほど広くないこともあり、他の住人たちには、泣く泣くご辞退いただいていたというわけだ。
「なるほど、それもそうですね。」
麗那がここ管理人室でお話しようとしてきた理由。それを知った真人は、表情にこそ示さなかったものの、少しばかり残念な思いに駆られていたようだ。
式場と披露宴の開催場所は、アパートからかなり遠く、最寄駅からもそれなりに離れているため、駅からタクシーで一緒に行こうと、真人と麗那の二人は、招待状の案内を眺めながら、当日の行程などを簡単に打ち合わせていた。
「そういえば、麗那さんは友人代表のスピーチをするんですよね?」
麗那は困ったような表情を浮かべて、そうなのよねーと不安げな吐息を漏らしていた。仕事柄、衆人環視の目に晒される彼女であっても、いざスピーチとなると、いささか緊張感を隠し切れない様相を呈していた。
困惑している麗那を見て、真人はちょっぴり意外そうな声を漏らしていた。雑誌やテレビで堂々と胸を張る彼女らしくないと、彼は心なしかそう感じてしまったのかも知れない。
「わたしは写るだけで、おしゃべりするお仕事じゃないんだよ。いくら紗依子のこととはいえ、緊張ぐらいするんだからね、もう!」
麗那にちょっぴり叱られて、真人はごめんなさいと頭をペコペコと下げていた。
それからの真人と麗那の二人は、身近な話題といった雑談で盛り上がった。しかし、和やかなひと時は瞬く間過ぎていくもの。この二人にとって、一日の別れとなる就寝の時刻が訪れた。
空っぽの缶ビールを握り締めて、自室へ戻ろうと席を立つ麗那。そんな彼女の眠たそうな目に、小さい木目調の戸棚に置いてある一冊のテキスト本が映った。
「あれ、その本・・・。」
麗那の眼差しの先にあるもの、それは、ついさっきまで真人が黙読していた本だった。
真人は慌てふためいて、そのテキスト本を掴み取るや否や、すぐさま背中に隠してしまった。あからさまに怪しく振る舞う彼のことを、麗那は怪訝そうな目つきで見つめていた。
「あれぇ?マサくん、どうして隠しちゃうのー?わたしに見せられない本なのかしら?」
「あ、いえ、決してそのような理由ではなく・・・。あの、その・・・。」
焦りの表情でしどろもどろになってしまった真人。声を詰まらせれば詰まらせるほど、ますます不審さを増すばかりだ。
隠されれば隠されるほど、人間というのは興味をそそられるもの。麗那はまるでスッポンのごとく、真人への追及を諦めようとはしない。酔った勢いもあるのか、しまいには、お姉さんの言うことが聞けないの?と、強面で迫ってくる始末であった。
「もう、わかりましたよぉ~。」
真人は困り切った顔をして、完全に白旗を上げていた。彼がテーブルの上にそっと置いた本とは、果たしてどんなテキスト本だったのだろうか?
「食品衛生アドバイザー・・・?」
聞き慣れないキーワードに、麗那は不思議そうに首を捻っている。彼女がどういうことなのか尋ねると、真人は照れくさそうにしながら真意を告白する。
「本屋で参考書を探してた時、たまたま目に留まってしまって・・・。」
アパートでたびたび料理をする傍ら、真人は食生活というものにも関心を抱いていた。
和食のわびさび、食事スタイルの欧米化、食材の取り扱いや保存方法、そんな食にまつわるさまざまなテーマに、真人はいつしか心を動かされていたという。
この食品衛生アドバイザーとは、国家資格と違って、民間企業が主催する認定資格であり、それほど敷居の高いものではない。これなら、受験勉強の頭休めに丁度いいと思った真人は、悩んだ挙句、このテキスト本を購入するに至ったというわけだ。
一通りの経緯を聞かされた麗那は、ふーんと感嘆の声を漏らしつつ、テーブルの上のテキスト本を手にする。
「食品衛生をアドバイスするわけか。マサくん、料理上手だもんね。」
謙遜している真人をよそに、麗那はテキスト本をパラパラとめくっては、複雑そうな顔で口のへの字に曲げていた。調理が苦手な彼女にしてみたら、この手のテキストなどさぞ難解だったであろう。
麗那はテキスト本をパタンと閉じると、ふと頭に浮かんだ疑問を真人に投げかける。
「でも、どうして隠したりしたの?こういう本なら、別におかしくも、やましくもないと思うよ。」
食生活というジャンルであれば、誰が見ても疑わしく思うことなどなく、麗那の指摘も最もである。しかし、大学受験を控える真人にとって、横道に逸れること自体がよこしまな考え方と言えなくもなかった。
「受験勉強をおろそかにして、こんな本ばかり読んでると、自分のことが愚かに思えちゃうんですよね。」
受験勉強の気晴らしのつもりが、いつしか、重荷になっていることに気付いた真人は、苦悩にあえぐ今の心情を吐露するのだった。
受験生の苦労を体験したことのない麗那は、居たたまれない気持ちになるも、真人を元気付けるまでの慰めの言葉までは思いつかない。それでも、応援することぐらいはできると、彼女はニコッと愛らしく微笑する。
「マサくんは、愚か者なんかじゃないよ。」
「え?」
真人は伏し目がちの顔を持ち上げて、応援メッセージを贈ってくれた麗那のことを凝視した。
「どんなことにも一生懸命に学習することは、愚かなことじゃない。受験勉強では学べない大切なこと、マサくんは少しずつだけど、それに近づいているんだと思うな。」
アパートの物干し場で、麗那がかつて、真人に伝えていたフレーズ、”大切なものを見つけてほしい”。彼の脳裏に、薄っすらとその時の光景が戻ってきて、彼は照れくさそうに顔を赤らめる。
同時に二つの学習を継続するのは困難だが、その分、成し遂げた時の喜びも大きいだろう。麗那の一つ一つの励ましは、進むべき道を迷いそうになる真人の道しるべとなった。
「麗那さん、ありがとうございます。かなり気が楽になりました。」
「よかったわ。いつでも相談して。わたしにできることなら喜んで協力するから。」
立ち上がって見送ろうとする真人を制止して、麗那はおやすみなさいと声を掛けて、静かに管理人室を離れていった。
管理人室で一人ぼっちとなった真人。彼は再び、片付けていた勉強道具をテーブルに並べる。もう少しだけがんばってみようと、失いかけていたやる気を鼓舞しながら。
時刻はまもなく、夜11時になろうかとしている。それから1時間ほど、管理人室の窓からぼんやりとした明かりが漏れていた。




