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第二話 五.進路に悩める浪人生

 翌日の午前中のこと。

 アパートの留守番をあかりにお願いした真人は、馴染みの商店街の一角にある書店までやってきていた。ここは相変わらず、地域密着型の典型的な佇まいをした、ちょっと古めかしい書店であった。

 真人はこの日、受験勉強の追い込みのためにと、丁度いい参考書を購入しようと考えていた。彼だって歴とした、大学合格を目指す受験生の一人なのである。

「うーん、やっぱり過去問題集かな。それとも、基礎と応用に特化したものがいいかな。」

 参考書を陳列した書棚の前で、腕組みしながら唸り声を上げる真人。書籍のタイトルを目で追っては、どれにしようかと迷いに迷う不毛な時間が過ぎていく。

「お、これはなかなかおもしろそうだな。」

 本屋という狭い迷路を彷徨う真人の視界に、とある一冊の書籍が映った。

 真人はそっと、カラフルな写真で表紙を飾ったその本を手に取ってみる。彼が興味津々で眺めている書籍とは、大学受験にまったく役立ちそうにない手作り料理の本であった。

 真人はもともと、すでに他界している祖母から一通りの料理を教わっていた。その腕前はこれがまた不器用ではなく、彼のこしらえる料理は、一部の酒飲み住人たちから絶賛されているのだ。

 住人たちの喜ぶ顔を見るたびに、達成感と満足感に酔いしれていた真人。彼は当初の目的も忘れて、すっかり料理本コーナーから離れられなくなっていた。

「あらら。もしかして、将来は主婦にでもなるおつもりかなー?」

「へっ!?」

 いきなり背後から声を掛けられて、真人は反射的に読んでいた本をパタンと閉じてしまった。

 真人のすぐ横から本を覗き込んでいたのは、彼のよく知る人物であり、料理という点では、いろいろと指南を受けたりもする人であった。

「び、びっくりしたぁ。紗依子さんじゃないですか。」

「こんにちは、マサくん。」

 アジアンチックな帽子をかぶり、エスニック柄のセーターに袖を通した紗依子。薄化粧に紅の入った唇を見たところ、今日の彼女は、ちょっぴりおしゃれをしているように見えなくもなかった。

 真人がその辺りに触れてみると、案の定、紗依子はついさっきまで、婚約者である沢美弥祐次の実家を訪問していたのだという。その帰り際に、ふらっとこの書店に立ち寄ったとのことだった。

「ほらほらほら、こんなわたしも、もうすぐ主婦になるでしょ?お料理とかもう少し勉強しないとねー。」

 目に見張るほどのウキウキぶりで、紗依子は和食や洋食の料理本をいろいろと物色していた。

 紗依子は一冊一冊手に取っては、どれにしようかしらと小声をつぶやきつつ頭を悩ませていた。それも幸せな悩みなのだろうと、真人は他人事ながらも気持ちを和ませるのであった。

「マサくんも、料理やってるみたいだね。麗那から時々聞かされるよ。味付けも食材の使い方も上手だって。」

「いや、そんな。紗依子さんに比べたら、オレなんて付け焼刃のようなもんですから。」

 真人は謙遜するように、後頭部を手で擦りながら照れ笑いを浮かべている。とはいえ、今の彼の心情としては、手料理を褒められることはこの上なく嬉しかったはずだ。

 一生懸命に、真剣な眼差しで料理本をチェックしている紗依子。あんなにおいしいお通しを作ったりできるのにと、真人はそんな疑問を抱き、彼女にそこまでこだわる理由を聞いてみた。

「お通しなんて時々だもの。これからは毎日のことだからね。彼の食生活とか、健康管理とか、いろいろと工夫してあげないといけないから。」

 紗依子曰く、フィアンセのご両親も医療関係に勤めているらしく、食事や健康といったテーマにはうるさいのだという。割と無頓着な性格の彼女にしたら、そりなりに神経を使っているというわけだ。

「そういうことなら、料理の本よりも、あっちの本棚の方がお奨めですよ。」

 真人が人差し指で指し示した本棚は、資格や検定対策、免許に関する書籍のコーナーであった。ここをお奨めした彼の意図とはいったい・・・?

「ああ、なるほど。そういうことねー。」

 紗依子は本棚に陳列された書籍を見ながら納得している。彼女の目に留まった本とは、料理に関する資格や検定のテキスト本だったのだ。

 調理師や栄養士といった有名なものはもちろんのこと、野菜ソムリエやフードアナリスト、さらにはお魚マイスターなるものまで、料理や食材に関わる資格や検定は目移りするほどたくさんある。

「一ケ月ほど前、たまたま試験対策のテキストを探してる時、偶然見つけたんです。いろいろあるんだなぁって感じで、ついつい30分ほど立ち止まっちゃいましたよ。」

 真人と紗依子はテキスト本を手に取っては、おもしろいとか難しいとか、はたまた勉強になるだとか、10分ほどそんなやり取りを繰り返していた。

 一人前の主婦を目指す紗依子の洞察力は、料理ではまだまだ素人の真人を感心させるばかりで、彼はますます、料理というジャンルに愛着のようなものが湧いてしまったようだ。

「マサくん、もしよかったら、わたしと一緒に料理教室でも通わない?あなたなら、きっと楽しみながら学べると思うわ。」

 ちょっぴり冗談半分に、真人を料理の道へといざなう紗依子。

 ほんの一瞬だけ興味ありげな顔をする真人。だが次の瞬間、彼は寂しそうに視線を落としながら苦笑する。

「行きたいのはやまやまですけど、アパートの管理人をしながらだと・・・。それと、こう見えてもオレは、大学を目指す受験生ですからね。」

 口を閉ざしてしまった真人に、冗談だから本気にしないでねと、紗依子は明るく笑って励ました。彼の方も、それを承知の上で返答しているので、それほど大きく落胆しているはずはないのだが・・・。

「あらら、もうこんな時間。いけない、お店に持っていくお惣菜の準備しなきゃ。」

 すっかり長居してしまった紗依子は、真人にお別れを告げるなり、料理本もテキスト本も買わぬままに書店を後にする。

 真人は真人で、手に持っていた”食品衛生アドバイザー試験対策”というタイトルの本を、すっと本棚に仕舞い込んだ。彼はフーッと大きく息を吐きだしつつ、大学受験対策のテキスト本コーナーへと足を向けるのだった。


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