幻影
都市伝説が気になる年頃
巷で流行っている噂がある。ある場所で目を閉じると誰もいないはずなのに肩を叩かれたり、合成音のようなノイズ混じりの声で話しかけられるというものだ。人の恐怖心や好奇心は時代を経ても相変わらず、科学が蔓延る中でも「幽霊」や「怪奇現象」に興味を持ち、多少誇大した話を広める輩は多い。それは連鎖的に感染し、人々の心の中に残る。ウィルスのようなもので、しかし特に危険をもたらすわけではない。ある意味、娯楽のようなものであるとも言えた。
久我隆道はそういった噂に非常に興味を示す年頃だった。中学校の同級生と共に、その場所がどこなのか、時間はいつなのか、ちょっとした悪戯心で広まった嘘なのか、それとも「本当」の現象なのか、そんなことを放課後によく話し合っていた。あの人が言うにはこれこれこうで、実はあの場所で、こんなことが……と真偽はさて置いて彼らは未知なるものへの期待感を寄せた。
「隆道、今度その場所へ行ってみないか?」
真剣なんだかふざけているんだかわからない表情で、久我の友人、青木修介が言った。
「ええ? 本気?」
「なんだよ、怖いのかよ」
「そうじゃないさ、確かめに行って、もし嘘だったりしたら俺達馬鹿みたいじゃないか」
「いいんだよ、確かめに行くってのが大事なのさ」
「そうかなあ……」
久我は首を捻りながらも、青木の熱意に押され承諾してしまった。久我にとって幽霊やオカルティックなものは信じるのかどうかと言うと、微妙なところである。「いれば面白いだろうな」程度の考えだったので、恐怖をあおられるような気持ちもなかった。
他の友人たちは塾があるだとか、部活があるだとか適当な理由を付けて二人には付いてこなかった。青木は不満げな顔を隠さずに文句を言ったが、仕方のないことだと久我は思った。気を取り直して、久我と青木は噂の場所へと向かった。
そこは以前とある富豪が建てた邸宅で、その家族が引っ越してしまってから長い間放置されていた。綺麗な見た目は変わらないものの、人のいない雰囲気は漠然とした不快感を漂わせていた。夜に窓を見ると、美しい女がこちらを見つめているとかいう話もあった。
夕日の赤が差すころに、雑草が伸び放題になった庭に入り、二人は邸宅の玄関まで来た。
「今思ったんだけど、こういう場所って普通管理する局があるんじゃないのか?」
「うーん、俺にはそこんとこはわかんなかったな。ガキ二人が入っても警報とか鳴らないし、警備員が来たときは謝って許してもらおーぜ」
「そんな簡単にいくかな……」
青木は臆する様子も見せずに玄関の扉を開けた。電子錠さえかかってない。中はひどく暗く、人のいない埃っぽい匂いが鼻をついた。
「雰囲気でてるなあ」
「でも、家具とかそういうのまったくないから、つまんねえなあ」
「なんでつまんないのさ」
「クローゼットからバァーッて、包帯巻いた男が飛び出したりとかさ」
「古いホラー映画じゃないんだから……」
久我がため息をつくと、青木は不意に2階に続く階段の方を見た。
「どしたの?」
「なんか音聞こえなかったか?」
「いや……」
「喋り声みたいなのが聞こえた。行ってみよう」
「流石にマズイんじゃないかなあ」
止める前に、青木は走り出していた。どたどた階段を踏みならしながら駆けあがるのを、久我は慌てて追いかけていった。青木の後を追うと、その『喋り声』というのが聞こえてきた。噂通り、ノイズ混じりの不愉快な声だ。2階に上がると、どうやらその声は一番奥のドアが開かれた部屋からするとわかった。
「い、行くぞ」
若干恐怖心を孕んだ声で、青木が言う。
今更ゆっくりと歩を進めつつ、その部屋へと近づく。顔だけ出して中を覗いてみたが、誰もいなかった。声もいつのまにか聞こえなくなっていた。部屋の中に入って見回してみるが、何もないがらんとした部屋というだけで、何かを発するとすれば、ぎしと軋む床ぐらいだ。久我は青木を見る。同じように青木も久我を見ていた。ここまで来たのだから、という思いが二人にはあった。
噂によれば、この場所で目を閉じなければならない。感情が好奇心と恐怖心の間で振り子を振りながら、二人は同時に目を閉じた。その時、まぶたの裏で電流が走った。
目を開くと、そこには先ほどと変わらない空間が広がっていた。ただ一つ、白いソファーにゆったりと座った老人の姿がそこにある以外は。
ぎょっとしながら後ろに下がると、久我はまるで自分の身体を動かしているのではないような感覚に襲われた。自分の頭の中での動作と、一瞬のラグが生じている。混乱しているからなのか、もしくは他の要素が関係しているのかわからなかった。
そんな久我を見て、老人はにこりと微笑みながら口を開いた。
「君、ちょっと接続が不十分だったね」
「えっ?」
いつの間にか老人の手にココアが入ったカップが握られていた。ほのかに湯気が見える。
「この不完全さはどうにかしなきゃならんと思っとるんだが、向こうの私の身体は朽ちてしまってな、どうにもならん」
「……どういうことですか?」
冷静さを徐々に取り戻し、久我は聞いた。その前に老人はカップを久我に差しだし、
「まあ、とりあえずこれを飲みたまえ。毒を入れるなどという古典的なことはしとらん。そうだな、君にも椅子が必要だ」
なにか物が動いたような音がした。久我が背後を見ると、そこに椅子があった。確か部屋に入った時は、こんなものはなかった。驚いて老人の方を見ると、テーブルが現れていた。テーブルの上には先ほどのカップが置かれており、老人はまた違うカップを取り出してコーヒーを飲んでいた。
「どこから……」
「データなんて、いちいち取りに行くというバカバカしいことをやってられん。たとえば人指し指の第二関節を曲げるだけでトーストが出てくるような気軽さでなければならんよ。いや、第二関節を曲げるというのはちょっと面倒だな。まばたきをすれば……いやいやそんなことをすればこの部屋がトーストだらけになってしまうな。私の言いたいことはそんなことではない。とあるデータに接続するために、息をするのと同じくらいの範囲でそれを完了しなければならないというのが、私の考えでね」
「まったく、話が見えないのですが……」
「少しわかりにくかったか。自分の考えを平易に伝えるというのは誤解を招く可能性もある。それを恐れるとどうしても君のような反応を生んでしまうな。とりあえずそのココアを飲みなさい」
おそるおそるカップを手にとって、ココアを飲んでみた。かなり甘い。砂糖を入れ過ぎだと思った。
「君が飲んだそれは、私が構成したデータから出来ている」
わけのわからないことを、と思いながら久我は今やっと、この部屋に青木がいないことに気付いた。
「あっ、さっきまでここにいた、俺の友達はどうなったんですか!?」
「なに、彼は接続不良ということでこっちには入ってこなかっただけの話だ」
「どういう……」
言葉が通じてないような感覚だった。
「ああ、なるほど、これは例えやすいぞ。今君は、目を閉じるという行為によってこっちへ接続されたのだ。あっちでは接続できなかったその、君の友達とやらがいる。そういうことだ!」
「だから、わけがわからないですよ!」
「ええ……こいつはどうしたもんかな、困っちまったな。ええと……君は今、データになっとるわけだ。この部屋、というかこの家自体が、私の作った電子仮想空間へとリンクする装置みたいなものでな。そこで目をつぶるという行為によって、装置が起動し君たちの電脳へと接続が行われ、この電子仮想空間へと強制ダイブをさせたということだな。わかるか?」
「なんとなくですけど、やっとわかった気がします」
「そりゃよかった」
「でも、信じられません。こんなの、ネットゲームでも見たことない」
「あんな粗製乱造モンと一緒にするな。ヘッドマウントディスプレイとコントローラーが無くては仮想空間へとダイブ出来ず、また行動も出来ん。触覚もないような世界で、何を楽しむことがあるというのだ」
なんだか偉そうな奴だな、と不快な気持が湧きあがってくるのを感じた。
「で、どうしてこんなものを作ったんですか」
「人の知識を保存するためだ。私以外にも何人もここを住処にすることを決めた奴がおる。シャイな奴らでな、そうそう出てこらん」
「現実を捨てたんですか?」
「捨てるというのは表現として合わん。むしろ移り替えたと言うべきだろう」
「そんなの、詭弁です」
「別にそれでもかまわんよ。君に言い負かされて困ることもあるまい」
顔に血が上るのを感じた。自分でもどうしてこんなにいらいらしているのかわからず、久我はテーブルの上に拳を作った。
「でも、現実があるからここにいられるんでしょう。こっちの方が便利だからって理由なんて、あんまりですよ」
「さっきも言ったように、私の身体は既に朽ちている。あっちの世界には私はおらんよ。それでも、あっちを『現実』と呼ぶのかね」
老人の横に、ふっと蒼い影が現れた。瞬時に形を取り、それは若い女の姿になった。
「この子にはちょっと早すぎるよ。そういう話は」
「君かあ。この時間に出てくるのは珍しくないかね」
「珍しい客が来たら、私だって珍しいことしたくもなるわよ」
女は艶かしい瞳で久我を見たが、なんだか色のない視線を浴びている感じがして、久我は不快に思った。
「この人も、ここの住人なんですか」
「そうだな」
「どうしてあなたは、ここに」
「私は知識の保存とかどうでもいいけど、楽しそうだから参加したって形かしら」
「初めはこれで研究が好きなだけ出来るとか言ってたじゃないか。すっかり熱を無くしてしまってるくせして何を言っとるんだ」
「あら、そうだったかしら」
「ああそうだ。……ちょうどいい! 私が話すとどうにも誤解しか与えんようだから、なるべく納得してもらう形でこの少年に話してやっておくれよ」
若干の皮肉を混ぜながら、老人は言う。女はというと、そんな老人に呆れた顔を見せながらも、久我に向かって話始めた。
「きっとあなたは、どこで生きるかということに意味を置いているのだと思うわ。でも、それって、自分が無いようなものなのよ。そうして生きることも出来るけど、それがどうしようもなく辛いって人もいるの。そういう人は、ここに来るんじゃないかしら」
「逃げてるってことですか」
「選んでる、って言い方も出来るかな。でも結局それは、どう受け取るかだけの話よ。私たちは、自分たちが自分であると感じられる場所で生きようとしているの。それが電子的仮想空間の中だったとしても。リアルってのは、自分を感じられるかどうかが問題なんだと思うわ」
「俺には、そんなの認められませんよ」
「君はまだ大人になっとらん。もう少し人生を歩んでからここに来るべきだったな」
コーヒーのカップもテーブルもすっかり消えてしまって、老人の目は久我だけを捉えていた。思わず、目を背けてしまうほどだった。
「大人じゃないのは、あなたの方でしょう」
「いやいや、例えデータだけになったとしても、私はここで『私』であることを確立している。どこか場所が変われば、人は人でなくなるのかね? そうじゃないだろう。彷徨うデータたちと会話をするのは楽しいぞ」
「馬鹿げてる」
そう言って、久我は立ち上がった。こんなところにはいられない。ドアを開いて、出なければならない。すっきりとした空気を吸いたいのだ。
「行くのかね」
「帰るんです」
最後に、老人が笑ったような気がした。むしゃくしゃした気持ちで、ドアのハンドルに手をかけた。
どんよりとした頭痛の中で、だんだんと意識を取り戻す感覚を覚えた。あんまりにも暗いので、明かりをつけてくれ、と言いそうになったが、自分がまだ目を開いてないことに気付いた。目を開くと、そこには心配そうな顔をした青木がいた。
「おい! 大丈夫か!」
「大丈夫だよ」
「いきなり横で倒れるから焦っちまったよ。お前、何かあったのか?」
はっきりと意識を取り戻し、身体を起こす。あの世界に行ってから、そんなに時間は経っていないようだった。老人がいた辺りを見ても、そこには何もない。たとえ夢であったとしても、胃から駆け上がるむかむかした感じは、確かにここが現実である証拠だと思った。
「よく、おぼえてない」
久我はそう言って、ざらついた感情を飲み込んだ。
飲み込みました。