私のスキルは死者蘇生――ただし七呼吸だけ
「死者蘇生」
神官様が石板を読み上げた瞬間に大聖堂のあちこちで変な音がした。歓声になりかけた声が喉に詰まり誰かが椅子を倒し、後ろの列にいた子が「すごい」と声を漏らす。隣に立つ神官見習いは手元の記録紙にインクを落としていた。
私は自分の手を見下ろしたが何も変わってはいない。洗濯場の仕事で荒れた指にはささくれがあり、式の前に母が塗ってくれた安い香油の匂いも残っている。こんな手のどこに死者を蘇らせる力があるのか分からなかった。
「死者蘇生……?」
聞き返された神官様は石板に目を戻し、眉間のしわを一本増やしてから答えた。
「そう出ている」
祭壇の横に控えていた司祭長が前へ進み出ると、白い法衣の裾が床を擦った。
「アリア・ベル。貴女は本日より神殿預かりとなります。死者蘇生は建国以来三例しか記録のない大奇跡です。扱いを誤れば国が揺れます」
国が揺れると言われても私の膝の方が先に揺れていた。洗濯屋の娘が石板に手を置いただけで急に国を揺らすな。私はまだ何もしていないのに周りだけが勝手に先へ進んでいく。
参列席では母が口元を押さえ、なぜか立ち上がりかけた父は隣の人に止められていた。その後ろから「聖女様だ」「死んだ人を戻せるのか」「王宮から迎えが来るぞ」と声が膨らんでくる。笑うべきか泣くべきかも分からない私は祭壇の赤い絨毯に目を落とした。
絨毯の端には小さな糸くずが絡んだままになっている。神殿の掃除係でも取りそこねることがあるらしく、そんなところだけ妙にはっきりと見えた。
試験はその日の夕方には行われたため心の準備をする暇もなかったが、そもそも死者蘇生の準備として何をすればいいのか私にも分からない。連れていかれた神殿の裏庭には小さな木箱が置かれていた。
箱の中にいたのは朝に食肉処理されたという鶏で、羽はむしられておらず首には薄い傷がある。その木箱を司祭長や神官様や記録係に加えて王宮の役人までが取り囲んでいた。全員の視線が私に集まっているので今すぐ帰ってもらいたい。
「では祈りを」
「祈りって何を言えばいいんですか」
「心から命の回帰を願えばよい」
説明が大ざっぱすぎるうえ、つい先ほどまで食材だった鶏を急に一つの命として扱えと言われても困る。それでも試さなければ誰も納得しそうになかった。
手を伸ばして触れた鶏の羽はすでに冷えていた。
「戻ってきて」
自分でも情けなくなるほど小さな声だったがスキルは動いた。手のひらから落ちた薄い光を浴びて鶏の体が大きく跳ね、周囲の誰もが息を止める中で目を開いて激しく羽をばたつかせた。
「成功だ!」
誰かが叫んだ次の瞬間に鶏は首の傷から血をこぼし、木箱の中に崩れ落ちた。その拍子に抜けた羽が二枚だけ箱の外へ舞う。国を揺らすほど騒いでいた人々は口を閉ざし、再び動かなくなった鶏を揃って見下ろしていた。
「……もう一度」
司祭長に促されてもう一度スキルを使うと鶏は起き上がって三歩進んだところで倒れ、三回目にはもう立ち上がらなかった。私も体の内側を冷水で洗われたような寒気に襲われ、足元が傾いたように感じた。
記録係が乾いた音を立ててペンを置き、司祭長は口元に手を当てる。その隣で王宮の役人が「継続蘇生ではない」と呟くと、別の誰かが「七呼吸程度でしょうか」と続けた。
「人間に使った場合の検証が必要です」
人間に使うという言葉だけが耳から離れなかった。私は木箱の前に立ち尽くしたまま鶏の首に残る傷と、箱の隅に溜まっていく血を見ている。死者蘇生と口にすれば神話の奇跡らしく聞こえるのに、そこに残ったのは二枚の羽と再び動かなくなった鶏だけだった。
それから聖女様と呼ばれなくなるまでに時間はかからなかった。呼び名の切り替わりだけは早く、翌朝には「反応係」と呼ばれていた。正式な役目は神殿検死補助員なので大奇跡からはかなり下がっている。
神殿の北棟には窓の小さな石造りの建物があり、薬草と灰と古い血の匂いがいつも混じっていた。亡くなった人の体を清めて身元を確かめ、必要なら死因まで調べるその場所が私の新しい仕事場になった。
「泣くなよ」
初日にそう言った棺番のバルドさんは片耳が欠けた大柄なおじさんで、腰に巻いた布には乾いた泥がついていた。
「泣いてません。それにここで泣く方が失礼な気がします」
「泣く奴は多いから構わん。ただし鼻水は布で拭け。袖で拭くと臭いが残る」
「最初に教えることがそれですか」
「大事なことだぞ」
バルドさんは笑いもせず棚から厚手の布を一枚投げてきたが、受け止めた布はまだ湿っていた。
「うわ。これを使えと?」
「洗ったばかりだ」
「乾かしてから渡してください」
「贅沢を言うな。死人は待たん」
こうして私の仕事は始まったが、スキルを使う相手は勇者でも王族でもなかった。川で溺れた子供や畑で倒れた老人のほかにも、喧嘩で刺された男や冬場にひとりで死んだ旅人、身元さえ分からない誰かが運ばれてくる。私が一度スキルを使えば死者は七呼吸の間だけ戻り、目を開くこともあれば声を出すこともあった。
喉が潰れていれば息だけが漏れ、顔が崩れていれば家族は見ない方がいい。司祭長はこの現象を「魂への干渉」と呼んだが、バルドさんは「最後の戸締まりみたいなもんだ」と言っている。どちらが正しいのかを確かめる方法はなかった。
死者は最後だからといって意外なほど立派なことを言わない。
「へそくりは台所の床下」
「馬鹿息子に畑を渡すな」
「あの女房に謝っといてくれ。いややっぱり言うな」
「寒い」
「水」
「誰だ。お前」
私はそんな言葉を震える字で記録紙に書き続けた。最初の一週間は死者が夢に出てきて、二週間が過ぎると肉を食べられなくなった。それでも三週間目には仕事に慣れ始めており、そんな自分には引いた。
ある日には若い神官見習いが「死者蘇生なんて言うから何かと思えば、死人に一言聞くだけか」と笑った。悪気を隠すつもりもない顔だったが言っている内容まで間違ってはいない。私が返事をせずにいるとバルドさんが横から木桶を差し出した。
「おい見習い。これを捨ててこい」
「私は清務見習いであって雑役ではありません」
「なら口も清くしておけ。腐るぞ」
顔を赤くした見習いが出ていくとバルドさんは鼻を鳴らした。
「あんな奴を相手にするな」
「慣れてます」
「慣れるな。手荒れと同じで放っておくと割れるぞ」
そう言って彼が私の手元に置いた薬油は、瓶の口にひびが入っていた。礼を言っても返ってきたのは「余りものだ」という一言だけだった。
秋の雨が続いていたある日、小さな男の子を抱えた母親が神殿へ駆け込んできた。五歳くらいの子供は唇が紫色に変わり、濡れた髪が額に張りついている。川に落ちたらしく母親も全身を濡らしたまま廊下に膝をついた。
「お願いします。死者蘇生の方がいると聞きました。お金はありませんが畑ならあります。半分なら差し上げますから」
何も答えられない私の代わりに神官様が母親の肩に手を置いた。
「このスキルは完全な蘇生ではありません」
「でも死者蘇生なのでしょう」
「名と実態は異なります」
母親がこちらに向けた目だけが濡れた髪の下で妙に大きく見えた。触れてみた男の子の体は冷えているもののまだ硬くなっておらず、喉の奥には水が残っているようだった。
「バルドさん。水を抜けば戻る可能性はありますか」
「俺は医師じゃねえぞ」
「でも何をすればいいかは知っていますよね」
舌打ちしたバルドさんは棚から布と細い管を取り出した。
「やるだけならやる。失敗しても母親の前で顔に出すな」
「はい」
私がスキルを使うと男の子の胸が大きく跳ね、開いた口から水が漏れた。バルドさんの指示で体を横に向けて背中を叩く。神官様の祈りが響く廊下で男の子の喉からさらに水が流れ出した。
一呼吸目から二呼吸目へ移り、三呼吸目には胸の動きが止まりかける。見守る母親は石床に爪を立てるほど手に力を込めていた。
「もう一回」
「アリア」
「もう一回だけ使います」
重ねてスキルを使った途端に視界が白く弾けた。男の子は咳き込みながら体を折り曲げ、口から濁った水を吐き出す。それに続いて生きている子供の泣き声が廊下に響いた。
母親の喉から掠れた音が漏れる一方で、私は冷たい石床に膝をついたまま動けなかった。空っぽに近い胃がひっくり返りそうになり、すかさずバルドさんが目の前に桶を置く。
「吐くならここだ」
「吐きません」
「その顔で嘘をつくな」
「……ちょっとだけ吐きます」
結局私は差し出された桶の中に朝の粥を少しだけ吐いた。男の子の母親は泣きながら私の足に額をつけようとしていたが、バルドさんに止められている。
「やめろ。本人が倒れる」
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
「礼は後でいいから乾いた布を持ってこい。子供が冷える」
その日から神殿での私の扱いははっきりと変わった。完全に生き返らせることはできなくても、死んで間もない者が戻るための時間を稼げると分かったからだ。王宮は再び騒ぎ始めて司祭長は報告書を書き直し、以前の神官見習いは私と目を合わせなくなった。
仕事は前より忙しくなり、それと同じくらい嫌われることも増えた。人は死者にもう一度会いたがるのに、本当に口を開いた死者から望んだ言葉が出るとは限らない。残された者が知らないままでいた方がよかったことまで七呼吸の間にこぼれ落ちる。
亡くなった父親が「借金は兄のせいじゃない。俺が賭場で作った」と明かした家では兄弟が殴り合った。優しい妻だった人が「指輪は売った。あの人の薬代にした」と告げた時には、夫が床に座ったまま動けなくなった。殺された商人が「犯人の顔は見てない。背中だけだ。赤い紐」と言ったせいで、町中の赤い紐をつけた人間が疑われたこともある。
死者は常に正直なわけではなく、混乱したまま言いたいことだけを口にする。嘘をつく者もいれば恨みだけで誰かの名を出す者もいる。私は死者の言葉が持つ危うさを神官様にそのまま伝えた。
「死者の言葉を証言として使うのは危険です。それなのに皆は死者なら真実を知っていると思っています」
「生者よりはましだと思いたいんだろう」
神官様はそう答えながら記録紙の束を揃えていた。窓の外では雨が降り続き、古い北棟の天井から落ちた雫が床の桶を鳴らしている。ぽつんと一度鳴ってから次の雫が落ちるまでの間だけ、部屋の中が妙に広く感じられた。
冬が近づいた頃にリオナ鉱山の作業員が一晩で六人も亡くなった。三人は坑道の中で倒れ、二人は飯場で見つかり、残る一人は帰り道で息絶えている。亡くなった六人全員に高熱と吐血の症状があった。
町医者は流行り病を疑い、神殿は鉱山を封鎖するよう進言した。それを聞いて嫌な顔をしたのがグレイル代官だった。太っているわけではなく痩せた男で、顔色が悪くいつも爪を噛んでいる。
「鉱山を止めれば領の税が落ちます。王都へ納める鉄材も遅れるでしょう。病かどうかも分からない段階で閉鎖など認められません」
司祭長は眉をひそめたまま代官から目を離さない。
「すでに六名が亡くなっています」
「だからこそ混乱を避けるべきです」
神殿へ来た時から手袋の指先を湿らせていたグレイル代官は私を見たものの、目が合った途端に顔を逸らした。
「その娘が聞けばよいのでしょう。死んだ者に」
死者に聞けばよいとはずいぶん簡単に言ってくれる。死者に会うたびにこちらの体温まで削られていくのに、代官が気にしているのは鉱山が止まることだけだった。それでも六人の死因を確かめるためなら断れない。
亡くなった作業員の一人が北棟へ運ばれてきた。ダンという三十代半ばの男で、爪の間には黒い粉が詰まり喉の内側が赤く腫れている。触れた体の冷たさには何かざらつくものが混じっていた。
「ダンさん。聞こえますか」
私の手から光が落ちると男の胸が持ち上がり、焦点の合わない目が開いた。
「……熱い」
「何を食べましたか。何を飲みましたか」
「水じゃねえ」
擦れた声を聞き漏らさないようにバルドさんがすぐそばで記録紙を押さえている。
「では何ですか」
「粉……赤い粉。炉の裏。捨てたら駄目だって……ヨルが言った」
「ヨル?」
「監督……見た。夜に」
男の喉から血が泡になってあふれ、目は私ではないどこかへ向いた。
「息子に靴を……買うって」
その言葉を最後に男の胸は二度と動かなくなった。離した指には血がついており、洗っても爪の間に残りそうに見える。
報告を聞いたグレイル代官は額を拭いながら「作業員が錯乱していたのでしょう」と片づけようとした。
「赤い粉とは何ですか」
「鉱石の屑はいろいろ出ます。害の有無は職人でなければ分かりません」
「では炉の裏を調べます」
「今は封鎖中です」
「先ほどまで封鎖に反対されていましたが」
言葉を詰まらせた代官は手袋の指先を口元に運びかけ、慌てて下ろした。何かを隠している者の仕草だと言い切れるほど私は人を知らないが、それにしても彼の手は忙しすぎる。
正規の調査は翌朝に決まったが、その夜のうちにバルドさんと私は鉱山へ向かった。夜が明けるまで待てば炉の裏を片づけられるかもしれないと言い出したのは彼だ。勝手に入ったことが知れれば怒られるだけでは済まないかもしれない。
「済まなかったらどうするんですか」
「逃げろ。俺は足が遅い」
「それは私が見捨てる前提ですよね」
「若い方が逃げるのが年寄りへの礼儀だ」
「年寄りってほどではないでしょう」
「そこは否定しなくていい」
鉱山の飯場は冷え切っており、消えかけた炉から灰の匂いが流れてくる。裏手へ回ると地面が赤黒く汚れ、掘られた溝が細い水路につながっていた。その水路は村の共同井戸の近くまで続いているはずだ。
膝をついたバルドさんは赤黒い土を布に取った。
「こいつはまずいな」
「何なんですか」
「鉱石を焼いた後の灰だ。水に混じれば喉と腹を焼く。少量ならすぐには死なねえが多ければ命を落とす」
「処理せずに水路に流したんですか」
「まともに処理するには金がかかるからな」
背後で板の鳴る音がして二人で振り返ると、ランタンを手にした男が立っていた。痩せた肩と顔に残る古い火傷の跡を見て鉱山監督のヨルだと分かる。これがダンさんが七呼吸の間に残した名前の男だった。
「見なかったことにしてくれ」
彼の声には脅す力さえ残っておらず、ただ頼んでいるように聞こえた。
「それは無理です」
「だろうな」
ヨルはランタンを持つ手を下げたまま炉に顔を向ける。
「なぜ流したんですか」
「俺は止めたかった。処理場が壊れていたから直す金が必要だと代官に報告したんだ。だが今止めれば王都への納入に間に合わないと言われた。三日だけなら薄めて流しても大丈夫だとな」
そこで口を閉じたヨルの顔をランタンの火が照らし、古い火傷の跡に濃い影を作った。
「俺はそれを命令じゃないことにした」
「でも大丈夫ではなかった」
「ああ。最初に倒れたのは親方に上げたばかりの若い奴だった。水か飯か流行り病が原因だと思おうとした」
「思おうとしたんですか」
「炉の裏の赤い土を見た時には分かっていた。それでも俺は病だと言った」
ヨルは笑おうとしたが口元が歪んだだけだった。刃物は持っていないのにバルドさんが私の前へ出る。人は武器を手にしていなくてもひどく危うく見える時がある。
「代官に命令されたんですか」
「命令ならまだ楽だった。あの人は『分かるな』と言って分からせるような顔をした。それを見た俺も都合よく意味を受け取った」
悪人が命令し部下が従ったとだけ書けるなら記録紙はずっと簡単だった。実際に六人を死なせたのは目配せと沈黙と、誰も仕事を止めなかった時間だ。話し終えたヨルは手にしていたランタンを足元に置いた。
「俺を連れていけ。もう逃げる気はない」
「代官はどうします」
「あの人は逃げるだろうな。走るのは苦手そうだから馬車を使うはずだ」
冗談かどうか判断できなかったがバルドさんだけは鼻で笑った。翌朝になってグレイル代官は本当に馬車で領都を出ようとして門で止められた。ヨルの証言に炉の裏の赤い土と水路の状態、さらに死者の言葉まで揃っている。
司祭長の前に連れてこられた代官は長く黙った後で手袋を外した。爪の先は噛み続けたせいでぼろぼろになっている。
「私は命令していない。処理場の件は報告を受けたが流せとは言っていない」
誰も答えないまま彼の次の言葉を待っていた。
「納期を守れとは言った。王都から催促が来ていたんだ。遅れれば領主様は私に責任を取らせる。私は……罰を受ける」
代官はそこで口を閉じて床に目を落とし、握りしめられた手袋だけが小さな音を立てた。
「いや。違うな。私は罰が怖くて金も地位も失いたくなかった。死ぬのが鉱夫ならまだ先延ばしにできると思ったんだ」
司祭長が目を伏せずに聞く間も私は代官の手を見ていた。人を殺した手には見えず書類に判を押してきた手にしか見えないからこそ余計に嫌だった。
事件の後でリオナ鉱山は一時閉鎖され、村の井戸も封じられた。神殿の薬師たちが解毒薬を配って回ったが、それでも助からない人はいる。私は最後の言葉を聞くためと間に合うかもしれない人に七呼吸を足すため、何度も死者蘇生を使った。
全員を救うことはできず救えなかった人々の名前は記録紙に残された。ダンさんの息子には新品ではない靴が渡される。バルドさんの古い靴を子供用に直したものだった。
「大きい」
受け取った息子が困った顔で言うとバルドさんは腕を組んだ。
「育って靴に合わせろ」
「それは無茶ですよ」
私が横からそう口を挟むと子供はその日初めて笑った。
葬儀の後で北棟の裏へ回り、冷たい水に手を浸して爪の間の赤黒い汚れを落としていたが、いくら擦ってもなかなか消えてくれない。以前に私を笑った神官見習いが通りかかり、何か言いたそうに足を止めた。
「……その。大変だったな」
謝罪ではなかったが彼に言えるのはそこまでなのだろう。私は手を洗い続けたままそばにある桶を示す。
「この桶を捨ててきてもらえますか。臭いがきついので」
「え……ああ。分かった」
一瞬だけ嫌そうな顔をした見習いはそれでも桶を持ち、歩き始めてから振り返った。
「袖で鼻を拭くなよ。臭いが残る」
「それはバルドさんの受け売りですよね。私も初日に言われました」
「……聞いたのか」
見習いは気まずそうに桶を抱え直して裏庭へ向かった。その背中を見送るうちに私は自分の口元が緩んでいることに気づいた。
やがて冬が訪れると北棟の窓から隙間風が入り込み、朝の石床は氷のように冷たくなった。私のスキル名は今も死者蘇生のままだが、人々がつける呼び名は一つに定まらない。死者聞きに七呼吸の聖女や検死娘、縁起の悪い女と呼ばれることもあれば命拾いのアリアになることもあった。
どれも私の一部を言い当てているようで何かが違う。そんなある日に司祭長が王宮から届いた書状を持ってきた。
「王都へ来る気はないか。正式な聖女補佐として席を用意すると書いてある」
「王都にも死体置き場はありますか」
「あるだろうが待遇は今より良くなるぞ」
「それなら仕事は同じですね」
「言い方を考えなさい」
差し出された書状を受け取らずにいると北棟の奥からバルドさんの声が飛んできた。
「アリア! 桶!」
「今行きます!」
司祭長は呆れたように私を見てから大きく息を吐いた。
「王都の誘いを断るのか」
「まだここで働きます」
「理由を聞いても?」
窓の外には洗った布が干されていたが冬の寒さで半分ほど凍っている。
「王都が欲しいのはたぶん私のスキル名です。でもここでは私の手が要ります」
司祭長はしばらく黙ってから手にした書状を丸めた。
「分かった。返事はこちらで書こう」
「すみません」
「謝ることではない。ただし桶は自分で持ちなさい」
「そこは手伝ってくださいよ」
「聖女補佐候補だろう」
「まだ断ってませんよね?」
「ならなおさらだ」
司祭長は丸めた書状を手にしたまま北棟を出ていった。偉い人は桶を持たないらしいので覚えておこう。私は作業着の袖をまくって奥の部屋へ向かった。
今日も亡くなった人が運び込まれており、戻せない可能性の方がずっと高い。それでも一度の死者蘇生で貸せる七回の呼吸があれば、その間に名前を呼べる者や喉の水を吐き出せる子もいる。奇跡というには足りなくても私の手でできる仕事だった。
奥の部屋ではバルドさんが布を広げており、窓際の桶に落ちた水滴が小さな音を立てている。私は荒れた手をもう一度洗ってから死者のそばへ歩み寄った。




