第9話 食べていいのは、私だけ?
夕食の席で、私は初めて気づいた。
レオンハルトが、ほとんど何も口にしていない。
テーブルには2人分の膳が並んでいた。スープ、パン、白身の魚を使った温かい料理。昨夜より品数が多い。ミレイユが「今日はよく動かれましたので」と言いながら運んできた時、私は正直それだけで少し胸が詰まった。動いた量を、誰かが見ていて、補おうとしている。そういう気遣いに、まだ慣れない。
だからスープの温度を確かめながら、向かいの席を見た。
彼のスプーンが、動いていなかった。
パンにも手がついていない。魚の皿も、表面の光沢が崩れていなかった。それだけ見れば、食欲がないのだとわかる。しかしレオンハルトは表情を変えず、書類の一点を見ていた。目が止まっているわけではなかった。ただ、遠かった。
私はスープを飲んだ。温かかった。
また1口、飲んだ。
沈黙が続いた。
テーブルを挟んだ向かい側で、彼が静かに呼吸をしているのがわかった。食べていない。ひたすら、食べていない。
胃の中のものが少し重くなった気がした。
私だけが食べている。
それがひどく奇妙なことに思えてきた。5年間、私は誰かの膳を先に口にし続けた。私が食べることで、誰かの安全が確認される。私の体は、先に消費されるものだった。今ここで、その立場が逆になっている。彼が食べず、私だけが食べている。誰かを守るためではなく、ただ私自身のために。
スプーンを置いた。
「……食べていいのは、私だけですか」
声に出た瞬間、後悔した。言うつもりではなかった。問い詰めるつもりもなかった。ただ口から出てしまった。
レオンハルトが視線を上げた。
「……なぜそう思う」
「お皿が、動いていません」
一拍、間があった。
「食欲がない、というわけではない」
曖昧な答えだった。彼が嘘をつく人でないことは、この数日でわかっていた。だから「食欲がない、というわけではない」は本当のことなのだろう。では何が食欲を奪っているのか。
「……私だけが、生きてるみたいで」
声が少しかすれた。
もっと上手い言い方があったはずだ。だが、それ以外の言葉が出てこなかった。私が食べて、彼が食べない。私が温かさを感じて、彼が遠い目をしている。この非対称が、胃の中をざわつかせていた。
レオンハルトがしばらく私を見ていた。
「君が食べているのを見ると、痛みが引く」
静かな声だった。
「——理由は、まだ言わない」
痛み。
その一語が、テーブルの上に落ちた音がした気がした。私は即座にスプーンを置いた。痛み、というのは比喩ではない。彼の体のことだ。呪毒。出発前の書状にも、昨夜の治療準備の話にも、その言葉はあった。だが彼がそれを「痛み」と口にしたのは、今が初めてだった。
触れなければいけない、と思った。今すぐではないかもしれないが、遠くない場所で。
食後、治療の時間になった。
昨夜は準備の確認だけで終わった。今夜は実際に手を当てる、とミレイユから告げられた時、私は書面で読んでいた内容と、目の前の現実の間に、静かな隙間を感じた。文字で読んだことと、実際に起きることは、いつも少し違う。
小さな治療室に、机と椅子が2つ。テーブルには白い布と、銀色の小さな盆。レオンハルトが手袋を外した。指先が見えた。古傷の白い線が2本、手の甲を走っていた。普段は手袋の下にあって、見えないところ。
私は向かいの椅子に座った。
「手首を、少し」
彼が腕を差し出した。袖が少し折られていた。手首の内側。皮膚が薄い場所。私は自分の指先を当てた。
熱が、来た。
線になるような熱だった。私の指から彼の皮膚の内側へ、あるいは彼の体から私の手へ。どちらの向きかわからなかった。ただ確かに何かが動いて、私の指先が一瞬、痺れた。
レオンハルトの眉が、動かなかった。
それが逆に怖かった。痛みを感じていないわけではないはずだ。感じていないなら呪毒という言葉は出てこない。なのに眉が動かない。5年間で身につけた顔をしていた。感情を表に出さない、あの顔。
「……痛みが、私の指に移った気がします」
声が出た。
「移していい」
間がなかった。
「——君が逃げないなら、私は言葉を探す」
喉の奥が、動いた。探す、というのは今は持っていないということだ。言葉を探すと言う人間は、今は言えない状態にある。それが何なのかは、私には分からない。ただ、逃げない、という条件付きで何かが保留されていることだけは、わかった。
私は指を離さなかった。
扉が開く音がした。
「失礼します」
クラウスだった。書類を2枚、手に持っている。治療室の空気を読む気配が一切なかった。あるいは読んだ上で、それより優先させたのかもしれない。
「同意書です。……念のため」
テーブルに書類が置かれた。治療行為に関する同意と、第三者証人の署名欄。2枚目は治療の日時と手順の記録様式だった。
部屋が硬くなった。
私が指を離した。レオンハルトが袖を戻した。クラウスが書類の角を爪で叩きながら、視線を天井に向けた。咳払いが一つあった。
私とレオンハルトが、ほぼ同時に固まっていた。
クラウスが2人を交互に見た。何かを言いかけ、やめた。書類をテーブルに整然と並べ直し、胃薬の小瓶を脇に置いて、足音もなく退室した。
扉が閉まった。
沈黙があった。
「……念のため、というのは」
「証人と、記録、です」
レオンハルトが書類を手に取った。手袋を戻していた。指先がまた黒い布の下に消えた。
「手続きがある、ということは——触れていい理由が、残ります」
その言い方が、どこか静かだった。冷たくはなかった。むしろ、丁寧だった。私のための言葉というより、私に届けようとした言葉のように聞こえた。
私は同意書を手に取った。
屋敷門まで見送りに来たミレイユが、石畳の角に目を落とした瞬間、立ち止まった。
「……セレーナ殿」
振り返った。ミレイユが石畳の縁を見ていた。拾わなかった。ただ顔を少し近づけて、すぐ離れた。
「何かありましたか」
「紙片が落ちています。小さいものです」
私も見た。白い紙の端が、石の隙間に挟まっていた。夜風が来ても動かないほど薄い。誰かの書き物の切れ端か、あるいは包み紙の残りか。
「拾いますか」
「いいえ」
ミレイユの声が、少し低くなった。
「……この匂い、母国の紙です。——嫌な予感しかしません」
私は石畳の端を見た。
紙は動かなかった。
甘い匂いが、夜の空気の中に、ひとすじだけ残っていた。
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