第8話 五時で終わる、それが規則
気づいたら、廊下の壁際で直立していた。
扉を背に、両手を前で重ねて。待機の姿勢だった。毒見役として5年間、膳が来る前に立ち続けた場所と同じ角度で、同じ重心で。昨夜、引き出しの封蝋を見てしまってから、頭がどうも落ち着かなかった。体が勝手に仕事の形を探していた。
「……セレーナ嬢。何をしているんですか」
廊下の向こうから、書類を抱えた男が現れた。クラウスだった。宰相府の実務官で、昨夜の食卓でも見た顔だ。痩せた指先に紙埃の匂いが薄くある。
「待機、です」
「誰の命令で」
「……習慣、です」
クラウスが鼻の頭に皺を寄せた。咳払いを一つして、書類束の角を爪で叩いた。
「こちらでは、五時で終わります。念のため」
五時で終わる。
その言葉が、奇妙な速度で頭の中を転がった。
「……それは、その日だけの話ですか」
「制度です」
淡々としていた。
「宰相閣下が10年前に定めた規則です。理由は知りません。守られています。以上です」
私は壁際に残された。
五時で終わる。(実在する。概念ではなく、制度として)
執務室に入ると、レオンハルトは書類に向かっていた。昨日より紙の量が増えていた。テーブルの上、窓際の棚、椅子の隣。会議の準備資料だと、見ればわかった。
私は部屋の端に立った。昨日と同じ、待機の位置に。
2分ほど経って、視線が来た。
レオンハルトが書類から目を上げ、私を見た。何も言わなかった。ただ視線だけで「そこにいなくていい」と言っていた。言葉はなかったのに、なぜかわかった。
「……椅子に座っていいですか」
「構わない」
座った。用もないのに椅子に座る、という感覚が落ち着かなかった。何もしていないと体がざわめくので、帳面を出した。
ペンを走らせる。
〔執務室。宰相閣下は書類を読んでいる。私は椅子に座っている。用はない。待機でもない。ただ、いる〕
書いてから、少し止まった。「ただ、いる」が記録として成立するのかわからなかった。でも消さなかった。
そのうちレオンハルトが、束から1枚を抜いてこちらに差し出した。
「確認してほしい箇所がある」
受け取った。会議提出の書式見本だった。毒物情報の記載形式が並んでいる。2箇所、原本という語が見えた。
「……写しでは、代替できないのですか」
「外交上の効力が違う。写しは参考資料にしかならない」
私は原本という2文字を見つめた。
昨夜の引き出しの封筒が、一瞬、脳裏をよぎった。封蝋の跡。割れかけた縁。読めなかった日付。
「何か気になりましたか」
問いはさり気ない声だった。私は帳面に視線を戻した。
「……いいえ」
聞いていいかどうか、今日もわからなかった。
書類を読んでいると、やがてレオンハルトが立ち上がった。
「五時で終わる……それ、冗談ではなく?」
声に出てしまってから、気づいた。聞くつもりではなかった。
レオンハルトが私を見た。一瞬、かすかに何かが瞳の奥を動いた気がした。
「冗談なら、私は君を帰さない。——規則だから帰す」
静かな声だった。
私はその言葉を、咀嚼するのに少し時間がかかった。
廊下で、ミレイユが砂時計を持って現れたのは午後のことだった。
胸の高さに持ち上げて、くるりと返した。砂が落ち始める。紅茶の香りが先に来るのに、その表情は将官だった。
「五時まで、あと15分です」
「……わかりました」
「わかりましたでは困ります」
「……どういう意味ですか」
「五時になったら、本日の業務は終わりです。帰室して夕食を食べて、眠っていただきます」
「明日の準備があります。会議まで2日しか――」
「五時です。概念ではございません」
私は帳面を取り出して、メモした。
〔定時:概念ではなく制度〕
ミレイユが隣から覗き込んで、深く頷いた。
「正確です。そのままお持ちください」
真顔だった。
私も真顔で頷いた。2人でしばらく、廊下に立っていた。
五時の少し前、小会議室に呼ばれた。
テーブルを挟んで、レオンハルトとクラウスが向かい合っていた。書類が整然と並んでいる。私は末席に座った。
「2日後の会議の最終確認です」
クラウスが書類の角を指で叩いた。
「提出は原本主義。写しは受け付けない。代替書式の申請期限は、明日の正午です」
原本主義、という言葉が、小会議室の空気に落ちた。
硬くなった、と感じた。部屋の温度ではなく、空気の密度が変わった。
レオンハルトが書類の一点を見ながら口を開いた。
「母国側からの提出確認が、まだ取れていない」
私の声は、自分でも意外なほど平坦だった。
「……揃えられなければ、どうなりますか」
「議題ごと潰れます」
クラウスが淡々と続けた。
「それが、原本主義です。言い訳は、紙に負けます」
レオンハルトが私を見た。何か言いかけた。口が少し開いて、閉じた。
私も何か言いかけて、止まった。
「……五時です」
扉の向こうから、ミレイユの声が来た。廊下で砂時計をくるりと返す音が、かすかに聞こえた気がした。
クラウスが書類を束ねた。レオンハルトが万年筆を置いた。
部屋が終わった。そういう速度で、終わった。
自室に戻ってから、帳面を開いた。
今日の記録をつけようとして、手が止まった。
五時に帰れる、ということは。五時より前に、生きていなければいけない。
王宮では、そんな計算をしたことがなかった。いつ眠るか、何時まで待機するか、明朝の膳は何か。考えてきたのはそういうことで、自分が生きているかどうかは計算の外だった。
私はペンを走らせた。
〔本日、定時退室。五時で終わる。制度として実在した〕
少し下に、続けた。
〔規則だから帰す、と言われた。怠惰ではなく。慈悲でもなく。規則として〕
書いてから、その意味をもう少し考えた。
王宮では「帰っていい」と言われたことがなかった。帰る、という行為はいつも、任務の隙間に滑り込ませるものだった。承認も、解放の言葉もなく。膳が下がった後、人がいなくなった廊下を、足音を消して戻るだけだった。
規則として帰す、というのは。帰る権利が、私にあるということだ。命令がなくても。役に立たなくても。規則がある限り、私は五時に帰れる。
(守られている、というのは。そういう意味だったのか)
帳面を閉じた。
会議まで2日。母国側の原本が、まだ揃っていない。
原本が出なければ、議題ごと潰れる。
そしてもし――揃わなかった場合、それは誰の責任になるのだろう。
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