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「連載版」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第2章 二日後の会議、原本が足りない

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第7話 確認しなくていい食事

 国境を越えた瞬間、私は馬車の中で水筒を持ち上げていた。


 手が止まった。


 匂いを、嗅いでいた。


 自分でそうと気づくまでに、2秒かかった。革の口金に鼻を近づけて、中身を確認しようとしていた。毒見役の癖は、任を解かれてなお指先に宿っていた。


 窓の外を、見知らぬ針葉樹が流れていく。ここはもうアルヴァスの領内だ。謁見の間も、あの長い廊下も、もう見えない。エドヴァルド殿下の滑らかな声も、マリアンヌの扇の動きも、ここからは届かない。


 水筒を膝の上に置いた。飲まなかった。


 向かいの座席で、レオンハルトは書類を読んでいた。黒い手袋の指先が紙の端を押さえ、視線だけが活字を追っている。束の表紙には見慣れない印章があった。2日後の会議に向けた資料だと、昨夜の書状に書いてあった。毒物情報の共有。原本の提出が必要、とも。


「水筒、お持ちしますか」


 我ながら奇妙な言い方だと思った。差し出す相手は私自身だった。彼ではなく、私の手に向けて、どうぞと言っていた。


 彼が顔を上げた。


「飲みます」


 私も飲んだ。確認の後で。嗅いで、異常がないと判断してから、喉に通した。そうしないと、体が受け付けなかった。


 窓の外に視線を戻した。変な人間だと思われただろうか。自分の水を、自分で確認してから飲む元毒見役。笑う気力があれば笑えたかもしれない。


 ただ、怖かった。


 安全が怖い、というのは変な言い方だ。だが、それ以外の言葉が出てこなかった。毒がない、異常がない、確認する必要がない――そういう場所に立つたびに、何かが体の中でざわめく。5年間積み上げてきた手順が、行き場をなくして指先を彷徨う。


 手順なしで食べていいのか。


 確認なしで飲んでいいのか。


 私はまだ、その問いの答えを知らなかった。


  


 宰相邸に着いたのは夕暮れ前だった。


「ようこそいらっしゃいました。侍女長のミレイユと申します」


 出迎えた女性は、袖口が整っていた。紅茶の香りが先に来た。笑顔に計算の匂いがしない。計算の匂いのしない笑顔を、久しぶりに見た気がした。


「こちらをどうぞ。ご滞在中にお使いください」


 差し出されたのは、新しい帳面だった。薄い青灰色の表紙。革の縁が滑らかで、どのページもまだ開かれていない。持った瞬間、紙の匂いがした。新品の、まだ何も書かれていない紙の匂い。


「……ありがとうございます」


「それからお願いが1つ。最初の記録に、毒見をしなかった夕食とだけ書いていただけますか」


 真顔だった。冗談に見せる気がなかった。


 私は帳面を受け取って、返事ができなかった。


  


 夕食は食堂で出た。


 テーブルの中央に、湯気を立てるスープが置かれた。野菜と豆の、素朴な香り。毒の匂いは、しなかった。当然だった。ここは私が毒見役をする必要のない場所だ。そのはずだ。


 私はスプーンを持てなかった。


 正確には、持ったのに、口に運べなかった。湯気の前で指がスプーンの柄の上で止まっていた。確認しなくていいのか、という問いが、言葉になる前に体を固める。誰が運んだか。食材の経路は。昨日の献立との相違は。5年間の問いが声もなく並んだ。


 意味がないと頭ではわかっていた。体が知らなかった。


「確認しなくていい」


 低い声が、真横から来た。


 レオンハルトが自分のスプーンを持ったまま、こちらを見ていた。視線が硬くなかった。責めていなかった。ただ、事実として言った。


「食材の来歴は私が把握しています。厨房の担当も、私が確認しています。あなたが確認する必要はない」


 一呼吸、置いた。


「君は毒見役じゃない。——今日は、客人だ」


 客人。


 その言葉が、奇妙な場所に刺さった。


 客人というのは、役に立たなくていい立場のことだ。道具ではなく、器でもなく、ただそこにいることを許された人間。5年間、私はそういう資格を一度も持ったことがなかった。仮に持っていたとしても、気づく方法を知らなかった。


「……口にしていい、って」


 声が少し、かすれた。喉の奥に何かがあった。


「そんな許可、初めてです」


 レオンハルトは何も言わなかった。スプーンを口に運んで、静かに食べていた。


 私は手の中のスプーンを見た。


 口に運んだ。


 温かかった。毒はなかった。ただ、温かかった。目の奥が熱くなりそうで、下を向いた。5年間で泣かなかったのに、スープ1杯で危なくなるのは情けなかった。


 情けなかったが、また1口飲んだ。


  


 食後、レオンハルトが書類の束を持ってきた。


「2日後の会議の準備資料です。確認してほしい箇所がある」


 テーブルに置かれた束の表紙に、割印の跡があった。いくつかの印章が重なって、紙の上で硬い模様を作っている。外交の形式を踏んだものだと、見ればわかった。こういう形が残る書類を、私は王宮で何度も脇に押しやられてきた。


「記録の精度と、提出できる形式——どちらも、あなたの判断が要る」


「……確認します」


 帳面を開いた。今日届いたばかりの、青灰色の帳面。最初のページ。


 筆を取って、書いた。


〔本日アルヴァス到着。夕食にスープ。毒検出なし。確認しなくていいと言われた〕


 書いてから、最後の1行を少し直した。


〔確認しなくていいと、言われた。初めてのことだった〕


 ミレイユが「お部屋の準備ができました」と扉口から告げた。


 私は立ち上がった。


 その時、レオンハルトが机の引き出しに何かをしまうのが見えた。


 正確には、閉まる瞬間だった。引き出しの隙間に、封蝋のついた封筒が一瞬あった。蝋の色が古くて、縁が割れかけていた。日付らしき文字が、引き出しの闇に消えた。


「おやすみなさい、セレーナ」


 静かな声だった。


 私は何も聞かなかった。


 聞いていいかどうか、判断できなかった。


  


 自室に戻って、帳面をもう一度開いた。


 さっき書いた行の下に、1行だけ足した。


〔引き出しに、封蝋の封筒があった。日付は読めなかった〕


 それ以上は書かなかった。


 書けることと、書いていいことは、違う。


 そう思いながら、帳面を閉じた。


 引き出しの中の封筒のことが、頭から離れなかった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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