第6話 読まれていたのは、記録だけじゃない
庭の足音が、止んだ。
応接間の空気が変わった。レオンハルトの視線が窓に向いたまま、動かない。3年間、読んでいた——その言葉の重さが私の中でゆっくりと形を持ち始めた瞬間に、続きは来なかった。壁の向こうに誰かいる。あるいは、もうそこにはいない。どちらかを確かめる手段が私にはない。
「……動かないでください」
レオンハルトが低く言った。私への言葉だった。剣に手をかけるふりもなく、腰を浮かせるふりもなく、ただ静かに立ったまま。怯えているのではなく、計算している目だった。
私は帳面の書状を膝の上に置いたまま、身体を動かさなかった。
しばらく、沈黙があった。
庭に向かっていた灰色の目が、戻ってきた。
「護衛です。私の護衛が片づけました」
短く言った。「片づけた」の意味を私はしばらく考えた。排除したのか、確認して引いたのか。どちらでもよかった。今夜、私がひとりだったとして、あの庭の足音にどう対処できたか——考えるだけで背筋が冷えた。
私は息を整えた。
「……3年間、と言いかけました」
「ええ」
「その続きを、今度こそ聞かせてください」
レオンハルトは私を見た。一瞬だけ、何かを測るように。それから椅子を少し引いて、向き直った。
「3年間、あなたの記録を読んでいました。毒の種類、濃度、推定経路——全て」
「どうやって」
「あなたが写しを作るたびに、経路のどこかで入手していました。あなた自身が知らない方法で、ある者が外へ流していた」
私の指先が、書状の端を押さえた。帳面の写しが、漏れていた。私が知らないところで。それはつまり、王宮の内側に、私の記録を外へ出していた手があったということだ。帳面に残っていた折り目と同じ手かどうか、まだわからない。
「なぜ」と私は聞いた。「それを私に言うのですか」
「あなたに隠すことではないからです」
答えは短かった。それだけで十分だった。
テーブルの上に、ティナが置いていった茶器が3客分並んでいる。私はなぜか、そこに手を伸ばしかけた。客が来た時に茶を注ぐのが5年間の習慣だったからだ。途中で止まった。今の私は毒見役ではない。この部屋の「ホスト」でもない。それなのに手が勝手に動いた。
「……あなたが注がなくてもよろしいのですよ」
扉の隙間からティナの声がした。「いつでもお声がけを」と言って、足音が遠ざかった。
私は手を引いた。
レオンハルトの目が、かすかに動いた。笑ったのかどうか、横顔ではわからなかった。
彼は手袋の端を引いた。
右手の手袋を、ゆっくりと外した。指から、手首まで、革が剥がれるように。私は無意識にそちらを見た。見てから、見るべきではなかったかと思った。
古傷があった。
手首の少し上、前腕の内側。線ではなく、面で広がるような、何かに焼かれたのではなく染みこんだような——毒の痕に見えた。毒見役だった私には、わかる。解毒をしても肌に残る、あの種類の痕跡だ。
「驚きましたか」
「……少し」
「気分が悪いですか」
「いいえ」
気分が悪いのではなかった。ただ胸の奥で、何かが静かに痛んだ。見てはいけないものを見た痛みではなく——この人がここまで来るのにどれだけの時間がかかったのかを、皮膚で理解した痛みだった。
「呪毒です」
彼は平静な声で言った。
「20年以上、抱えています。通常の解毒手段では対処できない類のものです。ただ——万毒耐性を持つ者が傍にいると、緩和される例が文献にあります」
万毒耐性。
私の舌が持つ、あの異常な感知力の正式名称を、誰かに言われたのは初めてだった。
「私を、治療のために呼びに来たのですか」
「それだけではありません」
レオンハルトは手袋を引き戻さなかった。古傷の残る腕を机の上に置いたまま、私を見た。
「あなたの記録が必要です。そして——あなたが必要です。記録があっても、書いた本人がいなければ、証拠として機能しない状況があります。アルヴァスで行われる国際会議に向けて、あなたの知識と判断が要る」
「それと、治療は」
「別の話です。治療については、条件を決めます。あなたの自由を損なわない形で、契約として。私があなたに何かを求める時は、必ず手続きを通します」
手続きを通す。
その言葉が、奇妙な場所に刺さった。5年間、私の存在は手続きを踏まれたことがなかった。任命は一方的で、解任も一方的だった。毒を飲む時も、記録を書く時も、私の意思を確認した者は誰もいなかった。
それを、この男は「契約として」と言った。
「……3か月前の記録に、折り目があります」
私は言った。急に変わった話題に、レオンハルトの目が少し動いた。
「あなたですか」
一呼吸があった。
「はい」
短い返答だった。
「ラヴェンダ毒の記録のページです。あそこだけ、他のページと違う扱いをされていました」
「確認しました。経路が、私が把握していたものと一致したので」
私は帳面の書状を、テーブルに置いた。
「……あなたは、3年間、私の記録を読んでいた」
「ええ」
「それだけですか」
部屋の中が静かになった。ティナの足音も、庭の気配も、今は何も聞こえなかった。
レオンハルトが口を開いた。
「3年前に、正式な外交文書で申し入れを行いました。あなたの移籍について」
私の手が止まった。
「……知らなかった」
「殿下に遮断されました。安全保障上の人材として放出できない、という名目で。だから待ちました。いつかあの男が、自分の手で手放す日を」
3年間。
私が5年間、膝をついていた間に、この男は3年間、外から私の記録を読んで、待っていた。不要と言われた私の価値を、私よりずっと前から知っていた。
視界が滲みそうになった。5年間、泣かなかったのに。解任された謁見の間でも、引き継ぎを拒まれた廊下でも、帳面の折り目を見つけた夜も——泣かなかった。なのに今夜、他人に「待っていた」と言われたことで、喉の奥に何かが詰まった。
私は息を1つ吐いた。声に出さなかった。
「……条件を聞かせてください」
レオンハルトが私を見た。
「アルヴァスへ来てほしい。あなたの自由を奪わない。住居、待遇、治療の範囲と期間——全て書面で先に確定します。いつでも立ち去る権利もあなたに残します。私があなたに与えられる手続きを、全部使います」
私は手の中の書状を見た。封蝋の日付は3年前の秋だった。
「この書状は」
「3年前に作成した申し入れ書です。条件の骨格はそこにあります。変えたい部分があれば言ってください。全部、直します」
不要と言った男が捨てた私を、別の男が3年間手放さなかった。
それが今夜、やっと手に届く場所に来た。
「1つだけ、確認させてください」
私は顔を上げた。
「あなたの呪毒——私が傍にいれば、本当に緩和されますか」
「文献上はそうです。ただし確証はない。あなたに危険はないと思いますが、保証はできません」
正直な答えだった。都合のいいことだけを言わなかった。
「……わかりました」
私は書状を両手で持ち直した。
「読みます。条件を読んで、朝までに返事をします」
レオンハルトが頷いた。それだけで何も言わなかった。多くを言わない人だと思った。必要なことだけを言う。その分、言った言葉の重さが違う。
ティナが扉の外で「お茶が冷めてしまいますが」と小声で言った。
私はこの夜、書状を開いて、3年前の条件を読んだ。万毒耐性という言葉が、文書の中に正式な術語として書かれていた。私という人間の能力が、ちゃんと名前を持った形で、紙に記されていた。
翌朝、私は返事をした。
不要と言った人間の言葉より、3年間待ち続けた人間の書状の方を、信じることにした。
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