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「連載版」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第1章 「不要」の宣告、当日追放

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第5話 「迎えに来た」その先を聞けなくて

 机の前に座ってから、どのくらい経ったのかわからなかった。


 帳面を開こうとして、開けない。鍵は手元にある。木箱の錠を外したのも私だ。12冊の黒い革表紙を棚から出して、ページに今日の日付を書き入れようとペンを取った——その瞬間、文字が頭の中で滲んだ。


 字が、出てこなかった。


 5年間、一度もなかったことだ。どれほど体が重くても、熱があっても、帳面に向かえばペンは動いた。記録は私の呼吸だった。日付、体の状態、残毒の気配のなさ。そういうものを書き留めることが、王宮での私の軸だった。


 それが今夜、ただ疲れているというだけで止まった。


 私はペンを机に置いた。指先に革の感触があった。気づけば帳面の背を撫でていた。不安になると出てしまう、自分でも知っている癖だ。5年間、謁見の前も、毒の気配を感じた朝も、この仕草が先に来た。


 実家に戻って3日が経つ。毒のない夜、毒のない布団、毒のない夕食の温かさが、まだ怖い。怖いというより——慣れ方を、忘れた。体は少しずつほぐれているのに、頭だけが王宮の時間のまま動こうとする。夕食の後、毒の確認を怠ったことに気づいた時の、あの奇妙な安堵と後ろめたさが今夜も引っかかっていた。


 帳面を木箱に戻そうとして、手が止まった。


 3か月前の折り目のページが、また頭の端で光った。右上の折り目。私の癖ではない手つき。丁寧に、内容だけを確かめて、戻した誰かの手。その手がどこにあるのか、3日経ってもまだわからない。わからないまま今夜もここにいる。


 鍵を指の中で握り直した。


「セレーナ様」


 扉の向こうでティナの声がした。時刻を確認しようとして、時計がないことに気づいた。王宮の廊下にはどこにでも鐘があった。ここにはない。ランプの油の減り具合から、夜の中程だろうと思った。


「お客様がいらしています。今すぐ、とのことで」


 私は顔を上げた。


「今すぐ、と」


「はい。お名前は……隣国アルヴァスのご使者、とだけ」


 隣国。使者。夜半。


 私は帳面を全部、木箱に入れた。領収の束も確かめた。鍵を閉めた。錠前を指で2度押して、引き出しにしまった。


 使者が来た理由など、1つしか思い当たらなかった。帳面の返還要求だ。追い返す言葉を、廊下を歩く間に並べた。機密指定なし。私物です。朱印をお見せください。根拠を示してください——その先まで頭の中で揃えてから、裾の皺を直して、応接間の扉を開けた。



 部屋の中央に、男が立っていた。


 黒髪だった。整った横顔で、手袋を外さないまま窓の外を見ていた。私が入った気配を感じたのか、振り返った。灰色の目が私を見た。視線に重さがあった。値踏みではなく、何かを長い間待っていた者の、押し殺した静かさがあった。


 腰に剣はない。外交の礼装に近い衣装だが、どこかに動きやすさを残している。外套の袖が少し埃をかぶっていた。急いで来たのだと、その一箇所だけが言っていた。


 テーブルの上に、封蝋つきの書状が1通置かれていた。


 アルヴァスの国印だった。その下に個人の印章がある。そして——


 封蝋の横に記された封緘の日付に、私の目が止まった。


 今日の日付ではなかった。3年前の秋の年号だった。なぜそんな日付が。封緘したのが3年前で、今夜初めて届けられたのか。それとも——意味を考える前に、男が口を開いた。


「夜分に申し訳ありません」


 声は低く、落ち着いていた。湖面のような静けさで、それでいて底に何かある声だった。


「帳面の返還を求める使者ではないか——そうお思いでしょう」


 私は何も言わなかった。言わなかっただけで、顔に出ていたかもしれない。


「違います」


 短い一言だった。それからテーブルの書状を手に取り、私に差し出した。私はすぐには受け取らなかった。


「……お名前を、聞いてもよろしいですか」


「レオンハルト」


 それだけ言った。肩書きを続けなかった。私も聞かなかった。書状を受け取った。封蝋の重さが手の中に来た。


「迎えに来ました」


 頭の中で組み立てていた言葉が、全部ひっくり返った。


 返還要求。没収。脅し。交渉の切り札として私を利用する何か——そのどれかだと思っていた。迎えに来た、は、どこにもなかった。想定の外が、4文字で来た。


「……迎えに、とは」


「あなたを、アルヴァスへ。あなたの記録と、あなた自身を。詳しい条件は書状に——」


 庭で、音がした。


 石を踏む足音が、複数。夜の中程に、庭を歩く者がいる。護衛か。それとも——私はすぐには判断できなかった。レオンハルトの目が一瞬、窓の外に向いた。瞳に何かが走った。驚きではなく、想定の内だという冷静さだった。


 私も窓を見た。闇の向こうで、ランプの光が1つ動いていた。


 レオンハルトが再び私を見た。先ほどとは違う色が、灰色の目の底にあった。何かを急いでいた。それを押さえていた。急くほど、押さえなければならない理由がある。そういう目だった。


「続きは——」


 扉がノックされた。


「セレーナ様、よろしければ夜食をお持ちいたしましょうか」


 ティナの声だった。庭の足音も、部屋の空気も、何も知らない朗らかな声だった。


「構わない」とレオンハルトが静かに言った。


 それでも扉が開いた。ティナは盆を持っていた。お茶と焼き菓子をテーブルに置き、一礼して扉を閉めた。


 少し間があった。


 また扉が開いた。今度は小さな皿が追加された。「温かい方がよろしいかと」という声がした。また閉まった。


 もう少し間があった。


 また開いた。ジャムの小瓶が置かれた。「パンもございますが……」と言いかけて、扉が静かに閉まった。


 テーブルの上に皿が3枚並んでいた。レオンハルトは1枚も手をつけていなかった。私もそちらを見ていなかった。


 庭の足音は、まだ続いていた。


 私は書状を手の中で握り直した。封を開くべきかどうか迷って、今ではないと思った。今は男の言葉を聞く方が先だった。


「……続きを」


 私は言った。


「聞かせてください。迎えに来た——その続きを」


 レオンハルトが私を見た。一度だけ、静かに息を吐いた。それから、口を開いた。


「3年間、あなたの記録を読んでいました」


 言いかけて——庭の足音が止まった。


 レオンハルトの口が、閉じた。


 彼は窓を見た。灰色の目が、暗い庭の一点に向いて、動かなかった。


 3年間。読んでいた。私の記録を。


 その言葉が私の中でゆっくりと重さを持ち始めたその時——続きは来なかった。部屋の外で、何かの気配がした。それとも私の聞き間違いだったのか。


 男は、まだ口を閉じたままだった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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