第48話 明日を信じて書いていいの
届いた登録簿の写しに、私の名前はあった。「主席記録官 セレーナ・ヴォルマー」――そこまでは正しかった。問題は、その隣の欄だった。婚約者の名を入れる空白が、朱の枠ごと、まるごと白紙のまま綴じられていた。
昨夜それを見つけて、私は5分間、動けなかった。
式典は今日の昼だ。神殿での婚約登録は、式典の後と決まっている。つまりこの写しは、まだ何も確定していないことを、紙の上で証明していた。手続きとは、終わるまでは始まっていないのと同じだ。私はその事実を、5年間の記録のかたわらで学んでいた。
白い手袋を両手で持ったまま、私は控室の鏡の前に立った。指先が、革の匂いを覚えている。新しい帳面の背を撫でる癖が、今朝はすでに3回出た。
「セレーナ様。そろそろです」
ミレイユが扉の外から声をかける。「……承知しました」と答えかけて、止めた。今日はその言葉を使わないと、昨夜決めていた。
「はい」
それだけ言って、私は手袋を外した。
印章箱が、机の上で待っていた。
革の小箱は、思っていたより軽かった。中に入っているのは主席記録官の印章で、授印は式典の壇上で行われる。だからまだここでは触れてはいけない。それでも私は、箱の角を指先で揃えた。反射だった。
昨夜の白紙を、もう1度だけ思い出した。
起きない方が、怖い。あの言葉は今も本当だった。白紙は何も保証しない。だから私は今日、自分の手で埋めに行く。
廊下に出ると、レオンハルトが待っていた。白の正装、手袋はまだ外されていない。彼は私の顔を見て、1瞬だけ目を細めた。
「震えていないか」
「……今日は、震えません」
彼は頷いた。言葉より先に、廊下を並んで歩き始めた。盾の後ろではなく、横に並んで歩くのが、いつからこんなに当たり前になったのかを私は考えた。いつかは分からなかったが、今日はそれでいいと思った。
誓いは縛りだと思っていた。長いあいだ、そう思っていた。形になった言葉は私を閉じ込める。5年分の記録が「不要」で消えたとき、そう確信した。
でも今朝、手袋を外すとき、私は別のことを思った。
手袋を外すのは、触れるためだ。
式典会場の壇上には、誓約監督官が祈祷紐を持って立っていた。列席者の視線がいっせいにこちらを向く。ざわめきが、石造りの天井にゆっくり吸い込まれていった。
宣誓文が差し出された。最後の1行だけが、空白になっている。
ペンを受け取った瞬間、手が止まりかけた。
5年間、私は毎朝記録してきた。何を食べたか、誰が運んだか、どの膳に毒の疑いがあったか。それはすべて起きたことの記録だった。過去しか書いてこなかった。
ここに書くのは、起きていないことだ。
まだ来ていない明日のことを、私は誓約の文書に書こうとしている。
「……」
封蝋を押す前に必ず置く、あの1つの呼吸を、私は今ペンの前でした。
それから、書いた。
「――私は、記録します。毒ではなく、願いを」
声に出して読み上げると、自分の言葉が初めて自分のものに聞こえた。監督官が祈祷紐を結び直した。「規定です」と静かに言い、頷いた。それだけで、空欄は埋まった。
授印の小箱が開く。印章が、私の手のひらに乗った。本当に軽かった。重さではなく、温度があった。これを「重い」と思っていたのはいつのことだろう。
壇を降りると、レオンハルトが待っていた。彼はまだ何も言わなかった。ただ、白手袋を静かに外した。
神殿の登録窓口は、式典会場から石畳を渡った先にある。誓約監督官が案内役を務め、私たちの後ろをクラウスが書類の束を抱えて歩いた。胃薬の小瓶がポケットから少し見えていたが、今日は誰も指摘しなかった。
登録簿が開かれた。指輪の箱、紋章札、署名欄。成立条件を神殿が確認していく。
名前を書く欄で、私は1度だけペンを止めた。
提出すれば、読まれる。
それでも今は、読まれてもいいと思った。この名前は、奪われるために書くのではない。守られるための、発効だ。
レオンハルトのペンが、隣の欄に動いた。彼の署名は迷いがなかった。私は自分の署名が、今日初めて震えていないことに気がついた。
神殿の廊下に出た瞬間、靴音が前から来た。
母国の封蝋付き書簡を持った使節が、硬い笑みのまま立っていた。
「面会の件、改めて正式に――」
「儀礼です」
クラウスが1歩前に出た。胃薬の瓶を右手に持ったまま、左手で書類を差し出した。
「婚約登録、本日成立。主席記録官の身分は宰相府の管轄です。面会は書面にてお申し込みください。回答まで、14日」
使節の靴音が止まった。封蝋を爪でなぞる手が、小さく固まる。
「……正式に、要求する権利がある」
「ございます。書面でどうぞ」
クラウスは頭を下げた。深く、礼儀正しく、いっさいの余地を残さずに。使節は言葉を探したが、見つからなかったようだった。靴音が遠ざかった。
ミレイユが廊下の端に立っていた。
「式典が終わりました。……5時です」
「はい」
私が答えると、隣でレオンハルトが小さく頷いた。初めて見る頷き方だった。仕事の承認でも、命令でもない。ただ、今日を共にしたという確認のような、静かな動きだった。ミレイユが内心で何かを思ったのは、その目の端でわかった。
夜、机の前に座った。
新しい帳面を開く。革の匂いが、指先に馴染んでいる。1頁目はまだ白紙だった。
昨夜ここで動けなかった、あの白紙だ。
でも今夜は、怖くなかった。
起きていないことを書いていい。まだ来ていない明日を、願いとして残していい。誓いは縛りではなく、明日を信じる許可だと、今夜は思えた。
レオンハルトが隣の椅子に座っていた。声が、静かに来た。
「……君が明日を書くなら、私は――今日を守る」
私はペンを持った。封蝋を押す前の呼吸を、今夜はしなかった。
1頁目に、1行だけ書いた。
書き終えて、帳面を閉じた。
その1行は、毒でも命令でも報告でもなかった。備考欄でもなかった。
1頁目に書いたのは、はじめての願いだった。
新しい帳面の1頁目に、彼女はまだ書いていない――昨夜の私なら、そう思っただろう。でも今夜の私は知っている。
明日、最初に書くのは何だろう。
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