第47話 冷たい5年と、温かい今日
机の引き出しに、前任者の字が残っていた。
走り書きで、1行。読み取れない崩し字だが、右端の日付だけが判別できた。それが8年前だったとき、私は引き出しをそっと閉めた。8年間、誰もここを開けなかったらしい。前任者が去ったあと、この席は空席だったのだと——それで分かった。
主席記録官の初日は、そういうところから始まった。
机は古い。3つある引き出しの表面には小さな傷が散って、インクの染みが3か所。右端には印章箱が置かれていた。蓋を開けると、革の匂いが上がる。新しい革だった。箱だけが、この机の中で唯一、今日のものだった。
印章を手に取ってみた。
思ったより、軽かった。
5年間、毒見の記録を書き続けた。日付と時刻と物質名。膳の配置、薬湯の色、副食に混じった粉末の量。「起きたこと」だけを書く。「感じたこと」は書いてはいけなかった。書いても意味がなかった。記録は証拠だから、感情は邪魔だった。そして「不要」の一言で、その5年は終わった。
その重さが、今も指先に残っている気がした。
白紙を前にして、ペンを持ったまま手が止まる。
何か書かなければならない。分かっている。でも何を書いていいのか、今日の私にはまだ分からなかった。毒でも命令でもない最初の一行は、どんな形をしているのだろう。
5年間、書き損じた紙は全て焼いた。破いた紙はすり替えの証拠になるから、燃やす以外になかった。白紙は常に次の記録の準備で、何も起きていない証明ではなかった。空白が続くとき、私には「次に来るもの」の予感だけがあった。
——これは癖だ。抜けない、悪い癖。
紙の角を1度揃えてから、私は新しい帳面を開いた。革の表紙、まだ白いままの最初のページ。レオンハルトが差し出した帳面。「——これは、君のための記録だ」と言ったあの夜の手つきを、なぜか今日だけ思い出せた。
窓の外では雲が流れていた。静かな朝だった。
印章を箱に戻す。蓋を閉める。軽い音がした。
重い。そう思っていた。権威というのは重いものだと、ずっと思っていた。でもこの箱は軽かった。使い慣れれば、それだけ軽くなるのかもしれない。あるいは、重さを一人で持たなくていいのかもしれない。
どちらが正しいかは、まだ分からなかった。
昼になると、ミレイユが椀を運んできた。
書類の山に気づいていないような顔で入ってきて、机の端に置いた。湯気が立っている。根菜の匂いが部屋に広がった。椀の縁から透けて見える野菜は、厚めに切ってある。
「食べてください」
それだけ言った。他には何も言わなかった。「白紙が残っています」でも「定時を守ってください」でも、ない。命令の形をしているのに、声に強さがなかった。ただ「ここに温かいものがある」という事実だけが届いた。
私は素直に匙を取った。
温かかった。
それだけで、肩の何かが少し緩んだ。指先の強張りが、じわりとほぐれていく気がした。
「……美味しい」
「知っています」
ミレイユは真顔のまま、山積みの書類の背を揃えて棚に差し込んでいった。会話を引き延ばすつもりはないらしい。でも、引き延ばさなくていい。このくらいの温度で十分だった。
食べ終わる頃には、手の強張りがほとんど消えていた。午後の記録が、少しだけ書きやすくなりそうだった。
夕刻、バルコニーに出ると、月が出ていた。
まだ細い。三日月にも満たない、刃のような月。それでも空の色と釣り合っていて、私はしばらく動けなかった。
後ろで扉の音がした。足音は静かで、靴底が床を確かめるような歩き方。振り返らなくても分かる。
「寒いか」
「……いいえ」
レオンハルトが横に立った。私より少し背が高い。視線の角度が違うから、彼の見ている月と私の見ている月は微妙にずれているはずだった。
それでも——同じ月を見ていると分かった。
何も言わなくてよかった。
月が雲の縁に差し掛かるまで、二人とも黙っていた。風があって、石欄が冷たかった。彼の袖が少し揺れた。
私は思った。5年間、月を見たことがなかった。正確には、見ていたかもしれないが、記録しなかった。見えても書かなかった。書いていい気がしなかった。月は証拠にならないから。
「今日は、どうだった」
問いではなく、確認の声だった。急かしていない。
私は月から目を離さないまま言った。
「……冷たい日付ばかりだったのに」
声が途切れた。続きを探した。
「今日は、手が震えなかった」
沈黙があった。短い。彼は何も急がなかった。
「震えなくていい」
低く、断定だった。迷いがない言い方だった。
「——君の今日は、私が守る」
私は返事をしなかった。でも頷いた。自分でも気づかないくらい、小さく。
そこへ、バルコニーの扉が開いた。
ミレイユが肩掛けを一枚、放り投げてきた。
「月を見るなら、風邪は許しません」
真顔だった。完全に真顔だった。温度のない声で、ただの事実を告げるように。
私はつい笑ってしまった。本当に小さく、声が出ないくらいに。でも確かに笑った。
レオンハルトが一拍おいて、静かに言った。
「——侍女の言う通りだ」
命令でも冗談でもなかった。ただそれだけを言って、バルコニーの扉を開けた。私は肩掛けを羽織って、まだ少し笑いながら中へ入った。
夜、帳面を開いた。
仕事の記録を書いた。受け取った書類の番号、捺印の箇所、明日の確認事項。記録は正確に。それは変わらない。変えなくていい。
でも書き終えた後、最後のページ——備考欄の一番下に、1行だけ書いた。
公文ではない。提出もしない。毒の記録でも、命令でも、証拠でもない。ただの、私の言葉。
月が綺麗です。
ペンを置いた。
5年間、私は白紙が怖かった。何も起きない時間が怖かった。空白は、次の毒が来るまでの猶予にすぎなかった。でも今日の1行は——誰かに奪われる気がしなかった。読まれても、消えない気がした。
帳面を閉じた。革の表紙の匂いがした。角を1度揃えて、机の端に置いた。
そのとき、書類の下に薄い封筒があることに気づいた。封蝋は宰相府のもの。開くと、1枚の用紙が入っていた。登録簿の写し——という表題。そこには「主席記録官」の欄に、私の名前が正式に記されていた。
そのすぐ隣、婚約者の欄は——空白のままだった。
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