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「完結済み」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第8章 主席記録官就任、誓いの追記

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第46話 甘い言葉ほど、慎重になる

 宣誓文の空欄には、昨日から墨が入っていない。


 今朝、神官が引き揚げる際に残した言葉が、まだ部屋の空気に溶け残っている気がした。「明日までに——空欄を決めなさい」。祈祷紐を結び直す静かな指先と、温度のない声。約束の期限は、刃に似ていた。


 私はペン先を紙の手前1センチで止め、そのまま3分が過ぎたことをインクの乾きで知った。


 空欄は短い。2行分の幅もない。にもかかわらず、5年分の毒の記録を書いてきた手が、そこだけ動けなかった。


 毒の名前は書けた。量も、日付も、誰に命じられたかも。それは事実だったから、迷わなかった。


 でも今、ここに書くのは事実ではない。


 誓い、だ。


 紙の角を揃える癖が出て、書いていない宣誓文の端を2度、指でなぞった。意味のない動作だとわかっていても、手が止まっているよりはよかった。


 廊下から、靴音がした。


 聞き分けられるくらい、この屋敷に慣れてしまっている。革底が石畳を踏む間隔。急いでいない。でも迷ってもいない。歩幅のひとつひとつが、言葉を選んでいる男の足音だった。


 扉の前で、止まった。


 ノックはなかった。


 私は顔を上げず、ペン先を紙の上に置いたまま待った。待つ、というよりも——聞いていた。扉の向こうで、彼が何かを考えている気配を。


 少しして、把手が静かに回った。


「……邪魔をするか」

「いいえ」


 反射で答えてから、声が震えなかったことに少し驚いた。


 レオンハルトは執務用の上着を着たまま部屋に入り、私の机の横、窓際の椅子に腰を下ろした。宣誓文には目をやらなかった。代わりに、机の端に置いてあった新しい帳面の背表紙へ、一瞬だけ視線が止まる。止まったことに気づいたのは、すぐに逸らされたからだ。


 何かを言いかけて、やめた。


 その沈黙は不快ではなかった。5年間、「不要」と言われるまで沈黙に耐えてきた私が、初めて、人の黙り方を「いい」と思えた気がした。


「……空欄のことで来ましたか」

「来た、が」


 彼は白手袋の指先を、ゆっくり外した。片手だけ。素手の指が、膝の上に置かれる。


「君を——」


 言葉が、そこで切れた。


 私は顔を上げた。彼の喉が、かすかに動く。続きが喉の奥で止まっているのが、形でわかった。


 言いかけた言葉の重さが、部屋の空気を変えた。熱とも圧とも違う、静かな濃さだった。


「……慎重、ですね」

「甘い言葉ほど」


 彼は素直に言った。言い訳ではなく、説明でもなく、ただそのままの声で。


「一度口にすれば、誓約に変わる。——その重さを、君に押しつけたくない」


 私は帳面の背表紙を見た。革の匂いが、まだうっすら残っている。


「……縛られるのが怖い」


 声に出したのは、初めてだった。


「5年間、どれだけ積み上げても不要の一言で消えた。言葉が形になっても、剥がされる。だから——」


 喉が詰まって、止まった。でも今度は、止まったことが恥ずかしくなかった。


「だから、あなたの慎重さは——」


 そこで扉が、遠慮なく開いた。


「失礼します。宣誓文の件で確認が——」


 クラウスが書類束を抱えて入ってきた。部屋の空気に気づいた瞬間、眉が跳ね上がる。彼の首が、まずレオンハルトを見て、次に私を見て、机の上の宣誓文を見て——胃のあたりを押さえた手が、胃薬の小瓶を探して空を切った。


「……続けてください」

「その一行は公文です」


 低く、はっきりした声だった。


「宣誓文に記入された内容は、神殿の登録簿と照合されます。——宰相閣下が口にされた場合も、同様に」


 部屋が、すとんと静かになった。


 甘い空気が、一瞬で条文の文字列に変わった気がした。


 私は息をひとつついて、ペン先を宣誓文の手前に戻した。


「わかりました。——まだ決まっていません」

「明日の朝8時が期限です」


 クラウスは書類を机の端に置き、目を合わせないまま部屋を出た。扉が閉まる直前、彼の横顔が「これが仕事です」と言っていた。胃薬はまだ見つかっていないようだった。


 静寂が戻ってきた。


 レオンハルトは何も言わなかった。立ち上がりかけて、止まった。素手のままの片手が、机の上の宣誓文の空欄に、そっと指先を当てる。紙を押さえるのでも、書くのでもない。ただ、なぞるように。


 低い声が落ちてきた。


「ここに——君の名ではなく、君の願いを書きたい」


 それだけ言って、彼は部屋を出た。


 残されて、私は帳面の備考欄を開いた。何も書いていない白紙が待っている。


 手は震えなかった。でも、動かなかった。


 言葉を、ください。


 そう思った言葉を、今夜はまだ声にしなかった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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