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「完結済み」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第7章 国際会議開幕、原本で刺す

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第42話 7日以内に形を示せ

 白い紙を見つめていた。


 議長が差し出したのは、婚約登録の用紙だった。保護措置の条件として、それが机の上に置かれた。審議が終わり、会議場の喧騒が遠ざかっていく中で、その一枚だけが私の視界に残って動かなかった。


 勝った。


 そのはずなのに、手が震えていた。


 控室の壁際まで下がって、革表紙の帳面を両腕で抱える。5年分の重さがあるのに、今日に限って軽く感じた。意味がわからなかった。勝ったのに手が震えていて、勝ったのに声が出なくて、勝ったのに全身が「もう終わりかもしれない」と言い続けている。


 帳面の角を揃えた。揃えた。もう1度揃えた。


「……セレーナ」


 低い声が、壁際に届いた。


 レオンハルトが控室の扉を閉め、靴音を殺して近づいてくる。礼装のままで、整いすぎた横顔に、いつもよりわずかに力が抜けていた。議場での2時間が彼にとっても容易ではなかったことを、その横顔が教えていた。


「足が、動かないんです」


 自分でも驚くくらい、素直に言葉が出た。


「……そうだな」


 答えて、彼は隣の壁に肩を預けた。並んで立つ。ただそれだけなのに、膝の震えが一段、落ちついた。


 帳面の角を揃える。


 また揃える。


 指が、帳面の背を撫でた。癖だ。5年間繰り返してきた、不安のときだけの癖。彼が隣に立ってくれているのに、それでも手が止まらない自分が少し情けなかった。


「よく、やった」


 彼は前を向いたまま言った。称賛に聞こえない声だった。でも、だからこそ、嘘ではないとわかった。


 喉の奥で何かが緩んだ。涙にはならなかった。ただ、大きく息を吸った。蝋の匂いがまだ控室に残っていた。勝利の臭いというのは、どうやら蝋と紙の匂いらしかった。次に何かを記録するとき、この匂いを思い出すだろうと、そんなことを思った。




 廊下に出たのは、ミレイユが「お身体が冷えます」と扉を細く開けた後だった。


 クラウスが待っていた。眼鏡の位置を直し、申告書の束を脇に抱え、コートの内ポケットに胃薬の袋を押し込もうとしている。うまく入らずに3度やり直した。


「セレーナさん、お疲れさまです。お伝えすることがあります」


 声が平坦だった。悪い知らせのときの声だと、この数ヶ月で学んでいた。


「議長より預かりました。婚約登録の用紙です。提出期限は——7日以内」


 7日。


 数字だけが、廊下の冷えた空気の中に立った。


「保護措置の継続には書面上の登録が必要です。7日を過ぎると、会議決定に基づく保護は失効します。——数字だけは、嘘をつきません」


 クラウスらしい締め方だった。情の欠片もない言い方で、でもだからこそ、逃げる余地がなかった。受け取った用紙が指先で軽く震えた。白い紙に、黒い枠線。名前を書く欄が2つある。


「7日なら、定時内に終わります」


 隣でミレイユが呟いた。


 クラウスが、即座に首を振った。言葉はなく、ただ静かに、はっきりと。


 笑いそうになった。笑える余裕が自分にあったことの方が、もっと驚きだった。




 神殿の入口は、議会棟から石畳の道を20分ほど歩いた先にあった。


 夕暮れが近かった。橙色の光が石畳を染め、私たちの影を長く引く。ミレイユが少し前を歩いて、私とレオンハルトが並んだ。足音が石畳を叩いた。会議場の硬い床とは違う、少し柔らかい音だった。


 婚約登録の用紙は、彼が持っていた。


「怖いですか」


 聞いたのは私だった。


「何が」


「その用紙に、名前を書くことが」


 少し間があった。彼の指が、誓約印の指輪をゆっくり回している。痛みの合図だ、ともうわかっていた。痛みというより、本心が表面に近づくときの合図、なのかもしれないと最近は思っている。


「婚約は」と私は続けた。「私の、自由を奪いますか」


 5年間ずっと怖かったものの名前を、ようやく声にした。


 解任の朝の記憶。「不要だ」の3文字。誰かの都合で席を失う恐怖。婚約という名の鎖が、もう一度私を後列へ押し込むことへの、どうにもならない怯え。守られて、縛られて、また捨てられる結末への想像が、ずっと喉の奥に刺さっていた。


「……私、また——捨てられるのが怖いんです」


 言ってから、喉が詰まった。


 情けないとは思わなかった。ただ、正直なだけだった。今日1日で嘘の余地が全部削られてしまったのかもしれない。


 レオンハルトが立ち止まった。


 振り返ると、彼は私の手元を見ていた。革表紙の帳面を。両腕で抱えたまま離さない、この癖を。


 ——ああ。


 見られていた、と思った。帳面の癖を。不安のときに角を揃える癖を。5年分のそれを、この人はずっと見ていたのだと、今更わかった。


「捨てない」


 声が、低かった。


「……だから、期限の中で誓う」


 指輪を回す指が、止まった。


 それきり彼は何も言わなかった。でも並んで歩く足が、さっきより一歩、近かった。私の影と彼の影が、夕陽の中で少し重なった。重なって、また離れて、また重なった。




 神殿前の石段で、ミレイユが待っていた。


 白い帳面を、両手で抱えていた。


 私の革表紙ではない。新しい、白紙の帳面。まだ何も書かれていない、まっさらな一冊が、夕暮れの光の中で淡く光っていた。


「次の記録に、と思いまして」


 それだけ言って、ミレイユは一歩引いた。説明はなかった。理由もなかった。ただ、差し出された。


 私は一度、革表紙の帳面の角を揃えた。5年分の重さを確かめるように、ゆっくりと。指先に馴染んだ革の感触が、いつもと同じ温度だった。


 それから顔を上げた。


「行きます」


 レオンハルトが頷いた。


 並んで石段を登った。2人の影が夕陽の中で重なって、それからゆっくり離れた。


 7日以内。その言葉が、今はもう刃ではなかった。


 白い帳面が、ミレイユの腕の中で静かに待っている。石段の上に扉がある。


 7日後、彼の名で登録しなければ——保護は、失効する。


読んでいただき、ありがとうございます。


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