第41話 議事録に刻まれる名前
会議が再開した瞬間、議場に残っていた空気が変わった。
議長の声は低く、無駄がなかった。
「先ほどの休憩中に発生した事案を、当議事に記録します。控室において提出書類に無断接触を試みた人物が、会議規定に基づき身元確認のため一時留置されました。以上、議事録第4項に加筆します」
白手袋の指が、机の上でかすかに動いた。
傍聴席の端で、エドヴァルド王太子がその言葉を受け取った顔が見えた。顎が上がり、そして少しだけ、下がった。
私は帳面の背を撫でた。手が、震えていなかった。
それが今日の最初の驚きだった。
クラウスが立ち上がったのは、議長が「提出書類の補足資料を求める」と告げた直後だった。
彼は黙って、紙を広げた。手書きの線。点と点を結ぶ、取引網の地図。
私にはすぐわかった。何週間も前から積み上げてきた情報を、彼が1枚に落とし込んでいた。
「アルヴァス宰相府が収集した商会間取引の記録です。提出済み文書との照合結果も添付しております」
クラウスの声は平坦だった。胃が痛いのか、指先が申告書の端を軽くなぞった。それだけで、私は彼が限界に近いことを察した。
線が机の上に広がった。母国の商会名。納入経路。日付。
言い訳が、沈む音がした。気のせいではないと思う。議場はしんと静まっていた。
「セレーナ・ヴォルマー記録官。読み上げを」
議長の声が落ちた瞬間、私の心臓が1つ大きく鳴った。
立て、と体に言い聞かせた。椅子が引かれた。後ろに、レオンハルトがいる気配がした。確認はしなかった。する必要がなかった。
帳面を開いた。
書き込まれた日付が、目に入った。5年前の日付から始まる記録。膳の記録。取引の記録。そして、会議の廊下で今日書き足した1行。
「第17期秋、9月3日付。膳の銀食器に、第三等毒物に分類される成分が検出されました。検出者は当時の毒見役、私です。報告は翌日に提出しましたが、受理記録は現存しておりません」
声が、出た。
感情では叫ばなかった。数字で、日付で、刺した。
「第18期春、2月17日付。同種成分の痕跡を再確認。同日付の報告書は、差し戻しではなく紛失として処理されています」
議場が静かになる。静かになるほど、声が通る。
「第19期夏、6月4日付。私は任を解かれました。理由、記録なし。担当者、記録なし。引き継ぎ、不要とのことでした」
最後の日付を読んだとき、喉の奥が少し、熱くなった。
だが声は乱れなかった。
記録は嘘をつかない。ついたのは、人だ。だから私は、数字を置くだけでいい。
「——それは私物の帳面だろう。公文書として認められるはずがない」
声が飛んできた。母国側の席だった。白手袋の指が見えた。
私は顔を上げた。声の方向を見た。
「購入記録があります」
私は言った。
「この帳面は、帳面屋の購入台帳に記されています。私の名前で、私の金で買ったものです。また、使用している罫線の型式は宮廷支給品とは異なります。規格の違いは目視でも確認できます」
一拍、置いた。
「帳面そのものは私物です。しかし、記録された内容——日付、数値、提出先、処理番号——はすべて当時の公務に基づいています。これは証言ではなく、記録です」
議長が紙を揃えた。指で、机を静かに叩いた。
「資料性を認めます。議事録第6項に記録します」
白手袋の指が、揉まれた。
私は見ないようにして、帳面の角を揃えた。揃えて、閉じた。
傍聴席を見たのは、座る直前だった。
エドヴァルド王太子の顔が、白くなっていた。
白手袋の両手が膝の上で重なり、指先が小さく動いた。口が何かを言いかけて、止まった。隣の側近が何か耳打ちしたが、彼は視線をどこにも定めていなかった。
不要だ、と言われた日から今日まで、私は何度あの言葉を思い出しただろう。
5年間、膝をついた場所の冷たさを。帳面が「不要」と言われた瞬間のことを。
でも今、議事録第6項に私の記録が載った。
それはもう、誰も消せない。
短く、一度だけ、息を吐いた。
議長が書類を束ね、印章を取り出した。
蝋印を押す音がした。乾いた、鮮明な音。
「提出者および記録者の証人登録を完了します。本日の決定事項は、アルヴァス宰相府記録官、セレーナ・ヴォルマーの記録に基づき処理されます」
議場の空気が変わった。
私の名前が、議事録に刻まれた。
レオンハルトが、私の隣で椅子の背に手を置いた。それだけだった。声も、言葉も、なかった。それで十分だった。
クラウスが机の下で、かすかに指を動かした。拍手しそうになって、止めたのだとわかった。苦い顔をして、胃のあたりを押さえていた。
議長が立ち上がったのは、書類整理が一段落した後だった。
「本会議の決定として、書類提出者への保護措置を適用します」
淡々とした声だった。
「ただし、保護の継続には条件があります」
彼は手元から紙を1枚取り出した。
白い用紙だった。
罫線が縦に走っていた。筆記欄が2つ。
名前を、2人分書く書式だった。
「7日以内に、形を示してください」
議長はそれだけ言って、机の上に用紙を置いた。
私はその紙を見た。
用紙の欄外に、小さな文字が印刷されていた。
「婚約登録申請書」——と。
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