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「完結済み」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第7章 国際会議開幕、原本で刺す

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第40話 逃げた足に、赤い紐

「——一度だけ、開けられた痕があります」


 その言葉が、廊下の石床に落ちてから、しばらく時間が止まったように感じた。

 封緘所員は何も加えなかった。低い声、淡々とした顔。黒手袋の指先だけが、検分用のルーペを静かに収めた。

 私は隣に立つクラウスを見た。彼は申告書の控えを抱えたまま、視線だけを封緘所員に向けていた。眼鏡の奥の目が、いつもより細い。

 開けられた。封緘束が。提出したはずの書類が。


 レオンハルトは何も言わなかった。指輪を一度だけ、ゆっくりと回した。




 休憩は15分だった。

 議場の空気が人の動きで薄くなり、廊下と控室を行き来する声が増えた。私は提出束の保管室へ足を向けた。確認しなければならないことがあった。開封痕の箇所を、自分の目で見ておきたかった。

 廊下の角を曲がったとき、違和感があった。

 香りだ。

 ラヴェンダ、だと思った。甘いが重い、どこか薬の底に似た匂い。記憶の端が、何かに引っかかった。


 控室の扉が、半分開いていた。


 私は足を止めた。

 扉の隙間から見えたのは、革手袋の指先だった。封緘束に、ゆっくりと伸びていく手。整った爪、薄桃色の袖——。

「待って」

 声が出た。自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。

 扉を押した。


 マリアンヌが振り返った。

 微笑みが先にあった。目が、少し遅れて動いた。

「あら」彼女は言った。「存外、早かったのね」

 扇を広げた。口元を隠した。香嚢が、揺れた。ラヴェンダだった。

「その手で」私は言った。「私の五年に触らないで」

 マリアンヌの目が、初めて正確に私を見た気がした。微笑みが、一瞬だけ剥がれた。

「滑稽ね」彼女はつぶやいた。「まだ、そんなものを抱えて」

「記録します。今、あなたがここにいたことを」

 帳面の背を撫でた。角を揃えた。手が、震えていなかった。


 マリアンヌは一瞬、何かを考えるように瞬きをした。

 そして、走った。




 廊下を走る靴音は、石造りの会議場に異様によく響く。

 私は扉を開けて外へ出た。裏廊下の方向へ、薄桃色の裾が消えていくのが見えた。


「走った!」

 後ろから声がした。ミレイユだ。

「ミレイユ、マリアンヌが——」

「見ました!」彼女はすでに走っていた。が、走りながら声を上げた。「会議場は走行禁止です!」

 廊下を横切ろうとしていた事務局員が一瞬固まったが、ミレイユはそれを意に介さず、ただ真顔で走り続けた。規則を叫びながら、自分も規則を破っている。後で言うつもりはなかった。


 私も走った。帳面を抱えたまま、走った。


 裏廊下の突き当たりに、小さな扉があった。会議場外への通用口だ。マリアンヌはそこへ向かっていた。

 だが扉は、開かなかった。

 がたがたと音がした。彼女は取っ手を引いた。何度も引いた。

「——閉まってる」

 低く、彼女が言った。


 私はその言葉の意味を理解するより先に、廊下の奥から封緘所員の声が聞こえた。

「会議開催中は、全出入口の施錠を確認しております。規定通りです」

 黒手袋の男が、ゆっくりと歩いてきた。表情は変わらなかった。「外への通行には退席届が必要になります。提出されていない方は、ご案内します」

 通常運用だ、と私は思った。誰かが特別に動いたわけじゃない。会議の仕組みが、ただそのまま動いた。


 マリアンヌは振り返った。

 微笑みが、もうなかった。




 護衛が2人、廊下の端から現れた。レオンハルトの側近だ。

 マリアンヌは逃げ場を探すように視線を泳がせたが、石壁と閉まった扉と、3方向からの人の目に囲まれて、動けなかった。

 私は彼女に近づかなかった。ただ見ていた。


 薄桃色の袖。その袖口が、少しだけめくれていた。

 赤い紐が、見えた。

 細い、封緘用の赤紐。誰かがぎゅっと縛ったのか、二重になっていた。封緘机で使う型の紐だった。なぜ彼女の袖口に——。


 私は帳面を開いた。記録した。「袖口、赤紐(封緘規格)、二重結び」。

 言葉にしてから、初めて鼓動が速くなった気がした。




 拘束、という言葉は使わなかった。

 封緘所員は「規定に基づく身元確認のため、一時同行をお願いします」と言った。マリアンヌは扇を持ったまま、それに従った。

 私はその様子を、廊下の端で見ていた。ミレイユが横に立っていた。息が少し上がっていたが、髪留めは乱れていなかった。


「……走行禁止、言えましたね」

 ミレイユが静かに言った。

「あなたも走っていたでしょう」

「注意しながら走るのは、別のことです」

 返す言葉がなかった。


 マリアンヌが連れられていく直前、彼女は一度だけ振り返った。誰かを探すように、廊下の奥を見た。それから私を見た。

「私が悪いの?」

 声が低くなっていた。微笑みは完全に消えていた。

「……命令よ」

 吐き捨てるように、彼女は言った。「言われただけ」

 誰に、とは言わなかった。

 扉が閉まった。




 廊下が静かになった。

 私は帳面の角を、指で揃えた。揃えて、また揃えた。

「記録しました」

 誰に言うともなく、つぶやいた。「逃げたことも。袖口も。言葉も」

 ミレイユが私の隣に来た。無言で、髪留めを少し緩めてくれた。肩の力が、ふっと抜けた。


 廊下の奥から、靴音がした。

 レオンハルトだった。

 彼は私の顔を見て、一度だけ頷いた。「無事か」

「はい」

「記録できたか」

「しました」

 彼は何も言わなかった。ただ、指輪をゆっくりと回した。それから、視線が私の手元の帳面へ落ちた。

「袖口の紐」と彼は言った。「議事に載せる」

「はい」

「もう1つある」

 レオンハルトの声が、一段低くなった。私は顔を上げた。

「命令よ——」彼はゆっくりと繰り返した。「同じ言い回しを、今日の議場で聞いた」

 私は息を呑んだ。

「誰、が」

「確認が要る」彼は言った。「だから今日は——まだ言わない」


 廊下の奥で、護衛の一人が何か耳打ちをした。レオンハルトの表情が、わずかに変わった。

 指輪が、もう一度、静かに回った。


 連れられていったマリアンヌの手袋の内側に、封緘所員が気づいていた。

 ラヴェンダの香が、残っていた、と——後で聞いた。


読んでいただき、ありがとうございます。


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