第40話 逃げた足に、赤い紐
「——一度だけ、開けられた痕があります」
その言葉が、廊下の石床に落ちてから、しばらく時間が止まったように感じた。
封緘所員は何も加えなかった。低い声、淡々とした顔。黒手袋の指先だけが、検分用のルーペを静かに収めた。
私は隣に立つクラウスを見た。彼は申告書の控えを抱えたまま、視線だけを封緘所員に向けていた。眼鏡の奥の目が、いつもより細い。
開けられた。封緘束が。提出したはずの書類が。
レオンハルトは何も言わなかった。指輪を一度だけ、ゆっくりと回した。
休憩は15分だった。
議場の空気が人の動きで薄くなり、廊下と控室を行き来する声が増えた。私は提出束の保管室へ足を向けた。確認しなければならないことがあった。開封痕の箇所を、自分の目で見ておきたかった。
廊下の角を曲がったとき、違和感があった。
香りだ。
ラヴェンダ、だと思った。甘いが重い、どこか薬の底に似た匂い。記憶の端が、何かに引っかかった。
控室の扉が、半分開いていた。
私は足を止めた。
扉の隙間から見えたのは、革手袋の指先だった。封緘束に、ゆっくりと伸びていく手。整った爪、薄桃色の袖——。
「待って」
声が出た。自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
扉を押した。
マリアンヌが振り返った。
微笑みが先にあった。目が、少し遅れて動いた。
「あら」彼女は言った。「存外、早かったのね」
扇を広げた。口元を隠した。香嚢が、揺れた。ラヴェンダだった。
「その手で」私は言った。「私の五年に触らないで」
マリアンヌの目が、初めて正確に私を見た気がした。微笑みが、一瞬だけ剥がれた。
「滑稽ね」彼女はつぶやいた。「まだ、そんなものを抱えて」
「記録します。今、あなたがここにいたことを」
帳面の背を撫でた。角を揃えた。手が、震えていなかった。
マリアンヌは一瞬、何かを考えるように瞬きをした。
そして、走った。
廊下を走る靴音は、石造りの会議場に異様によく響く。
私は扉を開けて外へ出た。裏廊下の方向へ、薄桃色の裾が消えていくのが見えた。
「走った!」
後ろから声がした。ミレイユだ。
「ミレイユ、マリアンヌが——」
「見ました!」彼女はすでに走っていた。が、走りながら声を上げた。「会議場は走行禁止です!」
廊下を横切ろうとしていた事務局員が一瞬固まったが、ミレイユはそれを意に介さず、ただ真顔で走り続けた。規則を叫びながら、自分も規則を破っている。後で言うつもりはなかった。
私も走った。帳面を抱えたまま、走った。
裏廊下の突き当たりに、小さな扉があった。会議場外への通用口だ。マリアンヌはそこへ向かっていた。
だが扉は、開かなかった。
がたがたと音がした。彼女は取っ手を引いた。何度も引いた。
「——閉まってる」
低く、彼女が言った。
私はその言葉の意味を理解するより先に、廊下の奥から封緘所員の声が聞こえた。
「会議開催中は、全出入口の施錠を確認しております。規定通りです」
黒手袋の男が、ゆっくりと歩いてきた。表情は変わらなかった。「外への通行には退席届が必要になります。提出されていない方は、ご案内します」
通常運用だ、と私は思った。誰かが特別に動いたわけじゃない。会議の仕組みが、ただそのまま動いた。
マリアンヌは振り返った。
微笑みが、もうなかった。
護衛が2人、廊下の端から現れた。レオンハルトの側近だ。
マリアンヌは逃げ場を探すように視線を泳がせたが、石壁と閉まった扉と、3方向からの人の目に囲まれて、動けなかった。
私は彼女に近づかなかった。ただ見ていた。
薄桃色の袖。その袖口が、少しだけめくれていた。
赤い紐が、見えた。
細い、封緘用の赤紐。誰かがぎゅっと縛ったのか、二重になっていた。封緘机で使う型の紐だった。なぜ彼女の袖口に——。
私は帳面を開いた。記録した。「袖口、赤紐(封緘規格)、二重結び」。
言葉にしてから、初めて鼓動が速くなった気がした。
拘束、という言葉は使わなかった。
封緘所員は「規定に基づく身元確認のため、一時同行をお願いします」と言った。マリアンヌは扇を持ったまま、それに従った。
私はその様子を、廊下の端で見ていた。ミレイユが横に立っていた。息が少し上がっていたが、髪留めは乱れていなかった。
「……走行禁止、言えましたね」
ミレイユが静かに言った。
「あなたも走っていたでしょう」
「注意しながら走るのは、別のことです」
返す言葉がなかった。
マリアンヌが連れられていく直前、彼女は一度だけ振り返った。誰かを探すように、廊下の奥を見た。それから私を見た。
「私が悪いの?」
声が低くなっていた。微笑みは完全に消えていた。
「……命令よ」
吐き捨てるように、彼女は言った。「言われただけ」
誰に、とは言わなかった。
扉が閉まった。
廊下が静かになった。
私は帳面の角を、指で揃えた。揃えて、また揃えた。
「記録しました」
誰に言うともなく、つぶやいた。「逃げたことも。袖口も。言葉も」
ミレイユが私の隣に来た。無言で、髪留めを少し緩めてくれた。肩の力が、ふっと抜けた。
廊下の奥から、靴音がした。
レオンハルトだった。
彼は私の顔を見て、一度だけ頷いた。「無事か」
「はい」
「記録できたか」
「しました」
彼は何も言わなかった。ただ、指輪をゆっくりと回した。それから、視線が私の手元の帳面へ落ちた。
「袖口の紐」と彼は言った。「議事に載せる」
「はい」
「もう1つある」
レオンハルトの声が、一段低くなった。私は顔を上げた。
「命令よ——」彼はゆっくりと繰り返した。「同じ言い回しを、今日の議場で聞いた」
私は息を呑んだ。
「誰、が」
「確認が要る」彼は言った。「だから今日は——まだ言わない」
廊下の奥で、護衛の一人が何か耳打ちをした。レオンハルトの表情が、わずかに変わった。
指輪が、もう一度、静かに回った。
連れられていったマリアンヌの手袋の内側に、封緘所員が気づいていた。
ラヴェンダの香が、残っていた、と——後で聞いた。
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