第4話 家の灯りが、怖いほど暖かい
馬車が止まった瞬間、玄関の扉が開いた。
橙色の光が、砂利の上に長く伸びた。その光の中に、見知った顔があった。実家付きの侍女、ティナだ。私が王宮に上がる前から仕えている、丸い頬と速い足の女。彼女は私の姿を見た瞬間、何か言おうとして、やめた。
「……お帰りなさいませ、セレーナ様」
その声が、思いのほか刺さった。
帰りなさいませ。5年ぶりに聞く言葉だった。王宮では誰も私にそう言わなかった。毒見役は帰らない。交代で休憩するだけだ。帰るべき場所が、あそこにはなかった。
私は風呂敷を抱えたまま、玄関の石段を上った。
「……ただいま」
口から出た言葉が、自分の声じゃないみたいだった。
ティナが風呂敷に手を伸ばした。「お荷物を」と言いかけて、帳面の硬い感触に気づいたのだろう、少し手を止めた。私は首を振った。これは自分で持つ。習慣だった。帳面だけは、人に預けない。5年間、ずっとそうしてきた。
玄関の中は暖かかった。
それが、最初の異変だった。暖かいはずなのに、肩が落ちない。温度が怖い、という感覚を、私はうまく説明できなかった。
湯殿の湯は深く、よく温まっていた。ティナが余計なほど薪を足したのだとわかった。
私は浴槽の縁に手をかけ、ゆっくり肩まで沈んだ。
湯が温かかった。温かすぎた。
5年間で忘れていた温度が、全部いっぺんに皮膚に戻ってきた。指先から始まって、手首、腕、肩。毒の残滓で感覚が鈍っていたのだろうか。それとも、ただ冷えていただけだろうか。どちらかわからないほど、私の体は自分のことを知らなくなっていた。
息が詰まった。
涙が出るかと思った。実際は出なかった。出せなかったのか、出す理由がわからなかったのか、どちらもかもしれない。ただ、喉の奥に何かが引っかかって、呼吸が少し浅くなった。
「……なんだ、これは」
声に出して、少し楽になった。
回復というのは怖いものだ。失っていたものが戻ってくる時、自分がどれだけ失っていたかを、初めてちゃんと知る。無事だと思っていた自分が、実はずっとどこかで傷ついていたと気づく。その落差が、温かい湯の中で一気に来た。
私は長く息を吐いた。湯気が顔にかかった。甘い香りがした。
次の瞬間、鼻の奥が止まった。
甘い、香り。
何かを混ぜたのか、とは思わなかった。思う必要がなかった。おそらく薬草だ。疲労回復のための入浴剤を、ティナが入れたのだろう。問題ない。でも私の鼻は、5年間の癖で、甘い匂いに反応してしまう。
ラヴェンダ。
廊下で聞こえた声が、耳の底で繰り返された。甘くて気づかれにくい、あの声。
私は首を振って、湯から上がった。
自室は5年前のままだった。
棚の位置。窓の向き。床板の軋む場所。全部、私が覚えているとおりだった。変わったのは、小さな花瓶に摘みたての白い花が挿してあることくらいだ。ティナが用意したのだろう。私が戻ることを、いつから知っていたのか。
夜着に着替えて、机に向かった。
風呂敷から帳面を出した。12冊、無事だ。馬車の揺れで乱れた順番を整えながら、私は3か月前の記録のページを開いた。
あの折り目が、また目に入った。
右上。私の折り方ではない。
ページをゆっくりなぞった。この日の記録は、私の字だ。間違いない。書き順の癖、インクの押し方。5年間、同じ筆圧で書いてきた。この字は私のものだ。でも――この折り目だけが、私のものではない。
「……丁寧だ」
声が出た。
奇妙なことに気がついた。そのページだけ、やけに丁寧に扱われている。他のページは端が摩れていたり、前後の頁と一緒に折れていたりする。でもあの日のページは、まるで1枚だけ特別に扱うように、そっと折られていた。ただ盗み読んだ者の所作ではない。内容を確認して、覚えて、戻した。そういう手つきだ。
小さな冷気が、背筋を通り抜けた。
帳面を狙う手があるとしたら、王宮の内側だけではない。誰かがすでに内容を知っている。そしてその誰かは――私が城を出た後も、私の手の中に何があるかを、知っている。
私は立ち上がった。
部屋の隅に、古い木箱があった。父の書類を入れていた箱だ。金具の錠前がついている。鍵は引き出しの中にあった。
帳面を全部、その箱に入れた。領収書の束も、一緒に入れた。鍵を閉めた。
鍵を手の中で握った。
王宮では、こんなことをしたことがなかった。帳面は手元に置いていた。枕元に、机の上に、腕の中に。でも今夜、初めて、私は帳面を「しまう」と選んだ。守ると決めた。奪わせないと思った。
扉のそとで、ティナの足音が遠ざかった。
静かになった部屋の中で、私は錠前の冷たさを確かめるように、もう一度、鍵を握った。
ページを丁寧に扱った手が、どこにあるのか、まだわからない。
でもその手は、王宮の中だけにはなかった。
帳面を狙う手が、もう城の外まで――実家のこの部屋のそばまで、伸びている。
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