第39話 原本が足りないのは、どちら
「原本を提出せよ」
会議が再開した瞬間、その声は議場の天井へ真っすぐに飛んだ。
母国側の席から立ち上がった男が、白手袋をはめた両手を机に置く。声に怒りはない。それが余計に重かった。怒っていない声で放たれた言葉は、感情で受け流せない。
私は息を止めた。
隣でレオンハルトが微動だにしない。視線だけが静かに議長席へ向く。その横顔を見て、私は帳面の背を一度だけ指で押さえた。角が揃っている。揃えすぎているほど、自分が怖がっているのが分かった。
「写しによる提出は、協定上の義務を果たしている。原本を要求する根拠を示されたい」
議長の声が低く落ちた。灰色の髪の男は書類を手元で揃えながら、感情のない目を母国側の男へ向ける。母国の男は一瞬詰まったが、すぐに続けた。
「写しに改竄の疑いがある場合、原本との照合は当然の権利だ」
疑い。
その言葉が喉の奥に刺さるのを、私は嚥下して押し込んだ。5年間、疑いの中で記録してきた。書けば書くほど、疑われた。それでも書き続けた理由を、今さら説明する気にはなれない。
レオンハルトが立ち上がる。
「では、疑いの根拠を議事録に残してください。どの記述が、何の理由で改竄と判断されるのか。具体的に」
刃だった。静かな刃。理由を出せと言うことは、出せないなら沈めという意味だ。
母国側が黙る。
レオンハルトが私の方を一度だけ見た。目が「今だ」と言っていた。
私はクラウスへ視線を向ける。彼は既に立ち上がり、両手で細長い束を抱えていた。赤紐が整然と束ね、割印が3箇所。封蝋は割れていない。その手順が「誰も触れていない」を無言で語っていた。
「外交文書として、議題への正式提出を申請します」
クラウスの声は落ち着いていた。胃が弱い男とは思えない声だった。
封緘所員が前に出る。黒手袋の指先で赤紐の端を確認し、割印を1つひとつ光に透かす。議場に音がなかった。私の心臓の音だけが自分の耳に届くような、あの静けさだった。書類が動くたびに、羊皮紙の乾いた摩擦音が室内に細く広がる。議長が顎を引いて見ていた。母国側は黙っていた。
「……封緘、異常なし。受領印を打ちます」
鮮明な、乾いた音。
印がひとつ落ちた瞬間、クラウスが密かに長い息を吐いた。私は見ていた。彼はすぐに真顔に戻ったが、その後でそっと内ポケットへ手を伸ばした。胃薬だった。レオンハルトが無言で卓上の水差しを引き寄せ、杯を彼の手元へ置く。クラウスが小さく頭を下げた。二人の間で何も言わずに完結した、静かな生活だった。
議長が書類を揃えて机を指で叩く。
「提出を確認した。以上、議事録に残す」
その言葉が、喉の奥に落ちた。議事録に残る。この場の事実が、公の記録に刻まれる。母国側が「なかったこと」にしようとしても、もうできない。
その瞬間、母国側から再び声が飛んだ。
「原本を要求する権利が我々にはある。協定に明記されているはずだ」
議長は顔を上げもしなかった。
「協定第7条を確認した。定期提出義務は写しでの提出と明記。原本の提出義務を定めた条文は存在しない。——原本の強制要求は、協定の解釈逸脱に当たる」
一拍の沈黙。
「つまり、今この場での要求は——協定違反だ」
冷たかった。声が刃として落ちるとはこのことだと、初めて実感した。法から降ってくる言葉は、感情で止められない。「詰み」だと思っていたこちら側ではなく、「詰み」はあちら側だった。
母国側の男が白手袋の指を揉んだ。それは、エドヴァルド殿下の癖と同じだと気づいたが、私は何も言わなかった。
レオンハルトが再び立ち上がる。
「原本を欲しがるのは、失くした者だけだ」
声は低く、短かった。それだけ言って、静かに着席する。
誰も反論しなかった。
私は手元の封緘束を目で確認した。そのとき、検分を終えた封緘所員の指先が、提出束の側面で一箇所だけ止まるのが見えた。光に透かしているのだと気づいた瞬間、彼の視線が束の縁でわずかに止まった。
蝋印だった。
3つ並んだ封蝋のうち、右端の1つだけ型が違う。他の2つは議場規定の現行型だ。ところが右端だけ、縁の彫りが浅い。古い鋳型で押した痕。現行型が普及する前に使われていた型だった。
封緘所員は何も言わなかった。それが余計に、目の端に刺さった。
母国側が提出した書類の束にも、同じ型の蝋印が1つあったことを私は覚えていた。今朝、着席前に目で追っていた。型が古い。なぜ、と思って、理由を言葉にできなかった。今もまだ、理由は分からない。ただ、型の違いだけが、また静かに増えた。
議長が全員を見渡した。
「本提出を議題に載せる。——議事録に残す」
審議が終わった。
廊下に出ると、会議場の喧噪がすぐに遠くなった。石の壁が音を吸う。足が震えているのに、歩けているのが不思議だった。靴底から石床の冷気が伝わってくる。5年間、膝をついていた床も、いつもこの温度だった。
レオンハルトが隣に立った。距離が近い。私は前を向いたまま、なんとか息を整えようとした。
「——怖かった」
声が出てしまった。
言うつもりはなかった。でも、出た。廊下の石床を見ながら、自分で少し驚いた。
レオンハルトが何も言わない。一拍の沈黙のあと、彼の手が私の手の上に重なった。指を包むような触れ方ではなく、ただ、重ねるだけ。動かない。離れない。
「……この一冊は、5年分の私です」
私は帳面の角を揃えながら、続けた。
「奪えません」
「分かっている」
彼の声は低くて、短くて、それだけだった。手は、離れなかった。
私は帳面の背に指を添えた。角が揃っている。今日は、少しだけ不安が弱かった。
その時だった。
封緘所員が廊下の角から現れた。黒手袋の指先を揃え、まっすぐ私たちのほうへ歩いてくる。足音が石床に小さく響いた。立ち止まり、声が低く、事務的に落ちた。
「——提出束、1度だけ開けられた痕があります」
廊下の冷気が、一段階下がった気がした。
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