第38話 席次が、逃げ道を塞ぐ
会議場の入口は、想像よりずっと狭かった。
石造りのアーチ、両脇に立つ係員、礼装の最終確認を行う低い机。正式な国際会議の入場には、服飾の申告まで必要だと初めて知った。書類の束を抱えたまま列に並びながら、私は3歩先の扉をじっと見た。扉の向こうに議場がある。議場の中に席次がある。席次の中に、私の名前がある。
昨夜、席次表を確認したときの感覚がまだ手に残っていた。前列、右から4番目。提出者の欄に印刷された「セレーナ・ヴォルマー」の文字の横には、小さな墨の点が打たれていた。意味を係員に問えなかったのは、問う前に手が震え始めたからだ。
「少し、よろしいですか」
隣でミレイユが無言で手を伸ばしてきた。髪留めだった。きつく締めすぎていたらしい。指先が当たると同時に、じわりと頭皮の圧が緩む。
「……ありがとう」
「呼吸してください。浅くなっています」
ミレイユが言う。感情のない声だが、正しい。私は肺の底まで息を吸い込んだ。礼装のコルセットが肋骨を押す。それでも、少しだけましになった。
前の列がゆっくり動く。入場が始まっていた。
議場は広かった。
天井が高く、採光窓が左右に並んでいる。床に敷かれた紺の絨毯の上に、弧を描くように机が配置されていた。すでに着席している者の半数が、入口から入った私たちを見た。正確には、私を見た。
母国の席が正面右側、入口から見て最も視線の通る場所にある。白手袋の侍従たちが並ぶその後ろに、エドヴァルド王太子の金茶の髪が見えた。殿下はまだこちらを向いていない。見ていないのか、見ていても顔を向けないのか、私には判断できなかった。
「提出者代表のご入場を——」
係員の声が響いた直後だった。
「お待ちください」
母国席から立ち上がった人物がいた。白い礼服に銀の胸章。記憶にある顔ではなかったが、声に力があった。
「提出者の中に、外交資格のない者が含まれているとお聞きしました。席次の再確認をお願いしたい。とりわけ——毒見役の扱いについては、後列が適当かと」
議場がざわついた。
喉の奥に何かが詰まる感覚があった。後列。その言葉が体に刺さった場所を、私は数えた。5年前の謁見室、解任の朝の廊下、春に届いた一枚の辞令。同じ感覚だった。後ろに下がれ。お前の場所はそこではない。
だが。
「その点については、席次表をご確認ください」
進み出たのはクラウスだった。眼鏡の奥の目が真っすぐ係員の机を指している。
「封緘提出者として登録された者には、会議規定第9条により前列資格が付与されます。——こちらが原本、こちらが控えです。墨印は事務局の確認済みです」
係員が書類を受け取り、素早く確認する。低い声で何事かをつぶやき、隣の同僚に渡す。その間、誰も口を開かなかった。
私の名前の横に打たれていた小さな墨の点。昨夜、意味を問えなかったその点が今、事務局の印だったのだと理解した。席次表に記された私の位置は、「押し込まれた場所」ではなかった。提出者として正式に前に出た、という記録だった。
白い礼服の男が口を一度開け、閉じた。
「……承認します」と係員が告げた。「提出者代表、前列へどうぞ」
前列の椅子は、背もたれが高かった。
近づいたとき、隣でレオンハルトが椅子を引いた。音が小さかった分、動作が目立った。議場の視線が集まるのを感じた。マリアンヌらしき人物の扇が動く気配、母国側から漏れる低い笑い声、第三国席の人物が何かを手元に書き留める音。
逃げたかった。
後ろに下がって、前列から離れて、壁際で息を潜めてしまいたかった。その衝動は本物だった。この5年間で何度も繰り返してきた、反射に近い欲求だった。
「怖い?」
レオンハルトが低く言った。昨夜の言葉と同じ問いだった。
私は椅子に手を置いた。背もたれの角が冷たかった。
「……後ろに下がるのは、慣れています」
少し間を置いた。議場全体の視線が、まだ私たちに向いていた。
「でも——今日は違う」
椅子に座った。姿勢を正した。帳面を膝の上に置き、その角を指先でそっと揃えた。
レオンハルトが隣に着席した。彼は何も言わなかったが、椅子と椅子の間の距離が、ひとつ分だけ縮まった気がした。
開幕の宣言が議長から告げられた。
灰色の髪、低い声。第三国の議長は紙を1枚手に持ったまま、全体を見渡して短く言った。
「本日の会議を開始する。議事の進行、記録、発言の順序は事務局の指示に従うこと。以上を確認した」
クラウスが隣で小さく息をついた。——と思ったら、上着の内ポケットから何かを取り出した。薄茶色の小瓶だった。胃薬だと、もう知っている。
「薬の持ち込みは申告が必要です」
どこからともなく係員の声が飛んだ。
クラウスは一瞬固まった。それから眼鏡を少し直し、懐から別の紙を取り出した。申告書だった。あらかじめ用意していたらしい。真顔で記入欄に何かを書き始めると、隣の係員が「……記入方法はこちらです」と別の用紙を差し出した。クラウスが受け取り、無言で2枚を見比べている。
ミレイユが私の耳元で小さく言った。
「定時に終わるか心配です」
私は笑いを噛み殺した。
最初の議題が提示されて、しばらくたったころだった。
休憩前の最後の議題に差し掛かったとき、白い礼服の男が再び立った。今度は声の質が違った。刺を落とすような、低い確認だった。
「提出物に関連して、確認させていただきたい。——当該提出者は、原本を持ち込んでいるのか?」
議場が静まった。
原本。
その言葉が落ちた瞬間、私は封緘された書類束の重さを指先で感じた。机の上に置かれた束の表面には、赤い紐と割印、封蝋が揃っている。提出者の身分証と合わせて、昨日の夕方にクラウスが確認した。その封蝋を無意識に目で追いかけたとき、違和感があった。
母国側が突き出してきた書類の端に押された蝋印。型が古い。私が記録してきた外交文書で使われる型とは、字体の細工が違う。誰の意図で、その型が使われているのか——今は分からない。ただ目だけが追った。手元の紙に、余白が残っていた。
「その問いには」
レオンハルトが立った。
私より一呼吸遅れて。いや、私が緊張で動けなかった間に、彼が動いていた。
「提出者の代表として答える。封緘提出物の内容については、封緘所の立会いのもと、明日の正式提出をもって議事に示す。——それ以上でも、それ以下でもない」
白い礼服の男が何か言いかけた。
「異議があれば」と彼が続けた。「議事録に残せ」
声は穏やかだった。だから余計に重かった。その言葉が議場の空気を鎮めた。何人かが手元に書き留める音がした。母国側の誰かが、小声で何かをつぶやいた。エドヴァルド王太子の横顔がわずかに動いた気がしたが、確認できなかった。
白い礼服の男が着席した。
議場に静寂が戻った。
私は手元の余白に、今見た蝋印の型を細い文字で書き留めた。誰にも見せない、自分のための記録。それだけが今、確かだった。
休憩の鐘が短く鳴った。
議場に人が動き始める。ミレイユが水の入った器を持ってきてくれた。私は受け取りながら、先ほど書き留めた文字を指先で軽く押さえた。
「原本がない写しに、なぜ国が怯える?」
声ではなく、心の中で問いが生まれた。
持ち込んでいるかどうか、聞いた。つまり、写しだけでは何かが——まずい。
その問いはまだ答えを持っていなかった。だが確かに、今日の議場に落ちた。そして私の帳面の余白に、静かに刻まれた。
会議を割る何かが、明日を待っている。
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