第37話 鐘が鳴るまで、戻れない
会議場のロビーに、私の名前があった。
席次表は縦2メートルほどの羊皮紙で、金縁の額に収められ、正面玄関の壁に貼り出されていた。参加者の名と肩書が整列している。見上げた瞬間、心臓が冷えた。
セレーナ・ヴォルマー 記録官/浄化役 アルヴァス宰相府付属
3列目の中央。逃げ場のない位置だった。壁際でも後方でもなく、議場全体の視線が自然と集まる場所に、私の名はある。名前の横に、小さな墨の点が打たれていた。席を動かせない印だと、クラウスが昨晩教えてくれた。
「確認できましたか」
隣で書類の角を揃えていたクラウスが、眼鏡の位置を直しながら言った。
「はい。……目立ちますね、あの位置は」
「目立てばいい。目立たなければ、議事に存在しなかったことにされます」
それは正論だった。正論だったが、胃に重かった。クラウスはそれ以上何も言わず、控えの束をまた1枚確認した。
ロビーの奥から、正装を纏った官吏たちの声が流れてくる。母国の紋章を胸に付けた一団が入口から入ってきて、私の方を一瞬見た。見たというより、値踏みした。その視線の重さを、私は知っている。謁見の間でも、宮廷の廊下でも、何百回と感じてきた。
帳面の背を、指で撫でた。
やめた。癖が出るのは、不安が強いときだ。
*
準備室は会議場の南棟にある、採光の悪い小部屋だった。机の上に写しの束を広げ、私は備考欄を端から読んでいた。
問題は、消えた記録ではなく、残った記録にあった。
本来、備考欄は短い。「問題なし」か、せいぜい数字と品名の補足だ。だが、特定の月の欄だけ、記述が増えていた。書いた者が違う。字の癖が違う。訂正の跡の入り方が違う。消したはずの痕跡が、却って輪郭を作っていた。
「……消えたのは文字じゃない」
呟いた瞬間、思考が一歩進んだ。
「手です」
誰かが触った。写しを整える段階で、何者かが備考欄を書き足し、あるいは削った。その手の癖が、今、私の目の前に残っている。欠落は弱点ではなかった。欠落は、触った者の指紋だった。
帳面を開き、気づいた点を書き留めた。感情より手を動かすのが先だ。それだけは、5年間で身についた。
*
封緘机は準備室の奥に置かれていた。幅のある作業台で、赤紐と割印と封蝋が3列に並んでいる。クラウスが資料の束を揃え、私が端から確認し、レオンハルトが封緘の順を指示した。
3人の間に余計な言葉はなかった。
赤紐を通す。割印を押す。封蝋を垂らし、印章を当てる。1工程ずつ、手元だけが動いた。
ミレイユが水差しを持って入ってきたのは、その途中だった。
「セレーナ様、正装の締め上げは定時退社に不利です。緩めますか」
3人の手が止まった。
「今は封緘中です」とクラウスが言った。
「存じています。提出後に緩める時間がないと申し上げています」
レオンハルトが、わずかに表情を動かした。笑ったのではない。ただ、表情の固さが一瞬だけ解けた。
「終わったら頼む」
「承知しました」
ミレイユは水差しを置いて出て行った。作業が再開する。クラウスの指が次の書類の角を揃えた。
私は封蝋を確認しながら、胸の緊張が少しだけ薄れたことに気づいた。緩んだわけではない。ただ、緊張の色が変わった。怖いのではなく、集中している、という感覚に。
*
控室への廊下で、レオンハルトと2人になった。
クラウスは封緘済みの束を提出窓口へ持っていった。ミレイユはどこかで正装を確認している。気がついたら、廊下に私たちだけが残っていた。
石造りの天井が低い。窓の向こうに曇り空が見えた。開幕まで、あと半刻もなかった。
「怖い?」
唐突な問いだった。
答えを探した。探す前に、口が開いていた。
「はい」
言ってから、また少し驚いた。承知いたしましたと言い続けた5年間と同じ反射だが、今日の「はい」は意味が違った。問われたから答えた。それだけだったが、それだけで充分だった。
レオンハルトは頷いた。近づいてくるわけでも、何かを言うわけでもなかった。ただ、廊下の端で立ったまま、離れなかった。
その離れないという事実が、言葉より重かった。
指輪を回す仕草が見えた。ゆっくりと、考えるときの癖だ。私はそれを知っていた。
「鐘が鳴ったら、守るのは私じゃない」
彼が言った。
「——君の記録だ」
返す言葉が見つからなかった。見つからないまま、私は帳面を胸に抱えた。革の表紙が手のひらに馴染む。角が揃っているほど不安が強い、と自分でわかっている。今は揃えていなかった。それだけのことが、少し、誇らしかった。
*
廊下を抜けると、ロビーの向こうに会議場の扉が見えた。
クラウスが戻ってきた。ミレイユが斜め後ろに続いた。4人で、扉の前に立った。
その瞬間だった。
遠い鐘楼から、低く重い音が響いてきた。1つ。
間をおいて、2つ。
会議場の扉番が、外側から把手を掴んだ。
3度目の鐘が鳴る前に、扉番が振り返って告げた。
「——提出は、鐘が三度鳴るまでに。以上が規定です」
3度目の鐘は、まだ来ていなかった。
三度という数字が、喉の奥で重くなった。2度目の音がまだ空気の中に残っているうちに、私は扉へ向かって歩き出した。
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