第36話 並ぶと決めたのに、声が出ない
正午まで、あと2時間だった。
「赤紐は2重。封蝋は印面が冷える前に押さえる。順番を間違えると割印が浮く」
クラウスの声が机の角にぶつかって折れる。宰相府の封緘机は、それ自体が1つの戦場だった。割印、赤紐、封蝋の順。手順が勝敗になる、とクラウスはゆうべから言い続けていた。
私は提出束の端を揃えた。革表紙の帳面を膝の上に置き、指で角を確認する。綺麗に揃っている。不安の量だけ、私の手はこれを繰り返す。
「セレーナ」
レオンハルトが私の手元を一度だけ見た。それ以上は言わなかった。
それで十分だった。
手を止めた。
封蝋の小鍋が火にかかり、蜜蝋の甘い匂いが部屋に広がる。クラウスが赤紐の束を解こうとして、指が滑った。レオンハルトが手を伸ばし、紐の端を引き取る。が、結び目がどうにも形にならなかった。指が長い分、余りが出て不格好になる。
「……そちらではなく、こう引きます」
私は思わず手を添えた。紐の端を2本、親指で押さえ、回す角度を修正する。指先が彼の指の側面に触れた。
1拍、止まった。
2人とも、止まった。
「宰相、仕事です」
クラウスが素っ気なく言い、視線を窓に逃がしながら咳払いをした。
私は紐を引いて、結び目を押さえた。手は動いていた。指先だけが、まだ熱かった。
商会側の控室は、ラヴェンダの香りが濃かった。
オデットは今日も笑顔だった。香袋を指で揉みながら、「もう済んだ話では」と言う。口が先に動くのが彼女の癖だと、私はもう知っていた。
私は机の上に、1枚の紙を置いた。
線が引いてある。点と点を結んだ、取引の流れ。商会印が欠落した箇所を、受領控えの割印と並べると、線は途切れずに続いていた。
「欠け方は、隠せません」
オデットの指が止まった。香袋が落ちそうになり、拾い直す。笑顔の口元だけが、少し遅れた。
「……これが、うちに何の関係が」
「関係を言ったのは、私ではありません」
私は言い訳の出どころだけを待った。
オデットは3度、口を開いた。3度とも、言葉が言い訳の順番を踏んだ。荷の受け取りが先で、伝票が後で、確認が次で――その順番が、取引の流れそのものだった。
口が動くほど、線は正解になる。
私は紙を回収した。帳面の革表紙を一度だけ撫でた。指先は、落ち着いていた。
提出窓口の前廊下は、人の流れが多かった。
クラウスが先に進む。受領係の机の前、提出束を抱えた私の横に、レオンハルトが並んだ。守るためではなく、ただ、横に立つように。
私は一歩、前に出た。
「私を隠さないで。……私が、ここに立つ」
声は小さかった。が、彼には届いていた。
彼は何も言わなかった。ただ、後ろには下がらなかった。
それが答えだと、私には分かった。
窓口のルークが提出束を受け取り、割印の位置を確認する。インクで黒ずんだ指が、束の端で一度止まった。インク台を拭く仕草が出る。時間を稼いでいるのか、確認しているのか。どちらでも良かった。束は正規の手順で揃えてある。
受領印が、下りた。
印が押された瞬間、クラウスが声を上げた。
「……これ、誰が」
受領印の横、余白に細い訂正跡があった。昨日の確認では、なかった箇所だ。提出後に増えた。誰かの手がまだ動いている。
私は束を受け取り、訂正跡の位置を目で測った。筆圧が、深い。力の癖が、ある。この手は知っている、と体が先に言った。
「後で照合します」
声が出た。自分でも少し驚いた。震えていなかった。
レオンハルトが横を見た。私は彼を見返した。
言葉は、出なかった。出ない、と分かっていた。それでも、横に立っていた。
私室に戻ったのは、窓の光が橙に傾く頃だった。
提出束は、クラウスが記録棚へ運んだ。終わった。とりあえず、今日は終わった。
レオンハルトが椅子の背に手を置いた。私は机の前に立ったまま、帳面を閉じた。角を揃える。1度、2度。指が止まる。
彼の手が、机の端で私の手のそばに置かれた。触れていない。ただ、近い。
「君が怖いのは、言葉だろう」
低い声だった。
「――なら、今日も言わない。……ただ、離れない」
私は帳面の角から指を離した。
言葉が出ない。出ないのに、涙が出そうになる前に飲み込む。飲み込んだ分だけ、彼の手の近さが、温度になった。
並ぶ、と決めていた。今日、それだけはできた。
その事実が、言葉より先に胸にあった。
クラウスが扉を開けて入ってきたのは、それから少しして、だった。
手に、1枚の紙を持っていた。
「受領印の横に、これが挟まっていました」
受け取ると、会議の席次表だった。
視線が一点に止まる。
会議席の配列に、私の名前があった。逃げ場のない位置に、逃げられない文字で、セレーナ・ヴォルマーと記されていた。
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