第35話 味方の中に、影はいるの
夜間帳から落ちた赤い繊維を、私はつまんで灯りに近づけた。
細い。封緘所で使われる赤紐の太さと同じだ。切り口が鋭く、刃物で断ったものだとわかる。引きちぎった繊維とは形が違う。意図的に切った誰かが、この帳面に触れている。
「封緘所の夜勤控室を当たります」
クラウスが言った。断言だった。提案でも相談でもない。
「明朝、夜番が上がる前に」
「私も行きます」
彼が1拍止まった。止まった後、頷いた。
翌朝、まだ薄暗い時刻に封緘所の裏口へ回った。夜番が引き継ぎを終えてすぐの時間を、クラウスが調べていた。控室の小卓に赤紐の束が置かれていた。検品待ちのものらしく、何束かが並んでいる。ルークが扉の脇で腕を組んでいた。
「規定外です。控室への立入は――」
「赤紐の結び方を確認させてください。1本だけで構いません」
私の声は静かだった。怒鳴っていない。脅してもいない。ただ、引かなかった。
ルークの目が、束の方へ動いた。動いたことを、自分でも気づいていないかもしれない。
「……1本だけ、なら」
彼が1束を抜き、渡した。インクで黒ずんだ指先が、一瞬だけ躊躇した。
私は紐を受け取り、結び目を確かめた。昨夜、夜間帳から出てきた切れ端と並べて見る。クラウスが灯りを傾けた。
同じだ。紐の素材、太さ、色。封緘所の正規の紐に間違いない。
でも――締め方向が違う。
夜間帳の切れ端は左から巻いている。控室の束は右から巻かれている。同じ結びに見えて、手が違う。
「教えは同じでも、巻き方の癖は手で変わります」
クラウスが低い声で言った。私に言ったのか、自分に言ったのか、わからない。
ルークが微かに息を吸った。
「……控室の紐は、全員同じ結びを使います。規定です」
「その規定を、全員が同じ方向で覚えたとは限らない」
私がそう言うと、ルークの視線が床に落ちた。拒否ではない。落ちた先を、自分でも探している目だ。
「夜間帳に触れる権限のある人間は何人ですか」
「……3人です」
それだけ言って、彼は口を閉じた。これ以上は言わない。言えない。でも3という数が、輪郭になった。
宰相府へ戻ると、私は記録棚の前に立った。
提出束の写しを棚から引き出し、余白を確認する。何度も確かめてきた訂正跡を、今度は別の視点で見る。押し跡の深さ、訂正の字の傾き。重ねると、誰かの輪郭が見えてくるはずだ。
訂正された文字の筆圧を指の腹で確かめた。革表紙の角を揃えるより深く、息を止めて確かめた。
1箇所だけ、押し跡が違う。他より1段深い。右利きで腕を固めて書く癖。急いでいたか、緊張していたか。それとも、慣れた仕事ではない場所で書いたか。
夜間帳の切れ端を残した手と、この筆圧が同じかどうか、今はまだわからない。でも封緘所の夜勤にアクセスできて、提出束の余白に触れる機会がある人間は、そう多くない。
外からではなく、内側から伸びた手だということだ。
そのことが、ずっと胸の底に引っかかっていた。
廊下で、クラウスが私の後ろで立ち止まった。人気がない。石の壁が音を吸う。
「クラウス」
私は振り返らずに言った。
「宰相府の内側で、提出束の余白に触れる機会のある人間を――昨夜から、一人、疑っています」
沈黙があった。長い沈黙ではない。でも答えが来るまでの間、私は続けた。
「信じたい。……だからこそ、確かめます」
クラウスが、後ろで長く息を吸った。
「君がそれを言えるなら」
声が低く、でも確かだった。
「この章は勝てる」
それだけだった。頷く音も、歩き出す音も、続かなかった。ただその言葉が、石の廊下に静かに残った。
侍女室の扉を開けると、湯気があった。
ミレイユが薬草湯の小鍋を火にかけていて、私を見た瞬間に表情も変えずに椅子を引いた。
「座ってください。顔色が紙です」
「少し考えていただけで――」
「紙です」
反論の隙がなかった。椅子に座ると、湯気が顔に当たった。薬草の匂いが、肺まで届く気がした。
ミレイユが卓の脇に小さな赤紐を置いた。手元に巻いてあったものらしい。
「参考までに」
彼女が結び目を作ってみせた。左から巻き、右に締める。手際がいい。
「これが私の結び。……恋人には向きません」
真顔だった。完璧に真顔で言った。私は湯飲みを持ったまま止まった。
「……なぜ」
「固くて外れません。最後まで」
それ以上の説明はなかった。私は返事を失い、湯飲みだけを飲んだ。温かかった。胃の底まで届いた。
「疑うのも仕事です。飲んでから」
ミレイユが砂時計を卓に置いた。砂が落ち始める。彼女の砂時計はいつも正確で、容赦がない。
私は湯飲みを両手で包んだ。革表紙の角を揃えたくなる不安が、今夜はなかった。疑う対象が絞れてきたからか、それともここの湯気が理由か、自分でもわからない。
でも、疑うことと信じることは反対ではないのだと、今夜初めて少しだけわかった。
翌朝、クラウスが執務室の扉を開けるなり言った。
「正午までです」
私とレオンハルトが同時に顔を上げた。
「提出束を改竄不能な形で封緘して提出窓口に入れなければ、会議の席次が確定しません。担当書記の判が正午で締まる」
彼が机に封蝋の道具を置いた。赤紐の新しい束が、その隣に来た。
「遅れれば――会議席が消えます」
消える。
取引網の経路をここまで辿ってきた。デュボワ家の影まで線が届いた。なのに封緘が間に合わなければ、会議の席がなくなる。証拠は揃っても、届ける場所が消える。
私は革表紙の角を指で揃えた。揃えてから、手を止めた。
不安からではなく、始めるために揃えた。
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