第34話 口の悪意と、手の証拠
ミレイユが紙を持って入ってきた時、私はまだ昨夜の割印を眺めていた。見覚えがない。1晩たっても変わらない。誰かがこの机に触れた。その事実が、指先から抜けない。
「セレーナ様。……茶会で配られていたそうです」
差し出された紙を受け取る。丸めかけたまま止めた形に、彼女の気持ちが出ていた。
広げると、「誓約破りのスパイ」という文字が、活字で中央に印刷されていた。私の名前の横に。
手書きではない。印刷する道具と手間をかけた悪意だ。茶会が終わる前から、もう市井にも回っている。口だけが先に走っていた。
「証拠袋に入れてください」
「……はい。丸めようとしたんですが」
「ゴミ箱ではないと言われましたよね」
ミレイユが笑えない顔のまま、小さく息を吐いた。それでも袋に収める手は速い。慣れてきている。慣れさせてしまっている、と思ったが、言わなかった。
「今日、他に何枚ありましたか」
「茶会の後だけで4枚。市井からの報告が3枚。……合わせて7枚です」
7枚。半日で7枚。明日の朝には倍になっているかもしれない。
私は昨夜の割印に、もう1度目を落とした。怪文書と、見知らぬ印と、燃え広がる噂が、同じ時間帯に動いている。偶然で重なる数字ではない。革表紙の角を、指先でそっと揃えた。
市井へ出ると、同じ紙が石畳に落ちていた。
クラウスが先を歩きながら拾っている。踏まずに避け、証拠袋へ入れる。1枚、2枚。3枚目を私が拾った時、彼が振り返った。
「広がる速さが、問題です」
「そうですね。でも――」
私は拾った紙の端を、指の腹で確かめた。厚い。官製の用紙に近い手触りだ。市中で安価に手に入るものではない。指先にかすかな匂いが残った。ラヴェンダではない。もっと乾いた、どこかで嗅いだことのある匂いだ。香料商会の帳場でも、受領控えの紙束の周りでも、1瞬だけ混じっていた。
「……紙が増える、ということですよね」
クラウスが1拍止まり、私の方を見た。頷きはしない。でも否定もしない。
紙が増えるということは、比較できるものが増えるということだ。悪意がばらまいた怪文書が、今ここで証拠の候補になっている。噂が燃えるほど、比較材料が配られてくる。その逆転が、まだ言葉にならないまま指先に残った。私は証拠袋の口を指で押さえた。
「後で机に並べます」
「はい」
それだけ言って、クラウスは歩き続けた。言葉にしなくても、見えている形が同じなら、それで足りる。
宰相府に戻り、机の上に3種類の紙を並べた。
左から順に。今日拾った怪文書。受領控えの端紙。納入札の写し。
私は3枚の端を指で揃えた。革表紙の角を揃える時と同じ動作を、今は紙でやっている。
「質感が近い」
クラウスが小声で言った。
「官製の厚みです。民間では出回りにくい。そして――」
彼の指が、怪文書の余白に当たった。私は顔を近づけた。
細い訂正線があった。1文字だけ、丁寧に書き直してある。訂正の字は整っている。でも――筆圧が、元の文字より明らかに深い。力が入っている。焦っていたか、あるいは慣れた手ではない何かが、ここで滑った。
受領控えの余白に残っていたあの訂正跡と、同じ癖だ。
「……同じ手かもしれない」
「断定はまだです」
「はい」
私は紙から目を離さなかった。噂が燃えれば燃えるほど、紙が増える。紙が増えるほど、比較の材料が増える。
逆転している、と思った。私の評判を傷つけるために配られた紙が、今この机の上で証拠になろうとしている。向こうが武器を配ってくれている。怖くないとは言えない。でも、戦える形が見えてきた。
受領控えの端紙の隅を、もう1度だけ確かめた。ごく細い赤い繊維が1本、端に貼りついている。証拠袋の外から見えている。あとで確認する、と思いながら、指を止めた。
夕刻前の回廊で、レオンハルトと行き合った。
人目が少ない角で、彼が声を下げた。怒っていない。けれど表情が、いつもより硬い。
「怪文書を見た。……今の状況で君が表に出るのは得策ではない。提出まで私が代わりに動く」
「レオンハルト様」
遮るつもりではなかった。声が先に出た。
「私の評判を燃やすなら、燃やしてください。……灰は、記録になります」
彼の目が止まった。政務の目ではなかった。何かを測るような、珍しい静けさがある。
私は続けた。声は落ち着いていた。落ち着いていたことに、自分でも少し驚いた。
「私が隠れるほど、噂の声だけが残ります。でも私が出れば、そこに証拠が並べられます。……どちらが勝ちますか」
沈黙が来た。長い沈黙だった。
レオンハルトが長く息を吸い、ゆっくり吐いた。吐き終わった後、声が1段下がった。
「君の名を汚すな」
命令の形をしているのに、音の奥に別のものがある。怒りでも叱責でもない、もっと重い何か。
「――それだけは、命令だ」
私は頷かなかった。頷けば、引き下がることになる。反論もしなかった。今は必要ない。
彼の指先が、誓約印の指輪をゆっくり回した。言葉を飲み込む時の仕草だ。私はそれを見て、自分の手が革表紙に触れていないことに気づいた。不安ではないからだ。
1歩だけ前に出て、彼の横に並んで立った。
回廊の風が、静かに2人の間を通り過ぎた。それだけだった。それで充分だった。
夜になり、クラウスが封緘所の夜間帳の写しを持ってきた。
「念のため確認しておきたかったので」
机の上に置かれた帳面を、私は開いた。受領記録、封緘記録、夜勤の引き継ぎ欄。日付を遡って確かめていく。今日拾った怪文書の紙質が、どの時期に調達されたものなのか。そのためには、封緘所と商会の接点を日付帯で照合する必要があった。
ページを捲った手が、止まった。
受領欄の端に、紙が1枚挟まっていた。引き抜くと、ごく細い繊維が1本、落ちた。
赤い。
封緘所の赤紐の色だ。本来、帳面に挟まるはずのないものだ。
「……クラウス」
声が出た。クラウスが覗き込み、息を1度だけ止めた。レオンハルトが灯りを近づける。赤い繊維が、灯りを受けて鮮明になった。
切れ端だ。誰かが紐を切り、ここに挟んだ。あるいは挟まったまま、気づかずに去った。
夜間帳の中に、封緘所の赤紐の切れ端。
封緘所の内側から伸びた手が、今夜ここまで届いている。
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