第33話 この線の先に、誰がいる?
机の上には、昨夜から動いていない地図がある。
正確には地図ではない。受領控えの写しを並べ、糸で繋いだだけの紙の束だ。それでも商会から倉庫、倉庫から封緘所へと走る経路は、誰かの意図をはっきりと描いていた。――1箇所を除いて。
「ここが詰まってます」
クラウスが朱で丸を描いた箇所を、私は指先でなぞる。革表紙の角を揃える手を止め、その丸に集中する。納入札の束に本来あるはずの商会印が、この点だけ抜け落ちている。抜け落ち方が、あまりに綺麗だった。
「事故ではなく、抜かれた」
「断定はまだです」
クラウスの言葉は短い。でも声が低いということは、彼も同じことを考えている。
「……商会へ行きます」
「宰相はすでに外で待ってます。気をつけて」
胃薬の小瓶が、朱の丸の横にそっと置かれた。
香料商会の帳場は、入り口からラヴェンダの香りが濃かった。
甘く、厚い。それ自体は珍しくないが、この強さは作り物に近い。誰かが何かを隠している時の匂いだと、毒見役をしていた頃に覚えた。
帳場を切り盛りするオデットが、私たちを見て笑顔を作る。指輪の商会印がちかりと光った。
「お茶でもどうですか。遠いところをわざわざ」
すすめられた椀は砂糖の匂いが強烈で、私は思わず息を止めた。顔に出た、と思った瞬間、横からレオンハルトが無言で椀を取り、一口含んだ。
真顔のまま、静かにむせた。
クラウスが胃薬を机に置いた。音が静かだったので、オデットだけが気まずそうに笑った。
「――帳簿を見せてください」
私が言うと、オデットの笑みが薄くなった。
「帳簿? 開けませんよ、規定ですもの。番頭がいない日は触れないきまりで」
「わかりました」
私は頷く。そして続ける。
「では、納入札の束だけ」
沈黙が落ちた。オデットの指先が香袋を探すように動く。見つからないことに気づいて、代わりに机の端を押さえた。
「……納入札も、整理中で」
「整理の途中でも構いません。今ここにある分だけ」
レオンハルトが一歩前に出る。言葉はない。立っているだけだが、それで十分だった。
オデットの目が机と私の間を往復した。
「……少し、待ってください」
出てきた束は薄かった。
私はそれを受け取り、一枚ずつ押し跡を確認する。商会印が入っているもの、欠けているもの。欠けているものが、2枚ある。どちらも同じ月の同じ旬に集中していた。
偶然で重なる数字ではない。
「欠け方は隠せません」
オデットが口を開こうとして、止まった。
「欠けた? それが何だって言うの」
「欠けた位置が揃っています。……揃えた、ということです」
オデットの視線が逸れる。香袋が袖から出てきた。揉む指先が少し速い。
私はそれ以上、何も言わなかった。言わなくて済む形に、すでになっている。
「名を言うな。まだだ」
帰り際、レオンハルトが私の隣で低く言った。「証拠が、先に言う」
私は頷く。頷きながら、手の中の納入札の写しをもう一度確認する。欠け方の形が、地図の丸の中にきれいに収まった。
荷捌き場では、クラウスが下働きの男たちと話していた。私とレオンハルトが合流した頃には、もう終わっていた。
「面白いことがわかりました」
クラウスの声は抑えられている。
「荷の運び順は、毎回変わる。でも1人だけ、同じ順番で動く手があるそうです。それが変わらない理由を、本人たちは知らない。教えられてないから」
「……内側の人間だ」
私が言うと、クラウスは一度だけ視線を向けた。頷きはしない。でも否定もしない。
「藁の荷が1束、香りが違います。確認しましたか」
私が訊くと、クラウスは首を振った。
「しました。ラヴェンダ。かなり強い。あの帳場と同じ濃度です」
荷が動いた経路と、欠けた納入札の位置が重なる。点が線になり始めた。線の先に、まだ名前はない。でも形はある。指示を出せる立場。取引の順番を知っている人間。商会の帳場が逆らえない何か。
デュボワという名前が、頭の端を一瞬よぎった。
私はそれを、口には出さなかった。
夜の橋の上は風が強かった。
クラウスは先に戻り、私とレオンハルトだけが並んで立っていた。川の音が会話の代わりになっている。
「寒くないか」
彼が言った。政務の声ではない、少し下がった温度の声だった。
「寒いです」
正直に答えると、彼が一拍止まった。
「……帰ろう」
「はい」
そこで私は、胸の奥で燃えているものに気づく。
今日一日、私たちは踏み込んだ。守られてではなく、並んで。帳場でも荷捌き場でも、私は前に出た。それが嬉しかった。それが、こわかった。
嬉しいということは、また明日も前に出たいということだ。
私は怒っていなかった。怒る手前の、もっと柔らかいものが喉にあった。それを飲み込むと、かわりに手が少し震えた。
橋の手すりを掴む。
レオンハルトがそれを見た。何も言わなかった。でも歩く速度が、私に合わせて緩んだ。
執務机に戻ると、クラウスが待っていた。
机の上に、一枚の紙がある。
受領控えの写し。……昨日、私たちが確認したものだ。でも角の割印に、見覚えがなかった。
私は革表紙を両手で押さえる。指先が冷たい。
「これ、誰が」
クラウスは答えない。代わりに、目を細める。
「見覚えのない印が、今朝ここにありました。……誰かが、触っています」
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