第32話 朝までに一つ、答えを
砂時計が、半分まで落ちていた。
小会議机の上に置かれたそれは、クラウスが無言で反転させてから一度も動かしていない。砂の細い流れだけが、時間を残す。夜が明ければ、封緘所の受領窓口に別の件が積み重なる。夜明けまでに1枚押さえなければ――昨夜の馬車の中で、その計算は終わっていた。
「やることは1つです」
クラウスが地図を机に広げた。地図とはいっても、彼の手書きの走り書きだ。封緘所の位置、窓口の数、受付時間帯が書き込まれている。
「受領控えだけ。他は全部、後回し」
「受領控えを出させる根拠が要ります」
「割印の不一致です。昨日の欠落した納入札と、記録の日付を並べれば問いかけの材料にはなる」
レオンハルトが腕を組んで立ったまま聞いていた。発言しないのは珍しい。私が視線を向けると、彼は砂時計を一度だけ見た。砂の残りを確かめる目だった。
「私が前に立てば早い」
「立場で押すのは最後の手です」
クラウスが即座に返した。声に棘はない。ただ、速い。
「先に手順で通す。それが崩れてから初めて名前を出す。順番を違えると、後が詰まります」
「……わかった」
レオンハルトが短く言った。珍しく、従う声だった。
封緘所は市街の北区にある。石造りの横長の建物で、入口に番号札の箱が置かれていた。列はすでに7人ほど延びていた。夜明け前に並ぶ人間が、これだけいる。
番号を引いて列に加わった。待ちながら、並んでいる人々を確かめた。商会の使いらしき男。書類を何枚も抱えた書記。そして列の先頭近く、小柄な老婦人が、ずっしりした布袋を両手で抱えていた。
レオンハルトが老婦人の荷物を見て、半歩前に出た。
「お荷物、お持ちしましょうか」
老婦人が振り返った。目が細くなった。細くなってから、さらに細くなった。
「……順番抜かしはご遠慮願いますよ」
低い声だった。穏やかではなかった。
私はレオンハルトの袖を、昨日の倉庫と同じ感覚で引いた。今度は素直に引かれてくれた。
「今は……従ってください」
できるだけ小さく言った。彼は口を開きかけてやめた。老婦人が前を向いた。クラウスがわずかに咳払いした。
列が少しずつ動いた。私は手の中の番号札を、指の腹で確かめ続けた。
「次」
受領係が札を確認せずに手を出した。
窓口の向こうには、インクで黒ずんだ指の男が座っていた。袖口に封蝋の欠片が白くついている。目は手元の台帳に落ちたままだった。
「受領控えの確認をお願いしたいのですが」
「何の件ですか」
「先月末の商会納入、割印が押された受領控えです」
「番号は」
答えられなかった。件の番号を持っていない。提出束の断片から推測した日付範囲はあるが、正式な件番号は封緘所の内部にある。
「日付帯で照会は可能ですか。先月の21日から末日の間で――」
「日付帯での一般照会はできません。規定です」
係が初めて顔を上げた。目が合った瞬間、彼の視線がわずかにずれた。私の手の方向へ。
私は黙ったまま、鞄から昨日の納入札の写しを取り出した。証拠袋に入れたままの現物ではなく、クラウスが作った写しだ。そこに、割印の箇所だけ赤で囲ってある。
紙を窓口に置いた。指で、割印の囲みを示した。説明はしなかった。
係の目が、止まった。
インク台を拭く仕草が始まった。拭いてから、もう一度拭いた。拭く必要がない場所を拭いた。目は紙から離れなかった。
「……この印は、ここでは見ません」
声が一段低くなっていた。低くなって、速くなった。
「規定上、個別の照会には申請書が必要です。本日中に書式を取り寄せれば――」
「承知いたしました」
私は紙を引いた。係の目が、引いた先を追った。追ってから、自分で目を外した。インク台をもう一度拭いた。
窓口を離れた。
封緘所の裏に細い廊下がある。窓口棟と保管棟を繋ぐための通路だ。人が少ない。クラウスが先回りして待っていた。
「どうでした」
「拒否しました。でも――手が動いていました」
「手癖が出た、ということですね」
クラウスが短く息を吐いた。疲れの音ではなく、確認の音だ。
「割印を指で示した時、係の目が止まりました。知っている反応です」
「証拠にはならない」
「なりません。でも、次の問いかけの方向は見えました」
クラウスが鞄を開いた。提出束の写しを取り出した。昨夜から持ち歩いている、余白の多いあの束だ。
「見てもらいたいものがあります」
余白の一角を指した。そこには細い訂正線があった。元の文字を消して、別の文字に直した跡。訂正自体は丁寧だった。整った字で直してある。
「訂正は丁寧。でも――筆圧が違う」
私は訂正線の横に指を当てた。訂正した線の圧が、元の文字より明らかに深い。力が入っている。焦っていたか、あるいは――
「……書いた人間が、違う」
クラウスが言いかけて、口を閉じた。言いかけた言葉を飲み込んだ。飲み込んで、鞄を閉じた。
「今は、記録してください。判断は後で」
廊下の奥で、扉が開く音がした。クラウスが素早く一歩引いた。誰かが通り過ぎた。足音が遠くなった。
私は手の中の写しを折り畳んだ。訂正跡の位置を、指の感覚で覚えた。
この手は、誰の手なのか。丁寧に直した、力の強い手。
神殿の小室は封緘所から徒歩で行ける距離にある。石の床に小さな灯台が1本。空気が冷えていて、乾いている。
レオンハルトが扉の前で立ち止まった。
「怖いなら、私の後ろでいい。……だが君が望むなら、隣を空ける」
低い声だった。問いではなく、選択肢だった。
私は一度だけ深く息を吸った。
「隣で、見ていてください」
小室に入った。レオンハルトが一歩遅れてついてきた。
短い浄化だった。クラウスが整えた手続きの範囲内の、短い儀式。祈祷紐を腕に巻く。結び目を作る。呪毒の封緘が一時的に緩み、空気が変わった。
灯台の火が、わずかに揺れた。
浄化が終わった後、レオンハルトが一拍、動かなかった。
立ったまま、動かない。呼吸だけがある。1秒。2秒。私が振り返った時、彼の指先が祈祷印の指輪を、ゆっくり回していた。痛みを押し込む仕草だ。反動が来ている。
「問題ない」
彼が言った。問われていないのに言った。
私は何も言わなかった。灯台の明かりが、彼の横顔を黄色く切り取っていた。手袋を外した指先に、古傷の筋がある。その指が、指輪を一度だけ強く回した。
窓の外で、夜が白み始めていた。
封緘所の受領控えは、今日は取れなかった。でも――手癖が出た。次の問いかけの場所は見えた。そして余白に残る訂正跡が、まだ消えない。
丁寧に直した、力の強い手。
この手が、私たちの味方であるなら――。
答えは、まだない。
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