第31話 紙の上に残る流れ
束の端に引かれた線が、朝になっても消えていなかった。
爪か硬い何かで引いた跡。インクではなく、紙の繊維が潰れた痕跡。昨夜から目を離さずにいたが、解読できなかった。この線は偶然ではない。でも、誰が、何のために引いたのか――それが分からないまま、宰相府の朝が来た。
「並べてみてください」
クラウスが帳面を机に置いた。提出束の端の線と、記録簿の断片に残る記号を、2枚の白紙を挟んで並べた。目の下の隈が一段濃い。おそらく昨夜も寝ていない。
「糸で引きます」
私は鞄の底から細い白糸を取り出した。計測用に持ち歩いていたものだ。束の端の線の上に糸を当て、角度を固定する。それを記録簿の記号の隣へ移す。位置が、一致した。
「……この凹み」
白紙の表面を斜めから光に当てると、薄い押し跡が浮かぶ。誰かが硬い何かで上から写した形跡。押し跡の角度と、束の線の角度が――同じだ。
落書きではない。誰かが、帳面の記号を白紙に写し取った。紙の上に流れを描き残そうとして、この線を引いた。
「線が、地図になった」
クラウスが低く言った。声に感情はなかったが、砂時計を反転させる手が止まっていた。
「封緘所の受領控えと繋がるかどうか、現場で確かめる必要があります」
「わかってます。今日、動きます」
香料を扱う帳場は、市街の中ほどにあった。
表通りから1本入った路地。扉を押すと、甘い匂いが波のように来た。ラヴェンダ。それと、もう1つ別の何かが混ざっている。この香りの重さは、クラウスから昨日聞かされた別の帳場とは明らかに違う。
帳場役の女性が笑顔で出てきた。指輪に小さな商会印が光っている。
「ご用件は」
「注文の確認です。先月、ラヴェンダの束を大量に仕入れた記録がありますね」
クラウスが帳面を出さずに言った。女性の笑顔が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「記録は……ええ、ありますけど、内容はお出しできません。商会の規定で」
「量が多かったのは、どこか大きな納入先があったからですか」
声を変えずに続ける。女性は香袋を指で揉んだ。ラヴェンダの香りが急に強くなった。
「さあ……小口でいろいろ、ですよ。特定のどこか、というわけでは」
「先週の分と先々週の分で、仕入れ量が変わっていますね。帳面を見なくても、この部屋の香りの重さが違います」
女性の指が止まった。香袋を握ったまま、目線が泳いだ。
「……それは、季節の変わり目で」
「承知いたしました」
私は一歩引いた。女性の視線がこちらへ向いた。
「……紙は黙ってるのに、嘘だけは残せないんですね」
声に出したのは独り言に近かった。でも女性の肩が、音もなく強張った。
帳場の奥で、誰かが立ち上がる音がした。
外に出ると、クラウスが小さく息を吐いた。
「量の変化は、口から出ましたね」
「先々週と先週で差がある。差が出た時期と、提出束の断片の日付が近い」
倉庫の検品場は、香料帳場から石畳を3ブロック歩いた場所にあった。
レオンハルトが外套の前を合わせながら先に入った。その外套が、倉庫の薄暗い光の中でもどこか浮いて見える。仕立てが違う。素材が違う。変装のつもりだとは思うが、変装になっていない。
入口近くにいた子どもが、積み荷の影から首を伸ばして彼を見上げた。
「……偉い人?」
小声だったが、検品場に響いた。
私は素早くレオンハルトの袖を引いた。彼が半歩下がった。子どもが目を丸くした。
「荷物を見ているだけです」
できるだけ平坦な声で言って、積み荷の列の方へ進んだ。レオンハルトが後ろで何か言いかけた気配があったが、聞かなかったことにした。
奥の棚の前まで来て、藁に手を入れた。乾いた藁の匂いの下から、ラヴェンダが来た。
束ではなく、藁に染み込んでいる匂いだ。運び込まれた荷の一部が、香料の漏れた容器と一緒に保管されていた形跡。棚の木材に、薄く染みが残っていた。
納入札を確認した。商会印が押された2枚の隣に、1枚だけ印のない札が挟まっていた。
「……欠落です」
声を抑えて言った。レオンハルトが棚の反対側から回り込んで、同じ場所を見た。
「商会印がない。差し替えられたか、最初から入っていないか」
「入れられなかった方が近いと思います。急いだ跡です。折り目の向きが逆になってる」
彼が納入札に手を伸ばして、触れる直前で止めた。
「証拠袋は」
「あります」
クラウスから預かっていた小さな布袋に、札を落とした。折り目の逆向き、印の欠落。線に途切れる点ができた。
帰路の馬車は静かだった。
車窓を流れる街の灯りを見ていると、今日拾った断片が並ぶ。線と凹みの一致。香りの量の差。納入札の欠落。点と点が、糸で引かれて繋がりそうになっている。でも、まだ届かない。封緘所の受領控えが1枚でも押さえられなければ、これはただの線のままだ。
レオンハルトが向かいの席から、窓ではなく私の方を見た。
「今日見つけた途切れ――あの点の先に、線は続いている」
断言する声だった。
「その線の先に立つのは私だ。——君の隣で、だ」
言葉が、胸の中で止まった。馬車が石畳の継ぎ目を踏んで揺れた。彼の手が膝の上で少し動いた。伸びかけて、止まった。祈祷紐がない。手首には何も巻かれていない。今ここで手を伸ばす根拠が、手順として存在しない。
止まった手が、膝の上に戻った。
でも熱だけが、空気の中に残った。
夜明けまでに封緘所の受領控えを1枚押さえられなければ、今日引いた線はただの線に戻る。
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