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「完結済み」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第6章 取引網追跡――止めるのは誰

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第31話 紙の上に残る流れ

 束の端に引かれた線が、朝になっても消えていなかった。

 爪か硬い何かで引いた跡。インクではなく、紙の繊維が潰れた痕跡。昨夜から目を離さずにいたが、解読できなかった。この線は偶然ではない。でも、誰が、何のために引いたのか――それが分からないまま、宰相府の朝が来た。


「並べてみてください」


 クラウスが帳面を机に置いた。提出束の端の線と、記録簿の断片に残る記号を、2枚の白紙を挟んで並べた。目の下の隈が一段濃い。おそらく昨夜も寝ていない。


「糸で引きます」


 私は鞄の底から細い白糸を取り出した。計測用に持ち歩いていたものだ。束の端の線の上に糸を当て、角度を固定する。それを記録簿の記号の隣へ移す。位置が、一致した。


「……この凹み」


 白紙の表面を斜めから光に当てると、薄い押し跡が浮かぶ。誰かが硬い何かで上から写した形跡。押し跡の角度と、束の線の角度が――同じだ。

 落書きではない。誰かが、帳面の記号を白紙に写し取った。紙の上に流れを描き残そうとして、この線を引いた。


「線が、地図になった」


 クラウスが低く言った。声に感情はなかったが、砂時計を反転させる手が止まっていた。


「封緘所の受領控えと繋がるかどうか、現場で確かめる必要があります」

「わかってます。今日、動きます」



 香料を扱う帳場は、市街の中ほどにあった。

 表通りから1本入った路地。扉を押すと、甘い匂いが波のように来た。ラヴェンダ。それと、もう1つ別の何かが混ざっている。この香りの重さは、クラウスから昨日聞かされた別の帳場とは明らかに違う。


 帳場役の女性が笑顔で出てきた。指輪に小さな商会印が光っている。


「ご用件は」

「注文の確認です。先月、ラヴェンダの束を大量に仕入れた記録がありますね」


 クラウスが帳面を出さずに言った。女性の笑顔が、ほんの一瞬だけ揺れた。


「記録は……ええ、ありますけど、内容はお出しできません。商会の規定で」

「量が多かったのは、どこか大きな納入先があったからですか」


 声を変えずに続ける。女性は香袋を指で揉んだ。ラヴェンダの香りが急に強くなった。


「さあ……小口でいろいろ、ですよ。特定のどこか、というわけでは」

「先週の分と先々週の分で、仕入れ量が変わっていますね。帳面を見なくても、この部屋の香りの重さが違います」


 女性の指が止まった。香袋を握ったまま、目線が泳いだ。


「……それは、季節の変わり目で」

「承知いたしました」


 私は一歩引いた。女性の視線がこちらへ向いた。


「……紙は黙ってるのに、嘘だけは残せないんですね」


 声に出したのは独り言に近かった。でも女性の肩が、音もなく強張った。

 帳場の奥で、誰かが立ち上がる音がした。


 外に出ると、クラウスが小さく息を吐いた。


「量の変化は、口から出ましたね」

「先々週と先週で差がある。差が出た時期と、提出束の断片の日付が近い」



 倉庫の検品場は、香料帳場から石畳を3ブロック歩いた場所にあった。

 レオンハルトが外套の前を合わせながら先に入った。その外套が、倉庫の薄暗い光の中でもどこか浮いて見える。仕立てが違う。素材が違う。変装のつもりだとは思うが、変装になっていない。

 入口近くにいた子どもが、積み荷の影から首を伸ばして彼を見上げた。


「……偉い人?」


 小声だったが、検品場に響いた。

 私は素早くレオンハルトの袖を引いた。彼が半歩下がった。子どもが目を丸くした。


「荷物を見ているだけです」


 できるだけ平坦な声で言って、積み荷の列の方へ進んだ。レオンハルトが後ろで何か言いかけた気配があったが、聞かなかったことにした。


 奥の棚の前まで来て、藁に手を入れた。乾いた藁の匂いの下から、ラヴェンダが来た。

 束ではなく、藁に染み込んでいる匂いだ。運び込まれた荷の一部が、香料の漏れた容器と一緒に保管されていた形跡。棚の木材に、薄く染みが残っていた。

 納入札を確認した。商会印が押された2枚の隣に、1枚だけ印のない札が挟まっていた。


「……欠落です」


 声を抑えて言った。レオンハルトが棚の反対側から回り込んで、同じ場所を見た。


「商会印がない。差し替えられたか、最初から入っていないか」

「入れられなかった方が近いと思います。急いだ跡です。折り目の向きが逆になってる」


 彼が納入札に手を伸ばして、触れる直前で止めた。


「証拠袋は」

「あります」


 クラウスから預かっていた小さな布袋に、札を落とした。折り目の逆向き、印の欠落。線に途切れる点ができた。



 帰路の馬車は静かだった。

 車窓を流れる街の灯りを見ていると、今日拾った断片が並ぶ。線と凹みの一致。香りの量の差。納入札の欠落。点と点が、糸で引かれて繋がりそうになっている。でも、まだ届かない。封緘所の受領控えが1枚でも押さえられなければ、これはただの線のままだ。


 レオンハルトが向かいの席から、窓ではなく私の方を見た。


「今日見つけた途切れ――あの点の先に、線は続いている」


 断言する声だった。


「その線の先に立つのは私だ。——君の隣で、だ」


 言葉が、胸の中で止まった。馬車が石畳の継ぎ目を踏んで揺れた。彼の手が膝の上で少し動いた。伸びかけて、止まった。祈祷紐がない。手首には何も巻かれていない。今ここで手を伸ばす根拠が、手順として存在しない。

 止まった手が、膝の上に戻った。

 でも熱だけが、空気の中に残った。


 夜明けまでに封緘所の受領控えを1枚押さえられなければ、今日引いた線はただの線に戻る。


読んでいただき、ありがとうございます。


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