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「連載版」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第1章 「不要」の宣告、当日追放

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3/10

第3話 置き去りにされたのは、私だけじゃない

 帳面を閉じることができなかった。


 馬車が石畳を離れてから、もう随分たつ。王宮の尖塔が窓越しに遠ざかり、やがて木立の向こうに消えた。それでも私の指は折り目のついたページの上で止まったままだった。3か月前の記録だ。ラヴェンダ毒の検出記録、推定濃度、納入業者の名前を書き連ねた、あの日のページ。


 折り目は、右上についていた。


 私は帳面を閉じる時、必ず左下を折る。5年間、一度も変えていない。癖ではなく、意識してやっていることだ。ページの端の折れ方から「最後に開いた者」がわかるようにするために。毒見役は記録する。記録を守るのも、仕事のうちだと思っていた。


 右上の折り目は、私のものではない。


 誰かがこのページを開いた。そして閉じた。気づかれるとは思わなかったのか、それとも――気づかれても構わないと思っていたのか。


 馬車が揺れた。窓から見える空は低く灰色で、息が白くなる季節だった。


 私は帳面を太腿の上に置いたまま、窓の外を見た。5年間通った門がある城壁が、もうどこにも見えない。


「——次の毒見は」


 声が出た瞬間、気づいた。


 次の、毒見は。


 ない。私の毒見は、もうどこにもない。今日の昼食も、夕食も、誰かの膳を先に口にしなくていい。明日の朝も、明後日も。不要と言われた日から、それは全部なくなった。


 馬車の中で、私は少し間抜けな声でそう自覚した。誰も聞いていなくてよかった。


 笑えるかどうか、よくわからなかった。でも確かに、おかしかった。5年間の生活がこれほど深く染み込んでいるとは。反射が、記憶より早く動く。


 空気が冷えている。窓の縁に霜が薄く張り始めていた。


 王宮の回廊も、こういう温度だった。石床から上がってくる冷気は朝も夜も変わらなかった。膝をつくたびに、その冷たさが裙の向こうから染みてきた。5年間、慣れたと思っていたのに、慣れてはいなかった。慣れたのではなく、感じないようにしていただけだ。


 私は帳面の背を指で撫でた。


 革は手に馴染んでいた。


 回廊を出る時、厨房の裏口のそばを通った。夕方の仕込みの音が漏れていた。下働きの女の声が聞こえた。「ラヴェンダって、甘くて香りがいいから気づかれにくいのよね」。私は足を止めなかった。帳面を抱えたまま、通行証を受け取りに歩いた。


 今になって、その声が頭の中で繰り返された。


 気づかれにくい。


 なぜその言葉を、食材の仕込み中に口にするのか。ラヴェンダはたしかに料理に使う香草だ。でも私が3か月前に記録したのは、ラヴェンダ由来の毒成分の検出だった。微量で、甘い香りに紛れる。通常の毒見では見落とされやすい。


 私が記録した経路と、あの声が一本の線でつながるかどうかは、まだわからない。わからないが、わからないまま置いておくことができない。


 私の帳面は、私の手の中にある。でも誰かがこのページを開いた事実は、変わらない。


 それは——王宮の中で、起きたことだ。


 誰かが私の部屋に入った。あるいは私が席を外した隙に触れた。朱印のない帳面を、正当な根拠なく開いた。機密でも何でもない私物を。


 私は長く、息を吐いた。白くなった。


 追放で全部終わると思っていた。切り離された瞬間に、全部向こう岸に置いてこられると思っていた。なのに折り目は今も、私の手の中の帳面にある。


 向こう岸と、こちら岸は、まだつながっている。


 あの声が偶然だと思うには、私は5年間、毒を飲みすぎた。


 小さな逆転が、静かに胸の中に落ちてきた。追放は終わりではなかった。始まりだった。帳面を持って出てきた日から、何かが動いている。


 馬車が速度を落とした。遠くに実家の門が見えた。灯りが2つ、橙色に揺れている。あの温かさの向こうに、食事があって、湯があって、毒のない睡眠がある。5年間で忘れていたものが、全部そこにある。


 なのに私は、帳面から指を離せなかった。


 折り目のページを、もう一度開いた。3か月前の記録。ラヴェンダ毒。納入業者の名前。推定経路。


 この日、私は何を記録した。どんな毒を。どの経路で。誰の名前を書いた。


 それを知った者が――この先も、私を必要とするかもしれない。


 不要と言われた。でも帳面の折り目は、別のことを言っていた。


 誰かがこのページを必要としていた。それは確かだ。そしてその「誰か」は、私が城を出た今も、帳面の中身を知っている。


 門の灯りが近づいた。馬車が止まった。


 私は帳面を風呂敷にしまいながら、指先が少しだけ震えているのに気づいた。寒さではなかった。


 向こう岸の手が、もうこちら岸まで伸びている――そう思ったら、灯りの温かさが、少しだけ怖くなった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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