第29話 締切が迫る――間に合う?
砂時計が、静かに息を殺していた。
卓上に置かれた細い首を、砂の流れが夜の速さで落ちていく。小会議室の燭台は3本。その明かりだけが、封緘所からの通達文を照らしている。提出は明朝――その数字だけで、室温が2度ほど下がった気がした。
「現状を確認します」
クラウスの声は平坦だった。眼鏡の奥の目が文面を一瞬捉え、それだけで全部を掴んだような顔をする。
「割印は揃っています。封緘は明朝の窓口が開いてから。問題は欠けた頁をどう語るか、です」
私は帳面の革表紙を親指で撫でた。返事より先に手が動く、自分でも知っている癖だった。
「語るより、直します」
「現物がなければ、語るしかありません」
「……痕跡があります。筆圧の凹みを拾えます」
クラウスが砂時計を静かに傾けた。圧の合図だと、もう覚えていた。
「夜明けまで」
それだけで十分だった。
窓際に立ったままのレオンハルトは、何も言わなかった。銀色の髪が窓の外の闇に溶けていて、指先だけが微かに動いている。痛みなのか、こらえているのか、判断がつかない。
判断がつかないまま、動くしかなかった。
「……順番に」
自分に言い聞かせながら、立ち上がった。
記録棚の間は燭台の明かりだけが頼りだった。
白頁を斜めに炎へかざす。昨日も試みたが、角度が悪かった。今夜は炎に近い位置で持ち、鉛の棒を平らに寝かせて、凹みに沿ってゆっくりと動かした。
1度。2度。
掠れた灰色が、紙の上に浮いた。
「日付の断片」と「数字の一部」――完全ではない。欠けている。でも欠けていること自体が、証明になる。元の記録が確かに存在した、という証明に。
親指の腹が痺れてきたころ、頁の右下の角にごく小さな記号が滲み出た。
丸に、1本の直線。それだけの形。複雑ではないが、見覚えがなかった。この帳面にこういう記号を使った覚えがない。誰かが書き足したのか――それとも、元からあって私が知らなかっただけなのか。
燭台の明かりを近づけて、もう一度だけ見た。記号の線は細くて、羽ペンより細い何かで引いた跡に見えた。インクの滲み方も、本文とは違う。後から加えられた、と考える方が自然だった。
背筋に、冷たいものが走った。感情ではなく、記録官の部分が動いた感覚だった。
考えながら、次の頁へ手を動かした。答えより先に、手を動かすことが先だった。
神殿の小室へは、夜半を過ぎてから向かった。
誓約監督官のサヴィエルは、銀盆を前にして表情を変えなかった。
「インクの残滓確認は、規定どおりに行います」
白頁を銀盆の端に置き、薬草を溶かした水を細く垂らす。じわ、と染みが広がった。
灰色だった。黒ではない。
「……残っています。ごく微量ですが」
サヴィエルが銀盆の縁を1度だけ叩いた。乾いた音が石の壁に跳ねて、消えた。
「読めるとは限りません。痕跡が存在するという確認のみです」
「それで十分です」
返事が口から出た瞬間、頭の奥がじわ、と揺れた。朝から何も食べていないことを、体が今になって思い出したらしかった。呼吸を1つ整えて、揺れを飲み込んだ。
サヴィエルが、初めてまともに私の顔を見た。
「帰れますか」
「……規定どおり、帰ります」
声に迷いを出してはいけなかった。迷いを出したら、足が止まる。足が止まったら、夜明けに間に合わない。
台所に戻ると、ミレイユが湯気の立つ器を2つ持って立っていた。
「食べてから記録棚に戻ってください。順番です」
口調は柔らかくない。でも白湯が温かかった。器を受け取ろうと手を伸ばしたとき、廊下からレオンハルトが来て、ミレイユと正面で鉢合わせた。
1秒の静止。
ミレイユがもう1つ器を取り出した。
「宰相様も。徹夜は許可しますが、朝食は強制です」
レオンハルトが無言で器を受け取った。その横で、クラウスが上着の内ポケットへ素早く何かを押し込んだ。白い小瓶の角が一瞬だけ見えて、消えた。
誰も何も言わなかった。
白湯を飲みながら、私は少しだけ可笑しかった。証拠を夜通し復元しながら、台所で侍女に食べさせられている。5年前の自分には、想像もしなかった夜だった。
隣でレオンハルトが白湯を一口だけ飲んだ。その静けさが、煩くなかった。5年間、謁見の間の視線に晒されながら、誰かの隣にいることの温度を忘れていた気がした。忘れていたと気づくのが今夜、というのが、少しだけ遅すぎた。
でも間に合わないよりは、よかった。
夜明け前、小会議室に全員が集まった。
仮の提出束は完成していた。欠けた頁には「痕跡確認済・残滓記録添付」という1行をクラウスが書式に沿って加えた。穴を埋めたのではない。穴の形を、語れる言葉に変えたのだ。
クラウスが束の端を揃えながら、短く言った。
「今は勝てる形を作ります。穴の説明は、提出後にこちらの刃になります」
私は頷いた。割印の位置を確認して、封緘用の紐を確かめた。赤紐。いつもどおりに見えるが、手触りが少し新しかった。
――締切は、負けじゃなかった。形が整えば、牙になる。
その確信が胸に来たとき、私は気がついた。
擦り出した断片の中に、あの記号がある。丸に1本の直線。神殿の古文書棚の挿絵にも似た形だ、とぼんやり思っていた。
封緘所から届いた封筒が、卓上にある。赤紐の結び目が燭台の明かりを受けて光っている。
見た瞬間、全身が1秒だけ止まった。
結び目の形が――擦り出した記号と、同じだった。
「……セレーナ」
レオンハルトの声が来た。低く、静かだった。
「手が震えているなら、私が押す。……君の代わりじゃない。隣で」
私は帳面の革表紙を握ったまま、顔を上げた。手が震えているのに気づいていなかった。でも確かに、震えていた。
「間に合わせます」
声に出したら、震えが少し収まった。
「……私の記録は、逃げるためじゃない」
窓の外が、ほんの少しだけ白み始めていた。
私は赤紐の結び目を、もう1度だけ見た。
擦り出した断片の記号と、同じ形。偶然にしては整いすぎていた。この結び目を知っている手が、どこかにある――そしてその手は、記録簿の欠けた頁が欠けていることも、最初から知っていたことになる。
「……この流れ」
声は誰にも届かなかったと思う。それでも、口から出た。
「誰が、線を引いたの?」
夜明けまで、あと少し。提出束はある。でも、問いだけが、まだ手元に残っていた。
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