第28話 欠けた頁は、どこへ行った
寒気は昨夜から引いていなかった。
廊下を歩きながら、私はクラウスが手に持つ封筒を横目で見続けていた。あの赤紐は、昨夜から変わらず結ばれたままだ。封緘所の印が押されているのに、紐の光沢だけが新しい。結び直した手が、宰相府の誰かの手と同じ癖を持っていた——その事実が、昨夜から胸の底に張り付いたままだった。
記録棚の前でクラウスが立ち止まった。棚の引き出しを開け、数字の書かれた束を取り出す。帳面の写しと、原本の照合。今日最初の仕事だった。
「……17番」
私は帳面を開いて、欠けた場所を指差した。クラウスが写しを横に並べる。番号は写しの方に揃っている。しかし原本は——違った。
白かった。
17番の番号が振られた頁は、そこにあった。ただし、文字が一切ない。真っ白な紙が、番号だけを持って綴じ込まれていた。取り替えられていた。抜いた頁の代わりに、白い頁を差し込んだ。紙の枚数は揃う。綴じ目に傷はつかない。厚みも変わらない。一見すると、何もなかったように見える。
奪ったのではない。消したのだ。
私は白い頁を静かに裏返した。光の角度を変えると——うっすらと、凹みがあった。強く書かれた文字が、一枚下の紙に押し跡を残していた。読めるほどではない。けれど、そこに何かが書かれていたことだけは確かだった。
革表紙を親指で撫でた。
「……最初から無かった、にするつもりだった」
声に出てしまった。独り言だった。クラウスは眼鏡の奥で目を細めて、一言も返さなかった。返さなかったことが、答えだった。
盗めば、欠けたことが証拠になる。問うことができる。でも差し替えれば——最初から無かったことになる。欠落ではなく、消去だった。欠け方が、そのまま手口の深さを語っていた。
砂時計が残り半分になっていた。
廊下に出ると、クラウスが封緘所の受領手順を口にした。封緘後の写し照合の順番、受領印の押される場所、差し戻しの経路が決まっている窓口の番号。私は聞きながら、昨夜の封筒のことを考えていた。それだけの手順を、外から来た人間が知ることは、本来できない。
「その順番——」
私が言いかけると、クラウスが半歩、止まった。
「それ、内部の人しか知りません」
眼鏡を押し直す指が、わずかに白かった。声は平坦だった。だから余計に重かった。頁番号の並びを知っていた手。受領手順を知っていた手。差し戻しの封筒に触れた手。その3つは、宰相府の内側に同じ1人がいることを指している。昨夜、寒気とともに理解したことを、今日の白昼に、声で確かめた。
「今は勝てる形を作ります。……手順です」
クラウスが先に歩き出した。私は少しだけ後れて、廊下の石の冷たさを足の裏で感じながらついていった。内通者の話は、今日は、ここで終わりにした。終わりにしなければ、提出束が整わない。
順番に、進める。それしかなかった。
私室に戻ると、レオンハルトがいた。
机の前で書類を確認していた。私が入室すると、一度だけ顔を上げた。今日は浄化の予定がない日だった。祈祷紐は彼の手首になく、机の端に折り畳まれていた。普段より部屋が静かに感じた。
私は帳面を抱えたまま、少し迷った。保管場所を変えた方がいい。宰相府の内側に誰かがいるなら、私の私室も安全ではない。
革表紙を親指で撫でた。
この帳面は私の5年間だ。それを手放すつもりはない。でも今夜だけは——守れる場所に置く必要があった。
「……これを、預けていいですか」
自分でも少し驚く声が出た。レオンハルトは書類から目を上げた。帳面を見た。それから私を見た。
「預ける、とは」
「夜の間だけです。あなたの部屋の方が鍵が多い。明朝返してもらえれば」
沈黙があった。短かったが、確認の重さがあった。彼が手を伸ばした。私はその手に革表紙を渡した。指先が触れた瞬間——渡したまま終わりにしてはいけないと、腹の奥で思った。受け取られる瞬間と、永遠に手元を離れる瞬間は、見た目には同じだ。でも意味が違う。
「返してください」
「ああ」と、すぐに言った。
「……紙じゃなくて、私に」
私が足した言葉に、彼の目がわずかに動いた。意味を拾うような、一瞬の静止があった。
「君の帳面は、君の盾だ。……だから、私が持つ」
声は低く、補足がなかった。受け取ったその手が、表紙を上向きに丁寧に持ち直した。
預けることと信頼することが、今日初めて同じ重さになった気がした。私は返事をしなかった。する言葉が、見つからなかった。彼の机の端に革表紙が置かれるのを見て、視線を窓の方へ向けた。
夕方、ミレイユが記録棚の整理を手伝いに来た。
私が証拠袋の中身を並べていると、棚の下を覗き込んだミレイユが眉を上げた。
「証拠袋に胃薬を入れないでください」
クラウスが無言で小瓶を取り戻した。ミレイユは何も言わなかった。私も言わなかった。ただ少しだけ、息が抜けた。
ミレイユが炉の灰の掃除を始めた。灰かきをゆっくり動かしながら、ふと手が止まった。
「……セレーナ様」
声が、普段より低かった。振り返ると、彼女が灰かきの先に細い紙片を乗せていた。燃え残りだった。ほとんどが炭になっていたが、端の一角だけ——数字が残っていた。
17。
読めたのはその2文字だけだった。それ以上は灰になっていた。紙片は薄く、軽かった。焦げた匂いがした。これが17番の頁だったかどうかは、もう証明できない。でも、炉に落ちた紙がある。誰かが燃やした。その誰かは、17番が何の記録かを知っていた。知っていなければ、燃やす理由がない。
私は紙片を受け取って、証拠袋の隅に収めた。
ミレイユが灰かきを元の場所に戻した。
「明日のことは、明日考えてください」
それだけを言って、炉の蓋を静かに閉めた。
答えは出ていない。白い頁の凹みは、まだ読めていない。革表紙の帳面は今夜、彼の机の上にある。それだけは、確かだった。
封緘所から通達が届いたのは、その夜だった。
封筒は新しかった。赤紐の結び目が、昨日よりも固く締まっていた。
クラウスが開封して、中の紙を読み上げた。
「提出は、明朝」
砂時計を反転する音がした。
「差し替えの確認は、夜のうちに終わらせること」
私は帳面の置かれた机の方を見た。革表紙は彼の部屋にある。白い頁の押し跡と、灰の中の数字と、封筒の赤紐の癖が、今夜だけ同じ引き出しに並んでいた。
夜が、始まろうとしていた。
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