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「完結済み」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第5章 提出直前、証拠が欠ける

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第27話 触れる決意が、言葉に追いつかない

 クラウスが机の上に置いたのは、誓約更新の下書きだった。

「意思の一致」。

 空欄が一行だけ、ぽっかりと白く抜けている。書類の空白というのは、いつもこんなに重かっただろうか。文字を受け入れるための余白が、今朝はやけに広く見えた。


「本日中に、主旨の確認だけでも」

 クラウスが砂時計を反転させた。さらさらと砂が落ち始める音が、窓のない小会議室に広がった。白い光が書類を薄く照らして、例の空欄をいっそう際立たせた。

「……手順です」

 眼鏡の奥の目は、何も言っていなかった。圧だけがそこにあった。

 私は革表紙の帳面を親指で撫でた。いつの間にかそうしていた。決意の代わりに手が動く、自分でも飽きるほど知っている癖。


「意思の一致」


 言葉にすれば、それだけだ。なのに書き入れるには――誰かに向かって口にするには、腹の底から引っ張り上げなければならない何かが要る。それが今、どこにあるのか分からなかった。

 レオンハルトは斜め向かいで、書類の別の頁を読んでいた。昨日、祈祷紐を結び直しながら「君に――」と言いかけて、息を飲んだ。その続きを、私はまだ聞いていない。聞けないまま、朝が来た。


 クラウスが胃薬を一錠、机の端に置いた。誰のためとも言わなかった。それだけ言い残して退室した。扉が閉まる音が、部屋をひとつ静かにした。


「……順番に、進めましょう」

 私が言うと、レオンハルトの視線が紙から上がった。何か言いかけて、止まった。彼はそういう人だ。言葉を吐く前に一度、確かめる。喉の外に出してもいいか、ずっと点検している。

「そうだな」

 それだけだった。


 神殿の療室は昨日と同じ温度だった。壁が厚くて、外の風の音が届かない。石の冷えた香りに、薬草とインクが混じっている。私の指先に残る匂いと、どこか似ていた。

 サヴィエル監督官が祈祷紐を差し出した。紐の端を整え直してから、無言で頷く。いつもの動作、いつもの顔だった。「規定どおり」以外の言葉は、この人の口からほとんど出てこない。


 レオンハルトが手を差し出した。

 私は祈祷紐を通して、その指先に触れた。


 線が通る感触がある。痛みではない、温度だ。引き寄せられるような薄い熱が肌の下を走って、呼吸の端をかすかに揺らす。昨日より少し、近い気がした。あるいは気のせいかもしれない。気のせいであってほしいという気持ちと、そうでなければいいという気持ちが、同じ重さで胸の中にある。

 こういう感覚に名前をつけてしまったら、もう帳面には書き残せない。記録は盾だ。でも盾の内側を書き記す欄は、どこにもない。

 言葉を探した。何か言えれば、楽になれる気がした。でも言葉というのは、出してしまえば形になる。形になったものは、返せない。誓約の書類に浮かんでいた「意思の一致」の四文字が、また目の裏に戻ってきた。


 浄化が終わった後、銀盆の沈殿は昨日より薄かった。サヴィエル監督官が「規定どおり」と手帳に書き入れて、盆を下げた。私たちだけが療室に残った。


 沈黙が続いた。

 レオンハルトが視線を窓の外へ向けたまま、ゆっくりと息を吐いた。

「……君を、必要だとは言いたくない」

 声が低かった。独り言のような、でも届けようとしている、そういう声だった。

「必要だと言った次の瞬間から、君を縛ることになる。そういう言葉だと、知っている」

 私は何も言えなかった。

 言えなかったのではなく――言わなかった。

「必要だって、奪う人が言う言葉でした」

 気づいたら声が出ていた。低く、平らで、ひどく正直な声だった。

 王宮での5年間。何人もの人が「必要だ」と言って、次の瞬間に手を出した。盾として、道具として、証拠として。その言葉の後に来るのはいつも、要求だった。「必要だ」はいつも、誰かの都合の入口だった。

 レオンハルトが窓から視線を戻した。

「……違う」

 彼の口癖だった。いつも、そこから始まる。否定から入って、そこから先を探す。

「奪うために言うなら、私は沈黙する。どれだけ待っても」

 祈祷紐を持つ指先が、ほんの少しだけ動いた。

「守るために言う日は、必ず来る」

 それだけを言って、彼は黙った。言い訳も、補足も、なかった。

 私はその言葉を飲み込んで、革表紙の端を親指で押さえた。言葉が「契約」になる前に止めた。それが正しいのか分からないまま、止めた。


 言葉があれば進める、とずっと思っていた。言葉さえ出れば、何かが動き出すと。でも今は分かる。言葉は、進む力にも刃にもなる。だから彼は言わない。だから私も言えない。その沈黙の重さが、今日初めて同じ形をしているように感じた。


 扉の向こうで、足音がした。

「五時は過ぎました。寝ます」

 ミレイユの声だった。ためらいも照れも、一切なかった。

「セレーナ様もです。扉は開けたままにしておきます。十数えたら閉めます」

 一、二、三、と声が続いた。本当に数えていた。

 レオンハルトが、かすかに口角を上げた。私も少しだけ、力が抜けた。


 廊下へ出ると、ミレイユが無言で白湯の杯を差し出した。杯の端に、胃薬の錠剤が添えてあった。誰のためとも言わなかった。温かい杯を受け取って、廊下の石床の冷たさだけを感じた。


 クラウスが封緘所から戻ってきたのは、小半刻ほど後だった。

 手に封筒を持っていた。

「差し戻しです。写しの一部に不備があったと」

 封筒を机の上に置く。私はそれを見た瞬間、動きを止めた。

 封筒の口を縛る赤紐が、新しかった。

 昨日付けの封緘印が押されているのに、紐の光沢が違う。まるで今日、結び直したような艶がある。封緘所で印を押してから、誰かが紐を触った。触れた手は、中を見た。

 私は封筒を手に取り、紐の結び目を指でなぞった。

 クラウスが一歩近づいた。眼鏡の奥の目が、私と同じものを見ていた。

「……この結び癖」

 低い声だった。一拍、置いた。

 私は紐から目を上げた。

「宰相府の手と、同じです」

 部屋が、静かになった。

 言葉より先に、寒気が来た。

 封筒の紐は、結び直されていた。写しの中身を見た誰かが、また元通りに結んだ。その手順と癖が、毎日この府で書類を扱う手と重なっている。

 私は帳面を膝の上に置き、革表紙の端を親指で押さえた。この建物の中に、手順を知っている誰かがいる。その事実を、今夜の沈黙と同じ引き出しにしまうわけにはいかなかった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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