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「完結済み」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第5章 提出直前、証拠が欠ける

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第26話 浄化だけが残された道

 黒かった。

 銀盆の底に広がる沈殿は、朝の光の中でも、はっきりと黒かった。薄く、しかし確実に、そこに在った。サヴィエルは盆の縁を指で1度だけ叩いた。


「呪毒の残滓だ。これが見える以上、浄化以外の道は残っていない」


 声は乾いていた。情報しか乗せない声だった。私はその盆を見つめたまま、自分が何を期待していたかに気づいた。もっと軽い処置で済む、と。1度の施術で終わる、と。どこかで都合のいいことを思っていた。

 レオンハルトは私の隣に立っていた。その表情は、今日も読めなかった。だが指先だけが、袖口の端で、かすかに動いていた。


「制限を聞く」


 彼が言った。質問ではなかった。覚悟が、命令の形をしていた。


 サヴィエルは小さな机に羊皮紙を広げた。


「1日1回。接触時間は砂時計の表裏1周分。祈祷紐を両者の手首に結んだ状態でのみ実施する。紐を外した状態で術者が被術者に触れれば、毒が逆向きに流れる。術者が死ぬわけではないが、回復に数日を要する。……これが最短の条件だ」


 私はその言葉を、頭の中で1つずつ並べた。1日1回。時間制限。祈祷紐必須。逆流。

 浄化は希望じゃなかった。手続きと危険と制限の塊だった。誰かに触れれば助かる、という単純な話ではなかった。触れる前に形を整え、触れた後に代償が来て、触れ方を1度でも間違えれば、助ける側が倒れる。


「条文で読みますか」


 サヴィエルが聞く前に、私は答えた。


「読みます」


 羊皮紙を受け取った。細かい文字が並んでいる。術者の義務、被術者の同意、違反した場合の罰則——違反。「誓約の失効条件」という文言が、ふと、目に刺さった。誓約の空欄が、また別の重さを持った気がした。

 私が条文を読んでいる間、レオンハルトはサヴィエルと短い言葉を交わしていた。聞こうとしたわけではないが、1つだけ耳に入った。


「君が倒れるなら、治らない方がましだ」


 彼の声だった。サヴィエルに向けていたが、向き先は——私だった。



 羊皮紙を机に置いた。


「まし、なんて言わないで」


 自分の声が思ったより平坦だった。怒りではなかった。胸の奥で、何かが静かに裂ける感じがした。


「あなたが痛いのは、私の都合でもある。……治らなくていい、は私には言えません」


 沈黙が落ちた。

 サヴィエルが羊皮紙の縁を揃えながら、何も言わなかった。銀盆の黒い底が、部屋の光をわずかに吸い込んでいた。

 レオンハルトは私の方を見ていた。言葉を探している顔だった。でも出てこなかった。彼はそういう時、いつも目を1秒だけ閉じる。今もそうした。

 私は自分の手の先を確認した。インクの染みが残っている。昨夜も帳面を持ったまま眠った証拠だ。この手で彼に触れれば、毒が逆向きに流れる——条文の言葉が、今さら体温を持って戻ってきた。治さなくていい、なんて言えるはずがなかった。それは私の問題でもあった。

 机の上の羊皮紙の隅に、細い線が1本引いてあった。誓約の「意思の合致」という項目を、誰かが後から書き加えた跡だった。その1行だけが、他の文字より少しだけ濃かった。



 廊下に出ると、神殿特有の石の冷えが足元から来た。

 浄化の手順を聞いた後の熱が、頭に溜まっていた。立ちくらみではなく、もっと単純な疲れだった。昨夜も帳面を持ったまま眠り、今朝は水しか飲んでいない。革表紙を左腕に抱えたまま、1歩踏み出した瞬間、体が右へ傾いた。


 壁に手をつこうとして、腕が間に合わなかった。


 誰かの腕が、脇に入ろうとした——直後に、止まった。


「触れてもいいですか」


 声が来た。低く、しかし確認の形をしていた。

 私は壁を片手で押さえながら、彼の顔を見た。抱き上げる直前で止まっていた。手は私の肩の近くに在ったが、触れていなかった。


「……許可を、毎回取りますか」


「君が選ぶまで、触れない。……規定だけじゃない」


 私は息を吐いた。祈祷紐がなければ逆流する。今は持っていない。だから彼は止まった。でもそれだけじゃないと、彼は言った。


「大丈夫です」


「大丈夫に見えない」


「見えなくても、立ちます」


 壁を押して体を起こした。足が少し震えていたが、声には出さなかった。呼吸を1つ整えて、廊下の先を見た。

 レオンハルトは1歩引いたまま、動かなかった。近くに在って、触れない。それが今の彼の守り方なのだと、今日初めて、はっきりわかった。



 台所から声が飛んできた。


「宰相様、抱き上げる前に手を洗ってください」


 ミレイユだった。廊下の向こうから、扉も開かずに言い当てた。


「記録官が怒ります」


 クラウスが台所の入口で眼鏡を外した。「……誰も抱き上げると言っていません」

 ミレイユは白湯を木盆に載せながら、こちらを1度だけ見た。それ以上は言わなかった。言わなくても、全部わかっていた顔だった。

 クラウスが胃薬の小瓶を静かにしまった。


「食べてから戻ります。手順です」


 誰かが笑いそうになって、笑わなかった。その間が、今日いちばん柔らかかった。白湯を両手で包んでいると、指先の震えが、少しだけ止まった。



 帰り支度をする間、レオンハルトが祈祷紐を手首に巻いたまま、端を直していた。

 サヴィエルから預かった練習用の紐だった。正式な浄化の前に結び方を覚えておくための、仮のものだ。彼の指が結び目の端を引いて、形を整える。その角度が——昨日書庫で見た挿絵の結び方に、少しだけ似ていた。

 個人の癖が紐の形に残る。サヴィエルが言った言葉が、静かに戻ってきた。この結びも、誰かが見れば、彼の「手」と読めるかもしれない。

 私は革表紙を親指で撫でた。帳面の17番が欠けていた。欠け方を知っていた手の癖と、この結び目の角度と——今はまだ、繋がらない。でも繋がる気がした。


「君に——」


 レオンハルトが言いかけて、息を飲んだ。

 祈祷紐の端を持ったまま、動かなかった。


 私は顔を上げた。彼は結び目を見ていた。いや、見ていなかった。視線は紐の上にあったが、目が別のものを追っていた。

 言いたいことと言えないことの間で、彼はまた、言葉を閉じた。


 飲み込んだ言葉の続きが、廊下の石の冷えの中に溶けていった。

読んでいただき、ありがとうございます。


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