第26話 浄化だけが残された道
黒かった。
銀盆の底に広がる沈殿は、朝の光の中でも、はっきりと黒かった。薄く、しかし確実に、そこに在った。サヴィエルは盆の縁を指で1度だけ叩いた。
「呪毒の残滓だ。これが見える以上、浄化以外の道は残っていない」
声は乾いていた。情報しか乗せない声だった。私はその盆を見つめたまま、自分が何を期待していたかに気づいた。もっと軽い処置で済む、と。1度の施術で終わる、と。どこかで都合のいいことを思っていた。
レオンハルトは私の隣に立っていた。その表情は、今日も読めなかった。だが指先だけが、袖口の端で、かすかに動いていた。
「制限を聞く」
彼が言った。質問ではなかった。覚悟が、命令の形をしていた。
サヴィエルは小さな机に羊皮紙を広げた。
「1日1回。接触時間は砂時計の表裏1周分。祈祷紐を両者の手首に結んだ状態でのみ実施する。紐を外した状態で術者が被術者に触れれば、毒が逆向きに流れる。術者が死ぬわけではないが、回復に数日を要する。……これが最短の条件だ」
私はその言葉を、頭の中で1つずつ並べた。1日1回。時間制限。祈祷紐必須。逆流。
浄化は希望じゃなかった。手続きと危険と制限の塊だった。誰かに触れれば助かる、という単純な話ではなかった。触れる前に形を整え、触れた後に代償が来て、触れ方を1度でも間違えれば、助ける側が倒れる。
「条文で読みますか」
サヴィエルが聞く前に、私は答えた。
「読みます」
羊皮紙を受け取った。細かい文字が並んでいる。術者の義務、被術者の同意、違反した場合の罰則——違反。「誓約の失効条件」という文言が、ふと、目に刺さった。誓約の空欄が、また別の重さを持った気がした。
私が条文を読んでいる間、レオンハルトはサヴィエルと短い言葉を交わしていた。聞こうとしたわけではないが、1つだけ耳に入った。
「君が倒れるなら、治らない方がましだ」
彼の声だった。サヴィエルに向けていたが、向き先は——私だった。
羊皮紙を机に置いた。
「まし、なんて言わないで」
自分の声が思ったより平坦だった。怒りではなかった。胸の奥で、何かが静かに裂ける感じがした。
「あなたが痛いのは、私の都合でもある。……治らなくていい、は私には言えません」
沈黙が落ちた。
サヴィエルが羊皮紙の縁を揃えながら、何も言わなかった。銀盆の黒い底が、部屋の光をわずかに吸い込んでいた。
レオンハルトは私の方を見ていた。言葉を探している顔だった。でも出てこなかった。彼はそういう時、いつも目を1秒だけ閉じる。今もそうした。
私は自分の手の先を確認した。インクの染みが残っている。昨夜も帳面を持ったまま眠った証拠だ。この手で彼に触れれば、毒が逆向きに流れる——条文の言葉が、今さら体温を持って戻ってきた。治さなくていい、なんて言えるはずがなかった。それは私の問題でもあった。
机の上の羊皮紙の隅に、細い線が1本引いてあった。誓約の「意思の合致」という項目を、誰かが後から書き加えた跡だった。その1行だけが、他の文字より少しだけ濃かった。
廊下に出ると、神殿特有の石の冷えが足元から来た。
浄化の手順を聞いた後の熱が、頭に溜まっていた。立ちくらみではなく、もっと単純な疲れだった。昨夜も帳面を持ったまま眠り、今朝は水しか飲んでいない。革表紙を左腕に抱えたまま、1歩踏み出した瞬間、体が右へ傾いた。
壁に手をつこうとして、腕が間に合わなかった。
誰かの腕が、脇に入ろうとした——直後に、止まった。
「触れてもいいですか」
声が来た。低く、しかし確認の形をしていた。
私は壁を片手で押さえながら、彼の顔を見た。抱き上げる直前で止まっていた。手は私の肩の近くに在ったが、触れていなかった。
「……許可を、毎回取りますか」
「君が選ぶまで、触れない。……規定だけじゃない」
私は息を吐いた。祈祷紐がなければ逆流する。今は持っていない。だから彼は止まった。でもそれだけじゃないと、彼は言った。
「大丈夫です」
「大丈夫に見えない」
「見えなくても、立ちます」
壁を押して体を起こした。足が少し震えていたが、声には出さなかった。呼吸を1つ整えて、廊下の先を見た。
レオンハルトは1歩引いたまま、動かなかった。近くに在って、触れない。それが今の彼の守り方なのだと、今日初めて、はっきりわかった。
台所から声が飛んできた。
「宰相様、抱き上げる前に手を洗ってください」
ミレイユだった。廊下の向こうから、扉も開かずに言い当てた。
「記録官が怒ります」
クラウスが台所の入口で眼鏡を外した。「……誰も抱き上げると言っていません」
ミレイユは白湯を木盆に載せながら、こちらを1度だけ見た。それ以上は言わなかった。言わなくても、全部わかっていた顔だった。
クラウスが胃薬の小瓶を静かにしまった。
「食べてから戻ります。手順です」
誰かが笑いそうになって、笑わなかった。その間が、今日いちばん柔らかかった。白湯を両手で包んでいると、指先の震えが、少しだけ止まった。
帰り支度をする間、レオンハルトが祈祷紐を手首に巻いたまま、端を直していた。
サヴィエルから預かった練習用の紐だった。正式な浄化の前に結び方を覚えておくための、仮のものだ。彼の指が結び目の端を引いて、形を整える。その角度が——昨日書庫で見た挿絵の結び方に、少しだけ似ていた。
個人の癖が紐の形に残る。サヴィエルが言った言葉が、静かに戻ってきた。この結びも、誰かが見れば、彼の「手」と読めるかもしれない。
私は革表紙を親指で撫でた。帳面の17番が欠けていた。欠け方を知っていた手の癖と、この結び目の角度と——今はまだ、繋がらない。でも繋がる気がした。
「君に——」
レオンハルトが言いかけて、息を飲んだ。
祈祷紐の端を持ったまま、動かなかった。
私は顔を上げた。彼は結び目を見ていた。いや、見ていなかった。視線は紐の上にあったが、目が別のものを追っていた。
言いたいことと言えないことの間で、彼はまた、言葉を閉じた。
飲み込んだ言葉の続きが、廊下の石の冷えの中に溶けていった。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




