第25話 呪毒は、いつから誰の中に
帳面を開いたのは、夜が中ほどを過ぎた頃だった。
昨夜から気になっていた。綴じ目の奥に指を差し込むと、革が少しだけ緩んでいる。破れているのではない。糸が解けているのでもない。ただ——緩い。昨日まで、こんな遊びはなかった。
頁をめくり、番号を順に追う。1、2、3……15、16、18。
止まった。
17が、ない。
もう一度、指で頁を分けた。物理的に、頁の枚数は揃っている。厚みも変わらない。なのに番号の「17」だけが、そこに存在していない。紙を奪ったのではない——奪えば、厚みが変わる。破り取ったのでもない——破けば、綴じ目に痕が残る。
これは、番号の並びを知っていた手の仕業だ。
息を吸うと、胸の奥が静かになった。毒の痕跡を見つけた朝と同じ、感情より先に思考が走り出す冷たさだった。失ったのではない。欠け方が、何かを語っている。
革表紙を親指で撫でた。帳面の温度が指先に馴染む。
……順番に、確かめる。
蝋燭の灯が半分以下になっても、私は帳面を閉じられなかった。
17番。毒見記録では通常の配膳記録に当たる。省いても誰も気づかない——正確には、並びを知らない人間は気づかない。書式の外から覗いた人間なら、何番が何の記録かまで把握しているはずだ。
宰相府の外から、こちらの帳面の中身を知っている誰かが、いる。
翌朝、クラウスは机の上に封緘の道具を静かに並べていた。割印の台座、紐の通し穴が揃った束ね板、朱肉の小皿。私が入室すると、眼鏡の縁越しに一度だけ視線を向けてから、砂時計を反転した。細かい砂が、音もなく落ち始める。
「頁番号が1枚、飛んでいます。紙は残っています。番号だけが、抜けている」
「……いつ気づきましたか」
「昨夜」
彼は即座に眼鏡を押し直した。それだけで、彼の中で計算が始まったのがわかった。
「提出束への添付は、欠落として記録する形にします。空欄よりも、記録のある穴の方が、形式として強い。提出に間に合いますか」
「間に合わせます」
「では——割印と封緘の最終確認を今日中に。手順です」
胃薬の小瓶が机の端にそっと置かれているのを、私は横目で確認して、見ないふりをした。クラウスがそれを見られたくないのは分かっていた。封緘の束を確認しながら、ふと思った。内側の番号を知っている手——その手は、宰相府の受領手順にも詳しいはずだ。でも、その考えの先まで言葉にするには、もう少し確かめたいことがあった。
神殿の門は、昼を過ぎても石の冷たさが抜けない場所だった。
レオンハルトが先に中へ入り、私は半歩後ろについた。呪毒の治療方法を確認するために来た。誓約監督官——サヴィエルという、乾いた声をした男——が、私たちを出迎えもせず、入口の脇に立っていた。
「祈祷紐なしの接触は、逆流する」
挨拶の代わりに、その一言が来た。
「1日1度。一定時間の接触のみ。紐を外した状態で触れれば、毒が術者へ跳ね返る。これは規定ではなく——物理だ」
レオンハルトは何も言わなかった。私も言えなかった。彼の指先が、腕の脇で僅かに動いた。痛みが走ったのかもしれない。それとも——こちらへ向かいかけて、止めたのかもしれない。
書庫番に案内された古文書棚は、黴と蝋の匂いが入り混じっていた。
サヴィエルが1冊を引き出し、黙って頁を開いて示した。数十年前の呪毒治療の記録だった。文字より先に、目が挿絵へ引き寄せられる。
祈祷紐の結び方の図解が、3種並んでいた。
同じ種類の結びでも、紐の交差角度が微妙に違う。端の処理の仕方が、それぞれに異なる。まるで筆跡のように——個人の癖が、紐の形に刻まれていた。
サヴィエルが銀盆の縁を、指先で一度だけ叩いた。
「結びは祈りではない。……手が残る」
それだけ言って、彼は棚へ戻った。
挿絵の結び目の端が、小さく曲がって止まっている。描いた者の癖なのか、それとも実物の記録なのか。レオンハルトが隣に立っているのを気配で感じた。彼も同じものを見ていた。
「……覚えておきます」
私がこぼすと、彼は何も言わなかった。ただ、1秒だけ頁へ視線を落としてから、体を戻した。それで十分だった。
帰りの馬車の中で、彼の手が膝の上で微かに動いた。
次の瞬間、指先が白くなった。呪毒の波が来ている——それだけで、わかった。5年間、毒の痕跡を記録してきた目が、症状のかすかな変化を読んでしまう。私は無意識に手を伸ばしかけて——止まった。
祈祷紐が、ない。
「触れるな」
彼が言った。低く、押し殺した声だった。馬車の揺れが1つ挟まって、彼はまた息を吐いた。
「——いや、違う。君が選ぶまで、触れない」
引っ込めた手を、膝の上に置いた。彼の横顔を、正面から見た。無表情だった。だが指先の白さは、まだ残っていた。
「……頁が消えても、あなたの痛みは消えないんですね」
彼は答えなかった。窓の外が夕暮れに変わりはじめていた。消えない痛みを抱えたまま、毎日この馬車に乗って、割印の確認をして、証拠の束を整えている。それが当然みたいな顔をしていた。
当然じゃない。
でも今は、その言葉を声にできなかった。
宰相府の前で馬車が止まると、ミレイユが門の脇に立っていた。私が降りた瞬間、毛布が頭から降ってきた。
「神殿でも風邪は治りません。定時で寝ます」
「……これ、被せる必要がありますか」
「あります。足元が冷えています」
レオンハルトが黙って馬車を降りた。ミレイユが彼にも毛布の端を差し出して——一瞬固まった。差し出したまま、何も言わなかった。彼が無言で受け取った。ミレイユは無表情を保ったまま、踵を返して先に歩いた。
私は毛布を肩に掛けながら、帳面の革表紙を親指でそっと撫でた。
頁番号の並びを知っていた手。宰相府の内側に詳しい手。結び方で誰の手かが残る——サヴィエルの言葉が、3つ、静かに繋がった。
廊下の角で、レオンハルトが立ち止まった。振り返ったその表情は、馬車の中と同じ、感情のない顔だった。でも口を開きかけて、また閉じた。言いたいことと、言えないことの間で、彼はいつもそうする。
翌朝、神殿へ戻ると、サヴィエルは応接間の机の上に銀盆を置いて待っていた。
盆の底に、黒い沈殿が薄く広がっていた。
「浄化以外の道は、もう残っていない」
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