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「完結済み」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第4章 帰国命令、帳面を奪いに来た

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第23話 言葉の前に、膝が落ちる

 頁番号の言葉が、朝から頭を離れなかった。


 使者ハインツが撤退する直前に呟いた「欠けていたはずだ」という言葉を、何度も繰り返した。帳面の頁を誰が知っているか。見た者か、聞いた者か。クラウスの答えは簡潔だった。でも答えが簡潔であるほど、問いの先が広くなる。その広さを、今朝から胃の奥に抱えていた。


 廊下を歩いていた時、2歩前を行くレオンハルトの足が止まった。


 何もない場所だった。窓もなく、扉もなく、ただ石が続く廊下の中ほど。革靴の底が張りついたように動かなくなって、一拍置いてから、また歩き始めた。振り返らなかった。壁に手をつく気配もなかった。


 でも見えた。


 左の手袋の指先が、壁の方向へわずかに動きかけて、止まった。1センチか、2センチか。届かなかった場所で止まった指が、かすかに開いたまま戻された。


 昨日の応接間で、玄関ホールで、彼は一度も表情を変えなかった。外交の言葉を使う時の声に、感情の揺れを乗せなかった。それが彼の強さだった。でも強さの裏側は、どこかに出る。今、この廊下で、出ていた。


 呪毒の反動は、見せない場所に来る。知っていた。知っていて、何も言えなかった。触れていい根拠がない時に、触れたいという思いだけ持っていても、空気を揺らすだけで何の力にもならない。


 彼の背中が廊下の先へ進んでいった。午後の光が長く差して、石床に影を作っていた。私は2歩遅れて、後を追った。



 治療室の机の上に、誓約文が置かれていた。


 クラウスが先に来ていた。書類の角が一か所の乱れもなく揃っていた。眼鏡の位置を直してから、私とレオンハルトの両方を見た。


「昨日の交渉の結果を踏まえて、誓約文の条項を再確認しました」


 声は静かだった。静かなまま、正確だった。


「浄化に必要な身体接触については、双方の意思の一致を条文で確認する必要があります」


 クラウスが書類の一か所を指した。


 空欄だった。


 意思の一致、と印刷された一行の下に、書かれていない余白があった。小さかった。白いままだった。誓約文全体の中で、そこだけが埋まっていなかった。


「この欄が未記入のままでは、次の浄化は——条文上、違反になります」


 言い切って、クラウスがポケットから胃薬を出した。机の端に、静かに置いた。


 レオンハルトが窓の方を向いたまま動かなかった。


「……意思の一致というのは」


 私が聞いた。喉が少し乾いていた。


「双方が同じ目的のために、同じ言葉で合意していること、です」


 同じ言葉。


 私は余白を見た。余白は白いままだった。誰かが先に声にしなければ、紙の上に降りてこない。どちらかが先に言わなければならない。どちらかが言えば、それは条文になる。条文になれば、触れていい理由になる。でも——


 クラウスが咳払いをした。


 室内が静止した。


 私とレオンハルトが同時に固まった。咳払いが何を意味するか、この2人にはもう分かっていた。証人の合図だった。記録に残る場所に、証人がいる合図だった。


 クラウスが書類の角を一度だけ揃え直した。それから立ち上がり、胃薬を胸ポケットに戻した。


「……定時ですので」


 定時ではなかった。午後の途中だった。誰もそれを言わなかった。扉が開き、閉まり、廊下の足音が遠くなった。



 部屋に2人が残った。


 しばらくして、廊下のどこか遠い場所で、湯が沸く気配がした。小さな音だった。聞こえるか聞こえないかの、かすかな水音。ミレイユが台所に向かったのだと、理由もなく分かった。聞こえないふりをする気配だった。


 沈黙が落ちた。外から小鳥の声が一度だけ来て、また静かになった。


 レオンハルトが振り返った。手袋の左手が止まった。外す動作の途中で止まった。革の端を指でつまんで、それ以上動かなかった。


「今日の反動は」


 私が言った。言ってしまってから、踏み込みすぎたと思った。でも取り消せなかった。


「大したことはない」


 声は平らだった。平らなまま、彼が左膝を折った。


 ゆっくりだった。制御された動作だった。なのに最後の数センチだけ、重力に引かれて石床に落ちた。膝が床に当たる音が、静かな室内に広がった。


 私は動けなかった。


「……遅かった」


 低い声だった。命令の声ではなかった。


「浄化を続けるための形を整えるより、形式を後回しにした。君への時間を、条文より先に考えるべきだった。それは——私の落ち度だった」


 手袋の指先が、膝の前の石床に置かれた。触れて、止まった。


 謝罪だった。言い訳のない、謝罪だった。


「縛りたくない、と言い続けた。でも——縛り方を間違えたのは私だ」


 遅かったと言う時、本当に遅かったと分かっている声だった。膝をついた背中が広かった。屈服の形ではなかった。自分で選んで降ろした重さの形だった。外では制度の言葉で刃を折る男が、この部屋だけで、誰にも見せない痛みを床に置いた。


 喉の奥で、言葉が動いた。


「縛られるのが、怖いんです」


 声が出た。口から出てから、もう続きが止まらなかった。


「でも——あなたの謝罪は、怖くない」


 言葉より先に、指が動いた。


 机の上の誓約文の余白に、ペンが伸びた。インク壺から羽根ペンを取り上げて、印刷された条文の横の、ほんの小さな欄外に——月の形を、描いた。


 描いて。


 止めなかった。


 20話の時に書きかけて止めた形だった。その時は消した。今は消さなかった。消す理由が見つからなかった。消したくなかった。


 レオンハルトが顔を上げた。机の上の余白を見た。月の形を見た。見て、一瞬だけ何かが彼の目の中を動いた。手袋の指先が、革の端を握った。


「君は——」


 扉が叩かれた。


読んでいただき、ありがとうございます。


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