第22話 奪う言葉と、守る言葉
明け方に、廊下で物音がした。
目が覚めた瞬間に分かった。足音が多かった。1人ではなく、2人か3人。革靴の底が石床を叩く、硬い音。侍女の足音ではない。夜明け前の宰相邸に、そんな音を立てる客は1種類しかいない。
私は帳面を抱えて上体を起こした。
部屋着のまま、足音の方向を確かめた。廊下に出る前に、扉の横で止まった。ノブに手が届く前に、外から声がした。
「セレーナ・ヴォルマーに面会を請う。母国使節ハインツ・ラングの命による」
時刻は夜明け前だった。「面会を請う」という言葉が使われていたが、時間帯がすでに会話を許さない圧だった。
扉を開けようとした手が止まった。
ミレイユが先に動いていた。
「お引き取りください」
廊下から、はっきりとした声が来た。眠気のかけらもない、整った声だった。
「館の中での面会は、事前に管理人の許可が必要です。許可はございません。明朝改めてお越しいただくか、書面でご連絡ください」
「命令書がある。国の名において——」
「館の規則は国名より先に動きます。どうぞ」
廊下の沈黙が、3秒ほど続いた。足音が後退した。ミレイユが扉の向こうで小さく息を吐く音がした。
私は帳面の角を親指で撫でていた。反射だった。気づいた時にはもうしていた。
ミレイユが部屋に入ってきたのは、それから数分後だった。
「驚かせてしまいました」
「……大丈夫です」
大丈夫ではなかった。口から出てしまってから気づいた。ミレイユがその答えを信じていないのが、目を見れば分かった。信じないまま、毛布を肩にかけてくれた。
「夜明けには閣下に伝わります。それまでここにいてください」
私は頷いた。帳面を膝の上に置いた。
この帳面を奪いに来た。扉1枚で今夜は止まった。でも明朝、使者は正面から来る。
机の引き出しに、昨夜整えた書類があった。領収の束。購入控え。日付と金額が全部揃っている。昨日の応接間で机に置いた時の、ハインツの視線を思い出した。動いた。あの視線は「想定外」の動き方だった。
だから次は、もっと強く来る。
帳面の背表紙が手に馴染んでいた。5年分の膳の記録。毒見の記録。奪われたら、奪われるのは紙ではなかった。5年間、私が人として動き続けた証拠ごと消える。
指先に、細かい震えが来た。来たことを、確認した。止めなかった。
午前の正式な面会が始まった時、ハインツは護衛を3人連れていた。昨日より1人多かった。物理的な圧を増やすという意味だと、分かっていた。
玄関ホールでレオンハルトが待ち受けた。書類は持っていなかった。手袋は着けたままだった。
「朝の訪問に感謝する」
声に感情がなかった。外交儀礼の形だけを取り出した、温度のない言葉だった。
「帳面の返還について、正式な回答を」
「昨日の要請に対する法的根拠の文書が、まだ届いていない」
ハインツの眉が、わずかに動いた。
「返還を求めるなら、所有権の根拠を先に提示するのが手順だ。手順を踏まずに返還を迫るなら、それは外交上の正式な要求ではなく——圧力になる」
「我が国の命令書がある。これ以上の根拠は——」
「命令書の内容と法的効力の範囲を、文書で確認させてほしい。写しを預かれるか」
ハインツが止まった。命令書の写しを相手方に渡すということは、その内容が精査されるということだった。精査に耐えられるかどうかは、使者ではなく本国の判断が必要になる。
時間がかかる。時間は、今こちら側に必要なものだった。
護衛の1人が、ハインツの耳に何かを言った。ハインツの手袋の指が、封蝋を押し直す動作をした。圧の形をした時間稼ぎだった。昨日も見た動作だった。
「帳面を引き渡せ」
ハインツが私を見た。初めて、直接私に向けた言葉だった。レオンハルトの方ではなく、私を見た。
「国の物だ。それ以上の理由は必要ない」
呼吸が浅くなるのを感じた。昨日も来た。一昨日も来た。「国の物」という言葉が来るたびに、首の後ろが冷えた。5年間聞かされ続けた「不要」と同じ芯を持つ言葉だった。
引かなかった。
「これは私物です」
声が出た。平らだった。自分でも意外なほど、平らだった。
「書材店の購入控えを昨日提出した。日付も金額も私の署名もある。——だから、奪うなら」
息を一度だけ吸った。
「——私ごと奪ってください」
ハインツが動かなかった。護衛も動かなかった。レオンハルトが私の左隣に立っていた。後ろではなく、隣だった。
「奪わせない」
低い声が、隣から来た。
「君に触れる権利を持つのは、君自身だ」
手袋の指先が、私の左腕の横で止まった。触れなかった。触れなかったが、止まった。
応接間では、クラウスが書類を広げていた。
「昨日の要請への回答草案を作成した」
書類の角が、いつも通り揃っていた。揃っていない場所が一か所もない。
「帳面に関する所有権の帰属について、当府は法的根拠に基づき異議を申し立てる。また、今回の返還要求については、外交文書としての形式を整えた上で——諸国会議へ提出することも検討している」
クラウスが最後の一文を読み上げた時、ハインツの顔色が変わった。
微かだった。しかし確かに変わった。封蝋を押し直す指が、止まった。諸国会議という言葉が、使者の顔の上で何かを計算させた。
ミレイユが盆を持って入ってきた。
「失礼いたします。お茶をどうぞ」
全員が一瞬、ミレイユを見た。ハインツも護衛も、クラウスも、私も。ミレイユは全員に等しくお茶を配りながら、ハインツの前にカップを置いた。
「奪う前に、飲んで落ち着いてください。冷めると味が変わりますので」
誰も何も言えなかった。
ハインツが封蝋に触れた。一度、二度。それから口を開いた。
「……再度、本国に確認の上、正式な文書を送る」
撤退の言葉だった。今日は、ここまでだった。
使者が出て行った後、クラウスが書類を束ねながら小さく息を吐いた。
「会議提出の語だけで、あれだけ顔色が変わるとは」
「有効だということです」
私が言うと、クラウスが眼鏡の位置を直した。
「……本国に確認する、ということは数日かかります。その間に誓約文を整えられれば——」
「整える」
レオンハルトが短く言った。
「明後日までに形を整える。……間に合わないなら、私が間に合わせる」
クラウスが咳払いをした。紙の角を揃える音がした。
「そういえば」と、クラウスが声を落とした。「撤退する直前、ハインツが何かを言いかけていました。聞こえましたか、セレーナさん」
聞こえていた。
ハインツが口を開きかけた時、私の耳に届いた語があった。ほとんど呟きのような音だった。護衛に向けた言葉だったかもしれない。でも確かに聞こえた。
「……その頁番号、確かに欠けていたはずだ」
頁番号。
帳面の頁番号。
その言葉が、胸の中で止まっていた。ハインツが中身を知っている。それだけなら、誰かが報告した可能性がある。でも——「欠けていた」という言葉は違った。欠けているということを知っているのは、帳面を直接手にしたことがある者か、それを誰かから聞いた者だけだった。
使者が、どこで、その番号を知ったのか。
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