第17話 言ってしまえば壊れそうで
夜の回廊で、引き出しの鍵が回る音がした。
一度だけ。それきり止まった。
夕刻以来の余韻が、まだ手の甲のあたりに残っていた。眠れなかったわけではない。眠ろうとしなかっただけだ。帳面を開いたまま閉じられなかっただけで、布の上に座って気づいたら夜が深くなっていた。自室の扉を出たのは、理由があったからではない。廊下の端で光がちらついて見えた気がしたから、それだけだ。
石床に足をつけると、夜気が足首から這い上がってきた。宰相邸の夜はいつもこうだ。昼間の書面と手続きの密度が嘘のように、廊下には音がない。
だから遠くで人が立っているのが分かった。
クラウスだった。執務室の方向、廊下の折れ曲がった先。見張りの立ち方ではなかった。体の向きが少しだけ斜めで、どこかを守るように間を取っている。こちらには気づいていないか、気づいていて見なかったことにしているかのどちらかだった。どちらでもいいと思った。クラウスが廊下に立つ時、それは締切か、あるいは誰かを囲んでいる時だ。
私は少しだけ反対側へ歩いた。
そこにレオンハルトがいた。
窓際だった。夜の外を見ていたのか、あるいは何も見ていなかったのか。振り返り方が、一拍だけ遅れた。黒手袋はしていなかった。今更それが気になるのは、昼間に一度外した場面を見たからだと思う。素手のままの人間が夜の廊下にいると、何かが違って見えた。
「眠れなかったのか」
「……書いていたら遅くなりました」
嘘ではなかった。半分は本当のことだった。
沈黙があった。昼間の書面と同意書と署名の後の沈黙ではなく、それより一段だけ違う種類の静けさだった。名前を付けるなら「残り物」だと思った。言葉にならなかったものが、夜の廊下に溜まっている。
「帳面は」
「持ってきていません。今夜は」
なぜかそれが少し恥ずかしかった。帳面を持たない私は、記録官として以前に何なのか。でも持っていたら持っていたで、帳面を押さえることで感情を誤魔化していた気がする。今夜は誤魔化せなかっただけだ。
レオンハルトが窓の方を向いたまま、口を開いた。
「君に、言わなければならないことが」
喉が詰まった。
昼間の「必要だ」が戻ってきた。廊下で飲み込んだ続きが、今夜出てくるのかと思った。「必要だ」が来たら今夜の私はどうする。昼間と同じように心拍が上がって、手の中に何もないから押さえる場所もなくて、ただ返事をするしかない。でも今夜は、何を返せばいいのかが分からなかった。
彼が振り返った。目が合った。
言葉が出てこなかった。
私の方が先に、口を開いてしまった。
「……それが必要だから言うなら」
声が出てから、止まればよかったと思った。止まれなかった。
「私、また道具になります」
廊下の空気が、一瞬だけ固まった。
レオンハルトの顔が動いた。怒りではなかった。私は怒りを予想していたから、その反応に一秒遅れた。彼の表情に走ったのは――痛みに似た何かだった。眉が一段下がり、口元が結ばれ、それきり元に戻るのが遅れた。仮面が追いついていなかった。
「……道具だと思ったことは、一度もない」
声が低かった。静かだった。怒っていないのに、かえって胸に刺さった。
「分かっています」
分かっていると思う。分かっていたい。でも、と続けようとして、続けられなかった。
「……言われるのが怖いんです」
喉の奥から出てきた言葉が、思ったより小さかった。
「必要だが、いつも奪う側の言葉だったから」
石床に落ちるように静かだった。拾い直せなかった。
5年間、毒見役として必要とされた。必要であるうちは安全だと思っていた。「必要だ」は守られる言葉だと信じていた。そして「不要だ」のひと言で、帳面ごと、人間ごと、捨てられかけた。だから「必要だ」という言葉が来るたびに、その後ろに回収の影が見える。いつか終わりを宣言するために、先に「必要だ」と言っているだけなのではないか、という恐怖が来る。
分かっている。レオンハルトはそういう人間ではない。分かっている。
それでも言葉が先に来てしまう。
沈黙があった。長い種類の沈黙だった。クラウスが廊下の向こうで動く気配がしたが、近づいてはこなかった。
「奪うために言うなら、私は沈黙する」
レオンハルトの声だった。
「——守るために言う日は、必ず来る」
言葉の重心が、最後の一文に全部乗っていた。「必ず」という言葉を彼が使うのを聞いたのは初めてだったかもしれない。断言する人間だとは知っていたが、未来に向けた「必ず」はこれまでなかった。期限と手続きと事実の人間が、未来に「必ず」を置いた。
それが何を意味するのか、すぐには整理できなかった。
整理しようとした瞬間、扉の向こうから声がした。
「五時は過ぎました。寝ます」
ミレイユだった。
部屋の扉越しに、ただそれだけ言った。権利を宣言するような声だった。聞き間違いようのない音量で、廊下に届くように言った。扉は開かなかった。足音だけが少し動いて、止まった。
廊下の空気が一段だけ変わった。
私は息を吸った。レオンハルトがこちらから視線を外した。仕事の顔に戻っていた。いや、戻ろうとしていた。少しだけ時間がかかっていた。
「……おやすみなさい」
返事は短かった。
「おやすみ」
それきりだった。
自室に戻って扉を閉めてから、帳面を拾い上げた。今夜のことを書こうとして、ペン先が止まった。廊下で聞いた「必ず来る」という言葉の形が、まだ耳の奥にあった。書けなかったのは、事実だけでは足りなかったからだ。
帳面を閉じる前に、遠くで引き出しの鍵が回る音が、もう一度だけした。
今度は、かけた音だった。
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