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「完結済み」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第3章 返還要求の前触れ――噂が走る

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第16話 書面に落ちる、触れる理由

 クラウスが机の上に紙を置いた瞬間、空気が変わった。


「同意書の雛形です。念のため、です」


 その「念のため」が、今日に限って重かった。


 白い紙。標準書式の罫線。私はそれを見た瞬間、反射的に革表紙を手で押さえた。帳面は膝の上にあった。角を揃える必要もなかった。それでも手が動いた。習慣というのは、恐怖の形をしている。


 噂が紙になった。紙が街に撒かれた。宰相府の動線と重なる地点に。内側から漏れた可能性がある。だから接触に正当な根拠を持たせる書面が要る。宰相が浄化の処置をする際に、「同意を得た」という記録を残す。誰かに見られても説明できるように、形を整える。合理的だ。正しい。


 それでも喉の奥が、少し詰まった。


 5年間、毒見役として働いた。「必要だ」と言われ続けた。そして「不要だ」のひと言で帳面ごと切り捨てられた。帳面は私物だったから奇跡的に手元に残ったが、人間ごと処分されかけた。それが過去だ。記録がある。事実だ。


 なのに今、「必要とされる」ことを書面で保証しようとしている。書面がある触れ合いは、正当だ。書面がない触れ合いは、噂の燃料になる。その区分けが、私の今いる場所の現実だった。


「……書面で守られる、ということですね」


 自分でも気づかないうちに言葉が出た。クラウスが紙端を揃えた。机の角に対して正確に平行に。何も答えなかった。答えられないから整えているのだと思った。胃薬の小瓶が袖の中で鳴った音がした。


「書面があれば、形式上は問題ありません。……それだけです」


 それだけ、という言葉が全部だった。私は雛形を受け取った。手が少し冷たかった。



 執務室に呼ばれたのは、それから半刻後だった。


 部屋に入ると、レオンハルトが書類机の前に立っていた。黒手袋のままだった。だが私が近づくと、彼は静かに手袋を外し始めた。指の1本1本を丁寧に、順番に。その動作が儀式のように整っていて、私は視線を外せなかった。手袋を外すのを見たのは初めてではないのに、今日は見てはいけない気がした。


「署名の位置を確認しろ」


 命じる声。私は指示された箇所に目を移した。


 提出者欄。証人欄。日付。そして最終行に、備考欄。


 ペン先が止まった。


 備考欄は白かった。何かを書いていい場所。何かを書かなければならない場所ではない。でもその空白が私に何かを問いかけていた。書くなら何を。書かないなら、永遠に白いまま。指先がペンを宙で1度だけ止めた。


 書かなかった。


「……紙に書いた瞬間、逃げられなくなる気がします」


 言ってから少し後悔した。弱音だ。でも飲み込めなかった。


 レオンハルトが顔を上げた。目が合った。


「逃げ道は残す」


 声が静かだった。続く言葉に1段だけ重心が変わった。


「——だが触れていい理由は、君に渡す」


 胸のどこかが詰まった。痛みに似ていた。「触れていい」という言葉を声にする人間を、私はこれまで知らなかった。触れる側が「理由」を持てるということを、言葉にする人間を。


 ペンを持ち直した。名前を書く。セレーナ・フォルマー。インクが紙に吸い込まれていく間、指先が小さく震えていることに気づいて、机の端を静かに押さえた。書面が鎖に見えた。書面が盾に見えた。どちらでもある気もした。どちらでもない気もした。


 そこでクラウスが咳払いをした。


 私とレオンハルトが同時に固まった。


 クラウスは何も言わなかった。机の端に胃薬の小瓶を静かに置いた。クラウスが胃薬を机に置くのを見たのは初めてだった。いつも袖の中に隠している。それを出して置いた。無言で退室した。扉が閉まる音だけが残った。



 部屋に2人だけになった。


「手を」


 レオンハルトが言った。命令ではなかった。確認だった。


「……はい」


 息を整えた。革表紙から手を離した。


 彼の指が、私の手の甲に触れた。手袋を外した素手で。熱が線になった。


 呪毒への対処のための、浄化の試し、と頭では理解していた。書面がある。同意がある。証人欄も形式も、すべて整っている。正当化された接触だ。噂が紙で広まっても、この書面があれば反論できる。手続きの上での行為だと示せる。合理的だ。


 それでも指先に残る熱は、手続きとは別の言葉で体に刻まれていった。


 触れた時間は短かった。数えられないほどだった。でも私の呼吸は、その間ずっと浅いままだった。熱が引いた後も、手の甲が自分のものではない気温を持ち続けた。



 回廊に出ると、夕刻の光が廊下に斜めに差し込んでいた。


 レオンハルトも同じ方向だった。並ぶでもなく、少し間隔を開けて歩いた。触れた直後だった。彼の声から仕事の硬さが1枚だけ剥がれている感触があった。私の胸の中でも何かが緩んでいた。書面があれば触れていい。形式が整えば近づいていい。そういうことだった。そういうことのはずだった。


 でも手の甲の熱はまだ残っていた。形式には温度はない。


「……大丈夫でしたか」


 聞いた瞬間、余計だったかと思った。


「問題ない」


 短かった。でも「問題ない」がいつもより少しだけ長く聞こえた。響き方が違う気がした。


 窓の外で鳥が鳴いた。廊下の石床が夕光を薄く返していた。


 レオンハルトが口を開いた。


「君が——」


 歩みは止まらなかった。でも声が止まった。続きを探すように、1度空気を置いた。私の心拍が上がった。「必要だ」が来たら、今日の私はどうするだろう。逃げるだろうか。あるいは。


「——必要だ」


 続きが落ちてきた。


 落ちてきた瞬間、私の手の中で帳面の革表紙が音を立てた。握ったのか握り直したのか、覚えていなかった。その音が廊下の空気を少しだけ揺らした。


 沈黙があった。


 レオンハルトが1度口を結んだ。


「明日、書面を改めて確認する」


 仕事の顔に戻った。


 私も戻った。


 それで終わりだった。


 でも自室に帰ってから、帳面を開いて今日の記録を書き始めて、ペンが止まった。


 今日のことを書こうとした。同意書。署名。備考欄の空白。短い接触。手の甲の熱。


 ペンが進まなかったのは、事実の列挙が終わった後だった。事実より先に、感触の記憶が来た。「触れていい理由は、君に渡す」という言葉の形が。そして廊下で飲み込まれた続きの気配が。


 備考欄のことを思い出したからではない。


 「必要だ」という言葉が、今夜は怖くなかった。


 それがいちばん、怖かった。

読んでいただき、ありがとうございます。


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