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「完結済み」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第3章 返還要求の前触れ――噂が走る

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第15話 返還要求まで、残りわずか

 クラウスが紙を広げた瞬間、室内の温度が下がった気がした。


 小会議室。白い壁。窓の外に午前の光。その中で、彼の声だけが鉄の温度を持っていた。


「返還期限——7日後。審議受付の締め切りは4日後。回答は書面のみ。口頭異議は受理しない」


 数字だけが、空気の中を降ってくる。


 私は椅子に座ったまま、帳面の角を揃えた。1回、2回。手が動くたびに呼吸の深さが少し戻った。


 7日。4日。


 声にしてみたら、どちらも短かった。長さを確かめる余裕がなかった。


 レオンハルトが立っていた。会議室の窓際、腕を組んで壁に体重を預けている。表情はいつもと変わらない。でも私は、彼の右手の指先が手袋の上から拳に近い形になっているのに気づいていた。押さえている時の形だった。


「間に合いますか」


 声が出た。問いだったのに、断定に近い言い方になった。


「間に合いますか、ではなく」


 クラウスが紙を畳んで机に置いた。


「——間に合わせるしかないんです」


 1語1語が固かった。責めているわけではなかった。ただ彼は、それしか言える言葉を持っていなかった。


 正しかった。私もそれしかなかった。


 


 書類机に戻って、反論の下書きを始めた。


 1行目は書けた。2行目で手が止まった。止まった理由が自分でも分からなかった。文字は頭にある。ペンは手にある。なのに指先が細かく震えていた。


 帳面の角を揃えた。今度は3回。


 呼吸を整えてもう一度ペンを当てた。


 返還要求への反論書面には形式がある。日付、提出者、対象書面の番号、異議の根拠。宰相府の様式に従えばいい。従えるはずだった。でも根拠の欄に差し掛かった瞬間、指が止まった。


 根拠。


 この帳面は私物だ。自費で買った。公の記録庫には出していない。誰も手続きをしなかったから、私物として残った。それが根拠だ。事実だ。間違っていない。


 間違っていないのに、書いていると手が震えた。


 正しい言葉を並べた書面が、ひっくり返されたことを知っていた。向こうが「形式外」と言えば却下できる。手続きは武器にも盾にもなる。使う側が先に知っていれば、それだけで有利になる。


 割印を押す手、と頭に浮かんだ。書面に割印を入れる時、宰相府の規定では左から右。母国の官庁は右から左。その差が、写しの正当性に影響する。細かすぎる話だった。でも細部でしか戦えない局面があることを、私は5年間の記録で知っていた。


 


 昼を過ぎた頃、執務室の前を通った。


 扉が少し開いていた。声をかけようとして、止まった。


 レオンハルトが窓際に立っていた。さっきと同じ姿勢に見えたが、違った。右手が机の縁に触れている。支えている。体の重心が、普段より低い位置にあった。


 私は廊下に立ったまま、動けなかった。


 今朝からずっと分かっていた。手袋の上からでも、指先の形が教えてくれた。痛みがある。それでも彼は立っていた。前に出ていた。声の温度を変えなかった。


 触れればよかった。


 1歩踏み出して、扉を開けて、何か言えばよかった。


 でも廊下の向こうでクラウスの足音がした。書類を抱えた音。近づいてくる前に、私は扉から離れた。


 


 回廊でレオンハルトと鉢合わせた。


 どちらも止まった。距離は2歩分。窓から午後の光が細く入って、二人の間の石床を照らしていた。


「書面の進みは」


 彼が先に言った。声は平坦だった。執務の声だった。


「……下書きは半分、です」


「期日に合わせろ。骨格だけ今日中に」


「はい」


 それだけだった。


 距離が2歩のまま変わらなかった。私が1歩近づこうとして、やめた。理由は言葉にならなかった。噂が紙になった。宰相府の誰かが漏らしている。今ここで距離を縮めることが、また誰かの燃料になる。


 頭では分かっていた。でも手が、帳面を抱えたまま動かなかった。


 言葉が1つも、埋まらなかった。


 距離だけが、そのまま決まった。


 


 夕刻、宰相邸の廊下にミレイユが出てきた。


 砂時計を片手に持って、無言で廊下の棚に置いた。砂は半分ほど落ちていた。


「五時です」


 声は平坦だった。告げているだけで、感情がなかった。


 私の手元の書類が止まった。クラウスが廊下の角で顔を上げた。レオンハルトの執務室から、ペンの音が消えた。


 全員が一瞬、黙った。


 返還期限まで7日。締め切りまで4日。その数字と「五時です」が同じ廊下の空気に並んだ。数字は揺るがなかった。砂は落ちていた。


「期限が来ても、湯は沸かします」


 ミレイユが言い足して、引っ込んだ。


 クラウスの眉間の皺が一瞬だけ緩んだ。私の肩からも、固さが少し抜けた。


 帳面を閉じた。


 期限は敵の刃だと思っていた。でも今日、気がついたことがある。向こうが「4日後に回答を寄越せ」と言ったなら、こちらが4日で整えて先に出せばいい。形を整えた側が、主導権を持つ。待つのではなく、間に合わせる。


 帳面の端に、それだけ書いた。


 ペンを置こうとして、手が止まった。


 鞄から返還要求の原文を出した。もう一度だけ読み返した。最初は日付と期限だけを追っていたから、気がつかなかった。


 文言の中に、聞き覚えのある言い回しが混じっていた。


 「誓約に基づく返還義務」。


 この言い方は、宰相府の法文書にはない。母国の官庁文書にも、私は見た記憶がない。


 これは——神殿の言い回しだ。


 誰がこの条文を貸したのか。


 帳面が、手の中で重くなった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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