第10話 眠らない職場と、帰れる夕暮れ
気づけば、窓の外が暗かった。
燭台に火が入っている。いつから灯っていたのかわからなかった。昼の光がとっくに消えていたのに、私はそれを認識していなかった。書類の束を揃える手はまだ動いていて、自分ではまったく普通の顔をしているつもりだった。窓を見て、暗いと思う。次の瞬間には手が動いている。夜に気づかないというのは、普通のことではないのかもしれない。でも、ずっとそうだった。
毒見役の5年間、夜が遅くなることに理由などなかった。晩餐が終わっても、翌朝の仕込みを確認し、納品証明を突き合わせ、記録を整える。部屋の灯が消えていなければ仕事をしているということで、誰も何も言わなかった。帰るのは眠れなくなってから。眠れなくなったらさすがに横になる。それが、私にとっての休息だった。
だから今夜もこうしている。そのことにまったく疑問を感じていなかった。暗くなっても続けることが当たり前で、当たり前の中にいると、暗さすら目に入らない。自分がそういう人間になったのかと今気づいた。なったのではなく、最初からそうだったのかもしれない。
「セレーナ様。5時を、2時間、過ぎています」
ミレイユが扉の前に立っていた。砂時計を手に持っている。
「……承知して——」
「承知しなくて結構です」
砂時計がくるりとひっくり返され、机の端に置かれた。
「帰ります。今です」
反論を探した。けれど砂が静かに落ちるのを見たら言葉が詰まった。立ち上がると膝が重かった。何時間座っていたのか本当にわからなかった。脚に感覚が戻ってくるのに、少し時間がかかった。
帰る、という行為が誰かに促されてするものだとは知らなかった。毒見役のとき、誰も帰れとは言わなかった。灯が消えていなければ仕事をしているということで、誰も気にしなかった。ここで帰っていいのか、という迷いが足元に残っている。帰っていけない理由がない。なのに体が、まだ「帰る理由」を探している。帰る、という言葉の意味が、私の体ではまだ決まっていないような気がした。
廊下に出ると、窓の外の暗さが改めて目に入った。宰相邸の庭に並ぶ灯籠が、石畳を穏やかに照らしている。暗いのに、明るかった。こういう夜が、あるのだと思った。毒見役だったとき、夜に外へ出ることは用があるときだけだった。用のない夜はなかった。用のない夜を、私は知らなかった。知らなかったことを、今夜初めて悲しいと思った。足が少し、重くなった。
灯籠の光が揺れた。風が来た証拠だった。光が揺れても消えなかった。こんな当たり前のことが、今夜は少し不思議に見えた。
玄関ホールに近づいたとき、扉が開いた。
「母国で毒事故です。王太子殿下が倒れました」
泥跳ねのブーツを履いた急使が息を切らして立ち、封緘のちぎれた文書を差し出していた。目が泳いでいた。伝えることで精一杯という顔だった。
足が止まった。
胸を何かが通り過ぎた。痛みでも驚きでもない、じわりとした冷たいものだった。
新任が、毒を見逃したのだ。5年かけて積んだ記録を「不要」と言い、引き継ぎを断った結果が、これだ。そう理解した瞬間、来たのは「ほら見たことか」ではなかった。
来たのは、恐怖だった。
急使がここへ来た理由は報せを届けるためだけではない。王太子が倒れたとき、誰かが「責任者」を必要とする。記録を持ち出した私を責任者に仕立てようとする者が、必ず現れる。証拠がどうとか、法がどうとか、そういう問題ではない。そういう場所だった。5年間、私はずっとそういう場所で生きてきた。誰かが倒れると、次の瞬間に視線が集まる。目が集まって、誰かの名前を呼ぶ。その予感が体の奥で、静かに目を開けた。
「原本を提出せよ——そう書いてあります」
急使が書面を差し出した。レオンハルトが受け取り、さっと目を走らせた。クラウスが傍らで静かに咳払いをした。
「対応は明朝にする。今夜は帰れ」
急使が何か言いかけたが、クラウスの視線で止まった。扉が閉まった。
沈黙が残った。沈黙の中で、私は自分の心拍を聞いていた。乱れていない。5年間でいちばん嫌だったのは、こういうとき心拍が乱れないことだった。怖いのに、体が静かになる。慣れすぎた証拠だった。私は砂時計のことを考えていた。5時。定時。砂が落ちた分だけ終わりになる仕組み。この国では、夜が来ても仕事は来ない。そんな場所が、あるのだとこの国へ来て3日で信じかけていた。でも母国の声は夜でも来る。来て、「責任者を出せ」と言う。砂が落ちきっても、終わらないものが、ある。
「セレーナ」
レオンハルトが私の方を見た。クラウスはいつの間にか少し後ろへ下がっていた。
「帰っていいなんて……私、何をすればいいんですか」
なぜそれを言ったのかわからなかった。急使のことも、原本のことも、明日来るだろう何かも、全部頭の中にあった。それでも口から出たのはそれだった。
「何もしないで生きろ。——それが、君の最初の仕事だ」
答えにならない答えだった。でも、膝の力がふっと抜けた。目の奥が、少し熱くなった。5年間、誰かのために記録していた。今夜だけ、誰かが「君は何もしなくていい」と言ってくれた。それが、こんなに重いとは思わなかった。
私は帳面の背を指で撫でた。今朝、街で自費で買った新しい帳面だ。表紙の硬さと、紙袋の紐の感触がまだ指先にある。公物ではない、私物の手触り。5年間、自分のために何かを買ったことがあっただろうか、と今さら思う。これが私のものだということが、まだ少し信じられない。
自室に戻ると、扉の前にミレイユが両腕に寝具を抱えて立っていた。毛布が2枚、枕が1つ。
「『何もしない』は難易度が高いので、練習します」
にこりとして部屋に入ってきた。私は扉に背をつけたまま、寝具が広げられる音を聞いていた。毛布が広がる柔らかい音がした。用のない夜に、寝具の音を聞いている。これが、普通というものかもしれない。
王太子が倒れた。急使は「原本を」と言った。明日また何かが来る。でも今夜だけは、砂が落ちる。終わりが来る。
倒れたのは毒か——それとも、3年分の原本が消えた、その穴か。
今夜は、まだそれを書かなかった。
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