第1話 「不要」の意味を、誰が知っている?
解任の言葉は、思っていたより短かった。
「セレーナ・ヴォルマー。毒見役の任を解く。不要だ」
謁見の間の高い天井が、その3文字を綺麗に吸い込んだ。金糸の刺繍が入った緋色の絨毯、白手袋の侍従たち、磨き上げられた石床――すべてがいつもと同じ温度で、ただ1人、エドヴァルド王太子だけが私の顔を見ていなかった。
5年間、膝をついてきた場所で、私は今、また膝をついていた。
違うのは、立つ理由がもう、ここにはないということだった。
「……承知いたしました」
口から出た瞬間、自分でも少し驚いた。首を切られる返事が「承知いたしました」とは。5年間の癖というのは、なかなか抜けない。
殿下の隣に立つマリアンヌ伯爵令嬢が、扇の縁で口元を隠しながら小さく笑うのが見えた。笑みが先にあって、目が遅れて動く、あの表情。私はその顔を何度も見てきたから、隠しようがなかった。
ざわめきが広がる。高い天井の下、数十人の貴族たちが私を見ている。正確には、見ているのではなく――見物している。
私は帳面を膝の上で押さえた。
黒い革表紙。擦れて角が丸くなった、使い込んだ帳面。今朝も持ってきたのは習慣だった。毒見役は記録する。何を食べたか、いつ食べたか、誰が運んだか。5年分の膳の記録が、この一冊に詰まっている。正確には、もう何冊目かも数えていないが。
「本日付けで退去せよ。引き継ぎは不要だ。記録も、不要だ」
殿下の声は滑らかだった。怒りも、後ろめたさも、そこにはなかった。
不要。
私の5年が、その言葉に全部収まった。
隣に誰かの笑い声が聞こえた気がした。あるいは、聞こえていないのに聞こえた気がしただけかもしれない。膝の下の石床は、今朝も冷たかった。毎朝冷たかった。5年間、ずっとそうだった。
私は帳面の背を指で撫でた。反射だった。不安になるとそうしてしまう、自分でも知っている癖。
革は手に馴染んでいた。公物らしくない温度が指先に残った。
――記録も、不要だ。
そう言われて初めて、私は気がついた。
奇妙なことだった。「差し出せ」と言われると思っていた。当然そうなると思っていた。だから帳面を渡す覚悟で今朝も抱えて来た。なのに殿下は「不要」と言った。
不要。つまり――渡せとも、返せとも、言わなかった。
この帳面は、私の手に残った。
震えが来るかと思ったが、来なかった。代わりに、奇妙なほど頭が冷えた。この感覚を私は知っている。膳に毒の痕跡を見つけた朝、いつもこうなる。感情より先に思考が動き出す、あの静けさ。
立ち上がらなければならなかった。
絨毯の端まで後退し、貴族たちの視線の海を横断しなければならなかった。誰も助けない。当たり前だった。5年間そうだった。ここで倒れたら、踏まれるだけだ。
だから立った。
膝が少し軋んだが、声には出さなかった。帳面を左手に抱え、裾を整え、一礼した。角度は正確に。礼を外したら負けだという気持ちが、どこかにあった。
「殿下」
声が出た。思ったより落ち着いていた。
「不要、ですか。では——不要になった私は、私のまま帰ります」
返事はなかった。
マリアンヌの扇が動いた。殿下は窓の外を見ていた。白手袋の指先が、微かに絨毯を叩いた。
それだけだった。
私は踵を返した。
視線が背中に刺さる。嘲笑と沈黙と、少しの困惑。誰かが何か言ったが、拾う気になれなかった。拾ったら負ける気がした。根拠はなかったが、そう感じた。
謁見の間を出るまでの距離が、今日だけやけに長かった。
回廊に出ると、石の冷たさが違う重さで肩に来た。人がいない。足音だけが響く。
私はそこで初めて、息を1つ、吐いた。
5年間。毒を記録し、膳を記録し、食材の産地を記録し、運搬経路を記録した。自費で帳面を買い、自分の時間で写しを作った。公の記録庫には出していない。出す場所がなかった。機密だと言われたこともある。なら機密の手続きをするべきだったと思うが、誰もしなかった。
つまり、この帳面は私物だ。
そこまで考えて、私は回廊の端に立ち止まった。
引き継ぎ、申し出てみよう。
殿下は「不要」と言ったが、次の毒見役が来た時、記録がなければ一から始めなければならない。それは私のせいではないが、放置するのは気持ちが悪かった。記録は因果だ。因果を切るのは、私の美学に反する。
それに。
帳面の背を、また指で撫でた。
捨てるのは帳面ではなく、あなたの命綱です——と言いたかったが、言わなかった。言える場が、もうなかった。
代わりに私は、引き継ぎを申し出るために、もう一度この廊下を歩くことにした。
戦い方はひとつしか知らない。記録することだ。記録することだけが、私にできた誠実さだった。
それならまだ、できる。
足音が響く。ひとつ、またひとつ。
冷たい石の上を、私は一人で歩き続けた。
背後で、誰かが廊下を曲がる音がした。足音が速い。追ってきているというより、急いでいる。
なぜ急ぐのだろう、と私はふと思った。
不要と言ったのは、殿下だ。不要なら、私が今日中にここを出る理由はない。明日でも、明後日でも、手続きを整えてからで構わないはずだ。
なのに、なぜ——
「今日中に出ていただく必要があります」
役人の声が背中に飛んできた。
日没までに、と続いた。
私は足を止めないまま、帳面を少しだけ強く抱えた。
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