理想的な生活
午前5時ちょうどに寝室から機械的な電子音が鳴り出す。
布団の中から生えた右腕が音源のまわりを弱々しく叩き出し、三度目にようやく目覚まし時計に触れる事が出来た。音が止まって少しの間布団は動きを止める。
だがすぐに中から中年の男が出てきて、枕元に置いてあった眼鏡を手に取って掛ける。
顔を洗い、身支度を整えてから食卓に向かうとすでに妻が朝食の支度を済ませて食卓についていた。
男と妻は互いに朝の挨拶をし、男も食卓についた。
新聞を読みながら味噌汁を啜っていると、妻から行儀が悪いと諭されたので大人しく新聞をたたみ食事に専念する。
男が食事を済ませたとき、ドアの向こうから寝呆け眼の息子がやってきて男と妻に朝の挨拶をする。男と妻は男の子に挨拶を返した。
男は一通り新聞を読み終えると時計を見て、スーツの上着を着て家を出発する。
妻と息子が男を見送った。
男の自宅から徒歩五分もしないところに地下鉄の駅があって、男は改札を抜けてホームの列に混じる。
列車が来るといつもと同じように3号車のホーム寄り右側の吊り革に捕まり扉が閉まるのを待つ。
電車の発車のベルが聞こえるとドアが音を立てて閉まり、電車の車輪が動き出した。
男の勤める会社はここから電車で30分のところにあるが、すぐ近くの駅で通勤の会社員や通学の学生が大量に乗り込んでくるので、満員のまま30分も電車に揺られなければならない。
息が詰まる満員電車の中、男はしばしば左足を踏まれ痛い思いをしているのだが、それでも目的駅まではなんとか我慢している。
半時近く寿司詰めの車内で揺られて、ようやく目的の駅に到着した。
人混みに流されるように改札を通り地上に上がる。太陽の眩しい地上に出ると目と鼻の先に男の勤め先がある。男は急ぐでもなくのんびりとするでもなくいつも通りに会社の門をくぐった
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男の働きぶりは真面目で、とりわけ高い地位にいるわけでもなくかといって低い地位にいるわけでもない。仕事も普通にこなし、人並みにやり甲斐も感じている。
給料もそこそこ多く貰っており、妻一人、子一人を養うには十分だった。
同僚たちとの関係も悪くはなく、今日も仕事終わりに飲みに誘われたので快く承諾する。もちろん普段は男の方から飲みに誘うことだって少なくはない。
仕事が終わるとそのまま行きつけの居酒屋まで行って真っ暗になるまでワイワイと飲んでいた。
終電になる前に散会し、男は人気のない深夜の地下鉄の駅で同僚たちと別れる。
改札を抜け、ちょうどいい具合に電車が来ておりそれに乗る。空いている座席を探す必要もないくらい電車内はガラガラで男は横に長い座席のど真ん中に腰をかけた。
朝とは違ってガラガラの終電前の電車の中で彼は一日の疲れを吐きだすようにゆっくりと呼吸をした。
窓ガラスを見ると自分の老けた顔がよく映った。二十代の時の情熱は今やもう薄れてしまい、燃費の悪い体で何とか頑張ってはいるが、気力そのものが無くなってしまったわけではない。
つまり男も人並みに年を取ってしまったということだ。
家族との関係も仕事もこれと言って問題は無く、むしろ良好と言えるほどだ。
平凡ながらも楽しい毎日、これはこれで十分満足していた。
「しかしまあ、たまには刺激的なことでも起こらんものかな。」
男は窓ガラスに移った自分の顔を見ながらふとそんなことを考えた。
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駅から自宅までの帰り道、良い気分で歩いていると背後から急に呼び止められた。
「すいません、ちょっといいですか。」
「なんですか、一体。こんな暗い中。」
男が振り向くと、そこにはスーツを着た男性が立っていた。彼はスーツを着てはいるもののどうしてもサラリーマンには見えない。
「いえ、私はとある大学の研究員をしてましてね。実は、ここ数日あなたの生活を観察させてもらっていたのです。」
「私の生活を? ひどいな、まるでストーカーじゃないか。」
「いやいや、誤解しないで下さい。私は決してそんな怪しいものではないんです。」
見るからに怪しい研究員は懐から名刺を一枚取り出した。そこには知らない人はいないというくらいの超名門大学の名前が書かれており、その下には総合生態学研究所と太くはっきりと印刷されていた。
「信じかねますね、そんなことは。」
「まあ調査の結果を聞いてください。実はですね、あなたの生活はなんと私どもが追い求めていた“理想的な生活”そのものだったのです。」
「理想的な生活? 私の生活が? そんな馬鹿な、私はこれといって特別なことはしてませんよ。」
「いえいえ、あなたほどの理想的な生活はなかなかおりませんよ。あなたのような方を私どもは探していたのです。」
その研究員が男を随分とおだてたため、酔いも手伝ってか男の警戒心はすぐに解かれた。
超名門大学のお墨付きと言うこともあり男はかなりの上機嫌になっている。
平凡な日常の中での、こんなちょっとした非日常な出来事がこんなにも嬉しいことだとは男も思ってもいなかった。
「そうですか? なんだか嬉しいな。それにしても私の生活が理想的だとはね。」
「そうです。あなたの生活は実に理想的な“平凡な”生活なのです。」
研究者の言葉に男は一瞬、耳を疑った。
「今、なんて?」
「理想的な“平凡な”生活です。私どもは現代人の生活について研究しておりましてね、あなたのような典型的とも言えるくらい平凡な人は絶好のサンプルなのです。」
「はあ。」
男は、さっきまで上気していた血液が一気に冷めて行くのを感じていた。
「つきましてはですね、今度は正式にあなたの生活を調査させていただきたいのです。もちろん謝礼は十分にさせていただきます。」
「いえ、結構です、やめて下さい。それじゃ。」
男は研究者の頼みをすぐに撥ねつけ、とぼとぼといつものように自宅へと帰った。
そして明日もまた平凡な毎日が始まるのか、と男は複雑な気持ちで考えていた。