第6話 緊張する超人
二人は走っていた。とにかく人目を避けての安全確保が優先だ、晶子は歌舞伎町の目抜き通りを突っ切ると抜け道としてよく利用する裏路地に逃げ込んだ。
「ハア、ハア、富士見野さん、腕、ヤバくない?」
息を切らせながら様子をうかがう晶子に晴久は精一杯の強がりを見せる。
「大丈夫っす、自分は不死身ですから」
そう言いながらも彼の顔は汗びっしょりでダメージを受けた左腕も力なく肩からだらりとぶら下がっていた。このままではマズい。もしここで次の襲撃があろうものならひとたまりもないだろう、早いところなんとかしなくちゃ。晶子は自分を落ち着かせるため胸に手を当ててまずは深呼吸した。
一呼吸、二呼吸、やがて気分も落ち着いてくる。すると前にミエルが言っていた言葉が頭に浮かんできた。
「困ったときには周りの人たち、できれば大人たちに相談すること。きっと助けてくれるから」
晶子はトートバッグからスマートフォンを取り出すと登録してある番号を呼び出した。
「もしもし、月夜野? 晶子なんだけど、ちょっと助けて欲しいし」
会話をしながら晴久の様子をチラ見するも、彼は狭い路地の壁に寄り掛かるようにして肩で息をしながら地面を見つめていた。かなりつらいに違いない。
「それじゃ、よろしくだし」
そう言って通話を終えると晶子は「富士見野さん、もう少しだけ我慢して」と言いながら彼の無事な右腕を取って先を急ぐのだった。
月夜野と美月が奥の部屋に席を用意してくれていた。そう、晶子と晴久はまたもやルナティック・インのお世話になっていたのだ。晶子にとって頼れる候補はいくつかあった。ひとつは恭平の店、しかしランチで満席であろうこの時間では逆に迷惑をかけてしまう。ミエルに連れられて行ったことがある英国風パブはどうか。いやいや、あの店はまだ開店準備も始まっていないだろう。ならばママの事務所は……確かに一番安心ではあるがきっと晴久が遠慮するに違いない。いっそのこと晴久の事務所という手もあるがそれはむしろ事を荒立てるだけだ。結局は消去法でルナティック・イン、月夜野と美月の二人に頼るしかないのだった。
「電話でお話を聞いていましたが思っていた以上によろしくないですね」
「うん、これ折れてると思うよ、絶対」
頑として席に座らず床にへたり込む晴久をルナティック・インの二人が気遣う。とにかく「自分は不死身だ」を繰り返すばかりで水すら飲もうとしないのだ、さすがの月夜野もこれには呆れるばかりだった。
「富士見野さん、どうかご自愛ください。せめてお水だけでも」
「自分は不死身っす!」
「蓮花姉ぇ、もう放っておくしかないよ、どうせもうじき迎えが来るし」
美月のその言葉に晴久は即座に反応した。
「迎えってなんですか。自分は大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないって。だから蓮花姉ぇがあんたの事務所に連絡したのさ。とにかくすぐに来るってさ」
晴久は血相を変えて急に立ち上がった。晶子、月夜野、美月の三人が慌てて怪我人である彼を制する。そのときだった、来客を知らせるドアベルが乾いた音を鳴らした。落ち着きを無くした晴久を美月と晶子にまかせて月夜野が応じる。
「お待ちしておりました。富士見野さんは奥の部屋に」
「お手数をおかけして申し訳ありません」
ブラックスーツの青年が姿勢を正して頭を下げる。同時にもう二人の青年、続いて彼らの後から眼光鋭い男が現れた。事務所では事業部長を名乗っていた男だ。四人は月夜野のエスコートで奥の部屋に向かう。するとそこでは緊張感丸出しの晴久が直立不動で待っていた。彼を気遣うように晶子もまた姿勢を正して男たちを出迎えた。
「お嬢さん、そこの木偶の坊がご迷惑をおかけしておりますこと、まずはお詫び申し上げます」
「そんな部長さん、頭を上げてください。それに富士見野さんはあたしを守ってくれました」
頭を上げた男は晴久の前に立つと顔色ひとつ変えずに彼の痛めた左腕を掴んだ。晴久の身体はますます強張る。男は握った手に力を込める。それは晴久がどこまで痛みに耐えられるかを試しているだった。男は不敵な笑みを浮かべると今度は痛めた周辺を揉みしだく。晴久は必死に耐えた。自分は不死身のハルクだ、負けてなるものか。
「部長さん、もうやめてください、お願いです。それに早く富士見野さんを病院に行かないと……」
男は晶子を一瞥するともう一度握る手に力を込める。じっと目をそらさず男の目を見据える晴久、ついに男はその手を離した。
「おい、連れていけ」
「か、頭……」
情けない顔で男に何か言おうとする晴久の頭を平手ではたきながら男は言った。
「ミイラ取りがミイラになってんじゃねぇ、バカ野郎が。とにかく車に乗ってろ」
肩を落とした晴久が青年たちに先導されて店の扉の前に立つ。青年の一人が扉を開けて出て行くように促すと晴久は最後に今一度こちらを振り返って晶子に向かって一礼して店を後にした。
「お嬢さん、それにお店のみなさん、このたびはとんだご迷惑をおかけしました。このお詫びは後日あらためて。それとお嬢さん、これからはそこの二人があのバカに代わって護衛しますので、よろしくお願いします」
店の入口に立つブラックスーツの二人が晶子に向かって晴久がそうするように九〇度のお辞儀をする。
「二人ともそれなりに心得もありますのでご安心ください。それでは私はこれで失礼します。おい、お前たち、お嬢さんを頼んだぞ」
「はい」
「承知しました」
そう言って二人の青年を残して事業部長を名乗る男は店を後にした。
嵐が去った後のような中、月夜野がみんなに紅茶を淹れる。しかし二人の青年がそれに口をつけることはなかった。晴久と言い、この二人と言い、とにかくこの場違いな空気をなんとかしたい。とにかく彼らをママのオフィスに送り届けてしまおう。そう考えた月夜野はバックヤードから車のキーを取ってくるとそそくさと店を出て行った。
間もなくして店の外から月夜野の愛車、シトロエン2CVが発する空冷二気筒の乾いたエンジン音が聞こえてきた。店に戻って来た月夜野が三人に声をかける。
「さあ、ママのオフィスまでお送りします。みなさん、どうぞお乗りになってください」
左ハンドルの運転席には月夜野が、そして助手席には青年の一方が、後部座席の左側、月夜野の真後ろにもうひとりの青年が陣取って晶子はその隣に。こうして晶子を左右両方から護衛できる体制が整った。
「それでは参りましょう」
ダッシュボードから突き出たシフトレバーを月夜野は慣れた手つきで操作する。大人四人を乗せた小粋な車はローギアーのエギゾースト音を響かせながら新宿の裏道を走り去って行った。