第5話 ケガをする超人
「ショーコちゃん、さっそくだけど今日もお願いね」
「はい、ママ」
「相変わらずのままだとは思うけど、念には念を入れるってのがこの商売の秘訣なのよね」
学校が夏休みに入って以降、晶子はママに命じられて毎週のように法務局を訪れていた。目的は登記簿謄本の閲覧、とある物件の状況を確認することだ。学校がある間はママの秘書役を務める久米川氏が担当していたが、休みの期間中は今後の勉強を兼ねて晶子にその役を担わせているのだった。
ママが気にしているとある物件とは新宿は歌舞伎町の一角にある雑居ビルだった。建坪はそれほどではないもののすでに更地となっている区画の一部を占めており、その建物がなかったならば土地はきれいな形で利用できるのだ。当然のことながら金にめざとい有象無象が件の物件をなんとかせんと群がり始める。そしてママもまたそんな連中の一人だったのだ。そしてその物件に抜け駆け、すなわち登記の変更など、がないことを確認するのが晶子に与えられたミッションだった。
午前一〇時、晶子は小振りのトートバッグを肩に携えて事務所を出る。ビルのエントランスから外に出ると待機していた晴久がすぐさま彼女の後に付く。
「富士見野さん、今日も法務局。地下鉄で新宿に出たら……」
「JRに乗り換えて大久保駅っすね」
「交通費はあたしが出すし」
「心配要らないっす、大丈夫っす」
そんな会話を交わしながら屈強なボディーガードを従えて歩く晶子の姿はこの界隈ではすっかりお馴染みとなりつつあった。
今日もまた登記の内容に変わったところはなかった。権利関係、特に抵当権にも動きはなくむしろ場所柄にしてはきれいな状態だった。晶子はひと通りの確認を終えて閲覧を終了するとすぐさまママに電話する。
「そう、今日も異常なしね、ご苦労様。それじゃせっかくだから戻って来るついでに物件の様子も見て来て頂戴」
いきなりの現地調査とは。問題の物件があるのは歌舞伎町、先日も仕事の帰りにヤバい連中の襲撃を受けたエリアだ。またぞろトラブルが発生したらどうするつもりなのだろうか。
「大丈夫、まだギリ午前中でしょ、不良連中はまだ寝てる時間よ」
「り、了解です、ママ」
本当にママは気楽なものだ。晶子は呆れたため息とともに電話を切った。そんな晶子の様子を案じた晴久が彼女に声をかける。
「晶子姐さん、どうしました?」
「帰って来るついでに物件を現調しろって、ママが言ってるし」
「承知しました」
「承知しましたって……もしまたバトルになったらヤバいっしょ」
「問題ないっす。そのときは自分が対処します」
晶子は再び力ないため息を吐くと「よし、それじゃ行くし」と気合を入れて歩き出した。
小滝橋通りから職安通りへ、JRのガードを越えた先、通りの名の所以たるハローワークを横目に見ながらさらに東へと進む。やがて何本目かの角を曲がったその先に目指す物件はあった。このあたりにしてはかなりの広さの更地は単管パイプの柵に黒と黄色に塗り分けられたガードフェンスで囲われていた。場所柄だろうフェンスのところどころにグラフィティを気取った落書きがある。その一角にポツンと残る雑居ビルが目当ての物件だ。そのビルの一階では豚骨ラーメンの店が、二階では串焼きの店が営業していた。
まだ開店準備すらしていない串焼き店はまだしもラーメン店からは豚骨を煮出す強い臭気が発せられていた。夕刻になればこれに加えて二階からの串焼きの煙とにおいが立ち込めるだろう。それでも苦情らしい苦情が上がることはなかった。それもそのはず、ビルの所有者は某宗教法人、ならば君子危うきに近寄らずの気持ちで周囲の誰れもがそのビルが早く人手に渡り更地にされることを待ち望んでいるのだった。
「臭っさ、マジで臭いし」
「好きな人にはたまらないかもですが、これはさすがにひどいっすね」
「もう、さっさと終わらせて帰るし」
晶子は憤まんやるかたない様子でスマホに周囲の写真を収めると「ハイ、終わり終わり」と言ってその場を離れようとした。するとフェンスを背にして晶子を護るように晴久が立ちはだかった。
「晶子姐さん、マズいです。できれば得物の準備も」
「わ、わかったし」
晴久の身体越しに数人の不良の姿が見えた。またもや襲撃、それもまさかの白昼堂々だ。しかし敵もそれを意識しているのだろう、手にしているのは長物ではなくひと目ではわかりにくいメリケンサックや伸縮式の特殊警棒、それに刃渡り十数センチメートルほどの小さなナイフだった。
晶子はすぐさま敵の人数を把握する、五人だ。しかし晴久のことだ、少なくとも二人はあっさりと片付けるだろう。ならば自分はできれば二人、最低でも一人は片付けたい。晶子は晴久の身体を盾にしてトートバッグからスタンガンを取り出すとそれを後ろ手に構えた。
「よぉハルク、昼間っからデートかよ。てめえ、調子こいてんじゃねぇぞ」
「今日こそ沈めてやんぜ」
その声を合図に男たちが晴久に襲い掛かる。晶子を護らねばならない彼にはいささか分が悪い。しかしそこは不死身の超人、猪突猛進であっという間に二人を舗道に沈めた。そして三人目を倒さんと敵の右腕を締め上げたそのときだった、一人の不良が隙を突いて晶子に襲い掛かった。
「ハルク、そこまでだぜ。てめえの女がどうなってもいいのかよ」
晴久は締め上げている手を緩める。すると敵はすぐさま晴久のボディーに一発、しかし鍛え抜かれた腹筋にはまるで効果はなかった。
「あ、ふざけんな、女!」
晴久の目の前で特殊警棒を構える男が声を上げる。晴久が振り返ったそこでは晶子に襲い掛かった男が地べたに転がっていた。晶子はすぐさま自分の得物が気付かれぬようにと再びスタンガンを後ろ手にしていた。
「姐さん、さすがっす」
「富士見野さん、ほら、前、前!」
晴久が視線を戻すとそこには今まさに彼に襲い掛からんと小脇にナイフを構えた男が向かって来た。その手元を掴んで捻り上げると男は苦悶の声を上げる。そのまま力を緩めずになおも捻ると男は声を上げて痛がりながらアスファルトの上を転げまわった。
残るはあと一人だ。しかし最後の男は既に特殊警棒を晴久目掛けて振り下ろしていた。間に合わない。晴久は左腕で敵の攻撃をまともに受けてしまう。いやな音とともに視界が揺らぐ。左前腕部にかなりのダメージを受けたようだ。
晴久の顔が一瞬歪むもそれはすぐに怒りに満ちた顔となり無事な右腕で敵の喉元にラリアット、受け身を取る間もなく路面に後頭部をまともに打ち付けた男はそのまま意識を失った。
周囲を見渡すと人だかりができ始めていた。とにかく早くここから立ち去らないとまずい。しかも晴久は痛手を負ってしまった。もしかすると腕の骨が折れているかも知れない。
「富士見野さん、腕、ヤバいし」
「大丈夫っす、自分は不死身っす」
「そういう話じゃなくて、病院に行かなきゃだし」
「自分は不死身っす、姐さん、事務所に戻りましょう」
「でも……」
「自分、不死身のハルクっすよ、問題ないっす」
そう言いながら晶子に微笑む晴久の額にはいやな感じの汗が浮かんでいた。