第4話 うろたえる超人
「姐さん、下がってください!」
晴久の声に従って晶子は背後に注意しながら数歩下がる。しかし彼女もまた怯むことなく、目の前の屈強な青年が窮地に陥ったときに備えてスカートの中に隠し持っている愛用のスタンガンをいつでも抜き出せるように身構えていた。
晴久は一人、二人と着実に片付けていったが、やはり敵は丸腰ではなかった。ついに残る二人が隠し持っていた得物を手にする。黒髪短髪の一人は伸縮式の特殊警棒を、そして金髪のもう一人はナイフを構えた。
ここで晴久は瞬時に判断する、まずはナイフの野郎を片付けようと。警棒は頭への一撃さえかわせばなんとかなる、しかしナイフはそうはいかない。晴久は突進してくるナイフの男の右手を掴んで締め上げると、男の手首と腰のベルトを掴んで盾代わりにして続く特殊警棒の攻撃に臨んだ。
しかし乱闘騒ぎは呆気なく幕を閉じる。なんと晶子が晴久に襲い掛からんとする警棒の男に愛用の得物である機能強化されたスタンガンの一撃をお見舞いしたのだ。続いて「動くなし!」の声とともに晴久が固めている金髪のナイフ男も片づけてしまった。
「とっとと逃げるし」
晶子は得物をスカートの中に忍ばせたホルスターに収めると晴久の手を取りながら野次馬たちの合間を縫って目の前の路地に駆け込む。こうして二人は夕刻の乱闘現場を後にしたのだった。
「ハア、ハア、ハア、ここまで来ればもう大丈夫だし」
二人は歌舞伎町の裏路地を縫うように走りながら新宿区役所の脇を抜けゴールデン街を横目で見ながら明治通りの交差点までやって来ていた。交差点の信号が青に変わる。相変わらず晶子が前に立って横断歩道を渡る。ここから先は繁華街の喧騒とは打って変わって静かなエリアだ。しかし敵の正体が掴めない以上油断はできない。晶子はひとまず腰を落ち着けようと知った顔の店へと向かった。
「富士見野さん、ここで休憩するし」
そこは以前の事件でママが掠め取った、もとい買い取ったカフェだった。新宿の中心地からいささか離れたあたりに建つそこだけが異空間のような木造建築に重厚な木製扉、頭上には黒いペンキで書かれた店の名があった。
「Lunatic INN」
そう、ここはかつて晶子の兄が死亡するきっかけとなった事件の舞台、そして晶子とミエルが出会った場所でもあった。事件の頃からずっと相変わらずメイド気取りの女性二人は店の切り盛りのみならずママの依頼で晶子たちの仕事を支援をすることもあった。しかしそれでも晶子は彼女たちに気を許したわけではなかった。でも今は背に腹は代えられない、春久は怪我をしているかも知れないし、なにより晶子自身も気を休めたかったのだ。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりましたわ」
ビクトリア調のメイド服の女性が柔和な笑みで二人を出迎える。店長でもある彼女の名は月夜野、まるで店の経営には向いてなさそうなおっとりタイプの彼女が窓際のテーブルを二人に勧める。しかし晶子はそれを断って店の奥に近い席を選んだ。
席に着くなり晴久は晶子に耳打ちする。
「姐さん、さすがです。追っ手の目を気にして窓際を避けたんですね」
「まあね、それにあたしはこの店の関係者みたいなもんだし、やっぱいい席はお客様のためにっしょ」
「ますますさすがっす、姐さん」
「いや、富士見野さん、その姐さんってやめるし。晶子でいいし」
「それはいけません、姐さんを呼び捨てにはできません」
「でも、姐さんって……だって富士見野さんの方が年上だし」
「それならば晶子姐さんと呼ばせていただきます」
「はあ、もう好きにするし」
そんな会話をしているところに月夜野がトレイに冷たい水を載せてやって来た。注文を尋ねようと伝票を手にした彼女にが晶子は開口一番「とにかくノドがカラカラだし、アイスティー」と声を上げてから取り繕うように晴久に尋ねた。
「……って、富士見野さんもアイスでよかったかな?」
「自分は姐さんに合わせます」
「それじゃアイスティー二つで。ストレートでお願い」
「かしこまりました」
月夜野が仰々しく芝居がかった礼をしてカウンターの奥へと引っこんでいく。その姿を追いながら晴久は再び晶子に耳打ちした。
「ところで晶子姐さん、この店は大丈夫なんですか?」
晶子の口から出た、自分は関係者である、との言葉が気になっていた。しかし詮索はご法度である、そこで晴久はそんな問いを投げかけた。
「問題なしっしょ。なにしろこの店のオーナーはママだし」
「そうですか、それならば安心です」
「だから富士見野さんも気を楽にするし」
「いえ、自分、こういう店は初めてで……」
「でもこれからはちょくちょく来ることもあるし、とにかく馴れるし」
「はっ、承知っす」
月夜野がトレイにアイスティーを載せてやってきた。晶子が自分で作るアイスティーはうっすらと濁ってしまうのだが、目の前に置かれたそれはまったく濁りのない宝石のような美しさだった。月夜野が言うにはアイスにはアイス専用にブレンドした茶葉を使っているのだそうた。淹れ方のコツを尋ねたつもりがカフェインとタンニンのバランスやらの講釈じみた話に発展してしまい、晶子は辟易しながら聞き流した記憶があった。
それにしても客がいない店だ、そろそろ学校帰りや仕事帰りの老若男女の一組くらいやって来てもよさそうな時間なのだが。いくらママの支援があるとは言え、それでもこの店を続けていられるのが晶子には不思議でならなかった。
そんなことを考えている晶子を横目に、月夜野も手持ち無沙汰なのだろう、目の前の青年と挨拶を交わし始めた。
「月夜野と申します、以後お見知りおきを」
「自分、富士見野晴久っす。今は晶子姐さんの護衛を命じられております」
晴久はその場で起立すると九〇度の礼をした。その姿に怯むことなく月夜野は話を続けた。
「お話はママからうかがっております。なにしろ前の事件は……」
「月夜野、もういいし。それより救急箱が欲しいし」
「もしやどこかお怪我をされておられるのですか?」
「それをこれから確かめるし。大丈夫だと思うけど念のためっしょ」
「晶子姐さん、自分は問題ないっす。自分は不死身っす」
「いいからまかせるし」
そう言って晶子は晴久のジャケットを脱がせると出血の有無を確認する。傍らでは救急箱を手にした月夜野もその様子をうかがっている。
「右腕を上げて、次は左。お腹は大丈夫? ちょっと見るからワイシャツの裾、めくるし」
テキパキと動く晶子に晴久はすっかり言いなりだった。それにしてもこんな気遣いをされたのは彼にとっては初めてのことだった、それも二人の女性からだ。晴久は少しばかりうろたえる。そして自分の顔が紅潮していくのを感じていた。そんな気持ちを誤魔化さんと、彼はおしぼりで自分の顔を何度も何度も拭うのだった。