第2話 ママの奇策と超人
新宿でも繁華街の喧騒から少しばかり離れた一丁目の一角にそのビルはあった。五階建てにもかかわらずエレベーターすらない小さく古ぼけた雑居ビルの最上階にあるのがその道では知らぬ者はいない、その名も新宿のママと呼ばれる女性実業家の事務所だ。そろそろ夏休みが近いある夕方、晶子は学校帰りの制服姿でやって来た。
「おはようございま――す」
芸能人や夜の商売にたずさわる連中と同じく晶子も事務所では昼夜を問わずそんな挨拶をする。ビルの前では青いコンパクトカーとともに前の事件からママの事務所にたびたび顔を見せるようになった緊縛師を名乗る青年、高英夫がママと談笑していた。
「おっ、おはよう、ショーコちゃん。制服姿なんて初めて見たなぁ、なんとなく得した気分だぜ」
「今日はミエルもいないし、電話番だし、なので制服のままでいいかな、って」
普段の晶子は突発的に発生する外回りの仕事に備えて私服に着替えてから事務所に顔を出していた。しかし今日はママから事務所の電話番を命じられていたこともあって着替えずに学校から直行して来たのだった。
「そろそろミエルちゃんも来るだろうし、そうしたら私は高先生とあの子を見送ってから事務所に戻るから、ショーコちゃんはその間の電話番をお願いね」
それだけ言うとママは高英夫との談笑を再開する。晶子はママに形だけの一礼をして見せるとすぐさまビルの中へと消えていった。それにしてもこの階段には毎度辟易させられる。薄暗いし狭いし学校の階段に比べて角度も急に感じる。いつもならいっしょに出勤するミエルに不満をぶつけているところだ、そうすることで溜飲を下げるかのように。しかし今日は晶子ひとりだ、やけに長く感じる五階までの道のりを彼女は黙々と昇って行った。
誰もいない事務所に着いたとき、晶子の背中と胸元は少し汗ばんでいた。それもそのはず、夏服とは言え女子の制服はジャンパースカートだ、晶子は私服に着替えなかったことを後悔していた。とりあえずエアコンの温度を少しだけ下げて風量も強めにするとまずはデスクの拭き掃除を始めた。
窓を背にしたひと回り大きいママのデスクに載っている諸々はできる限り現状のままにしておくよう気を遣う。二台ずつ向かい合わせに並ぶ四台のデスクは入口に近い方が晶子の、その向かいがミエルの席だった。そしてママに近い方のデスクは時折やってくる東新宿署の相庵警部の定位置として常に空けてあるのだった。
警部がここにやって来るたび晶子は専用の湯呑みにお茶を注いで応接テーブルに置くのだが、警部はそれを手にすると立ち上がって事務所内を歩きまわりながら会話する。そして最後に決まって定位置のデスクに陣取ってすぐ目の前のママと話し込む。彼曰く、応接テーブルでは事務所の面々、それはミエルと晶子なのだが、よりも目線が低くなってしまうのを嫌っているらしい。警部は長年の習慣で相手との会話は常に対等か少しばかり自分が優位なポジションを取るべきだと考えていた。そんな相庵警部も先の事件以来、もう半月以上顔を見せない日が続いていた。
「貞夫ちゃんも前の事件の後始末で忙しいのよ。闇カジノ、地上げ絡みの殺人事件、その上重要参考人になるはずだった大門会長までが亡くなってるんだから。でもね、おかげでこっちの厄介事も徐々に片付いてるんだから、そうね、このまましばらく来ないでくれるとありがたいわね」
めずらしくママがそんな本音を漏らす姿を思い起こしていると窓の外で車のドアを開け閉めする音が聞こえて来た。晶子は手を止めて窓辺に立つと閉じられたブラインドを上げて下界を見下ろす。案の定、そこに見えたのは車を前にしたママと高英夫、それに大荷物とともにやって来たミエルの姿だった。
ミエルは黒い厚手のナイロン生地のリュックを背負って同じ材質の大ぶりのスポーツバッグを抱えていた。その上これもまた黒い頑丈そうなキャリングケースも引きずっていた。
「どんだけ持っていくし、あいつ」
あの荷物の中身、そのほとんどは私服と下着、それにアクセサリー類だろう。リュックには前の事件で敵の親玉から《《せしめた》》ドローンも収まっているかも知れない。高先生とのステージ衣装は、相変わらず露出が多いだろうからさほどかさばることはないだろう。しかし女子である晶子の目から見ても異様とも言える大荷物だ。
「だってしょうがないじゃないか。女の子の身だしなみとか、そもそもボクは男子なんだから女の子よりもいろいろあるんだよ」
言い訳がましくそんなことを言うであろう姿を想像しながら晶子は眼下のミエルに呆れた笑みを見せるのだった。
二人を乗せた車を見送ったママが事務所に戻って来た。
「さてと、これであの二人の件はずいぶんと楽になったわ。あとは仕込みがうまく行けば当分は安泰ね」
仕込み、それはママの奇策のことだった。前の事件でミエルは悪徳地上げ屋の野望を打ち砕いた。しかし問題はその後だった。大門会長を殺したのは縛り屋とバニーガールだとか事実に尾ひれがついた噂は新宿のアンダーグラウンド界隈に一気に広まってしまった。ダイモングループと利害関係にある連中は表にも裏にもかなりの数がいる。このままでは遅かれ早かれ犯人探しと報復が始まるだろう。そんなことでミエルを失うわけにはいかない。そこでママは一計を案じる。ミエルと高英夫を死んだことにしてしまうのだ。
そして作戦は見事成功、アングラ劇団を使ってのひと芝居が功を奏して二人の身の安全は保たれたというのはまた別のお話、さてお次は晶子の番だ。ママは彼女に向けても策を講じていた。
「ところでショーコちゃん、これから言う事務所に行って頂戴。場所はあなたが住んでるのと同じビル、あなたの部屋の真下にある事務所よ」
「はあ……」
「心配要らないわ。ミエルちゃんの次はあなたの番、でも事務方のあなたに疎開してもらうわけにはいかないのはわかるわよね。だから護衛をつけることにしたの」
不安な面持ちで返事に困っている晶子にママはいつも仕事を命じるときのように目を合わせることなく淡々と続けた。
「話は通してあるわ。とにかく行けばあとは向こうさんが全部段取りするからまかせておきなさい。それで今日はそのまま帰っていいわ。それじゃ、いってらっしゃい」
肝心なことは何も話してくれないママの命令口調に少しばかりの不安を感じながらも晶子は「わかりました、お先です」と言うと、ママに一礼して事務所を後にするのだった。
※本文中に登場する前の事件とはこちらです。
エスケープ・フロム・デーモンタワー ~ ミエルと晶子の救出、脱出、危機一発!
https://ncode.syosetu.com/n7648ix/
※ミエルの疎開のお話についてはこちらをどうぞ。
アウルズフォレスト・コネクション ~ 男の娘探偵は二度死ぬ
https://ncode.syosetu.com/n4356jm/